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伊藤計劃を読むためのn冊 その8 J・G・バラード『結晶世界』

『Genkai vol.3 伊藤計劃以後』の特集記事「伊藤計劃を読むためのn冊」の原稿を再掲します。

J・G・バラード『結晶世界』

結晶世界 (創元SF文庫)

結晶世界 (創元SF文庫)


ふっと、死に引き寄せられる瞬間がある。それは例えば電車のホームの端を歩いているときに感じる落下への衝動であり、また例えば、不意に就寝の前に布団の中で呼吸を永遠にとめてみたくなる衝動でもある。自分が、そして世界が幕を閉じるというイメージはそれを自分で見ることができないゆえに魅力的で、幻想的だ。

バラードはそんな「破滅」を描くことを得意とした作家だった。

 その理由の一端は、バラードの生い立ち、つまり戦時中、日本軍に支配された上海で育った過去にあるのではないかと僕は思う。男の子なら誰しも幼いころは、強さに憧れるものだ。バラードは上海で残虐とも言える日本人の強さに憧れて育ったというが、このときバラードはその強さの根底にある、日本人が持つ「滅びの美学」、国のためなら破滅に向かって進むことさえ幸福であると信じる力に影響を受けたのではないだろうか。

 思春期になるバラードは家族とともに収容所に入れられ、そこで抑留者たちの蔵書から物語の重要性を学び、作家になるための脳の土台を作った。その間日本兵はバラードに優しくしてくれていたが、日本が不利になると状況は一変し、辛いものになった。そして日本に原爆が落ち、戦争は終わる。

 日本人による抑留によってアカデミックな生活ができ、日本人を殺した爆弾によって辛い生活から逃れられる。バラードが破滅に引き寄せられるのは、こうした日本とのパラドキシカルな関係から生じたのかもしれない。

 伊藤計劃の『ハーモニー』で描かれる世界は、誰もが互いを気遣って、人が完璧な医療を受けざるを得ないユートピアである。自分の身体は自分だけのものではない、だから健康から逸脱することは許されない。そんな倫理が最上に置かれた優しい社会に、『ハーモニー』の主人公は疑問を覚える。

 バラードの代表作『結晶世界』の主人公も、退廃に染まり「死」あるいは「不死」に近づいてゆく。『ハーモニー』のラストの世界は、「死」と「生」の区別がつかないという意味において、「結晶化」に通じるものがある。

 そんな、世界が結晶化してゆく終末を退廃的な美をもって描いた本作を、僕は高度なメタフィクションだと考える。

 かつてバラードは、世界の破滅というアイディアは無意識の領域に潜在している、という精神医学の研究を引き合いに出して、「作家が飽くなき工夫を重ねて破壊している惑星は実は作家自身の姿だということだ」と書いたことがある。「破滅の物語は時空間構造を分解しようとする試み」であり、SF作家は大災厄物語のなかで「自然自体には発明できなかった無限の代替現実を描写する」のだという(J・G・バラード著、木原善彦訳『J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド』より)。これらはそのまま、『結晶世界』の説明にもなるだろう。

 そこは「空間と時間の最後の結婚」が始まった世界であり、「時間が底をつこうとしている」世界である。つまりこれは、小説世界そのもののことなのではないだろうか。作家は小説を書くことで小説の中の時間を進めている。作家が筆をおいて小説を完成してしまうと、時間は氷漬けになり、登場するすべてのものは美しく結晶化される。

 「バロック芸術の複雑に入り組んだ紋章や巻軸装飾は、それ自体の空間量以上の空間を占めていて、そのため、より大きな、包みこむ時間を内に擁し(中略)不死性の予感を与えてくれる」。この作中の文章は、『結晶世界』自体への言及にも思える。それは、どんなものも白と黒に分かれて見えるようなこの作品世界における、生(性)=白と、死=黒の区別がなくなった先に存在する不死性で、この作品が愛人と病気という一見SF的ではないものを廻って動いてゆくのは、この構造自体のメタファーなのではないだろうか。

 『結晶世界』の最後で主人公は、比喩的な意味において「モント・ロイヤルの水晶状になった街路のどこかに、彼自身の行方不明の分身がみずからのプリズム的な世界の中で生きつづけているのだ」という状態に陥る。この文章は、小説世界に書かれてしまった主人公が小説の終わりに際し、小説という枠組みから去る身体と小説に書かれた身体に分裂してしまう、という読み方もできる。

 伊藤計劃は、「人という物語」に見られるように、「フィクションを語る」ことで「生き続ける」ことを目指した作家であった。だから伊藤計劃が亡くなったこの世界においても、僕たちは彼自身の結晶=小説を読み込むことで、物語に埋め込まれた、死と向き合っている伊藤計劃の感情を生起することができる。そう、伊藤計劃の行方不明の分身は、みずからのプリズム的な世界の中で生きつづけているのだから。(ドージニア道人)

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「伊藤計劃以後」記事まとめ