限界研blog

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清涼院流水『神探偵イエス・キリストの冒険』『神探偵イエス・キリストの回想 逆襲のユダ』書評

 これまでの書評では最近のメフィスト作家がいかにデビュー作以降のイメージを払拭してきたかという試行錯誤に注目してきた。とはいえ、そのような取り組みはメフィスト作家に限らず、作家なら誰でも多かれ少なかれ直面するものであり、その壁は初期作品が衝撃的であればあるほど、作家の前に高くそびえる。

 世に出たミステリ作品(小説全般?)のうち、毀誉褒貶がもっとも激しいデビュー作が、第2回メフィスト賞受賞作『コズミック』であったことは論をまたないだろう。評価の振れ幅の大きさゆえに、清涼院流水の作風とは『コズミック』という巨大な壁との闘いの歴史であったと言っても過言ではない。3作目である『19ボックス』のなかがきには、「3作目は薄く」という編集者からの提案と、JDCからいかに離れるかという模索について書かれているし、『コズミック・ゼロ』の文庫版には〝「コズミック」を「ゼロ」にするための16年間〟と題したあとがきが掲載されている。そこには「ぼくのデビュー作(に限らず昔の作品)は読まないでください」とまで書かれていることからも、読者の印象に残りすぎてしまった『コズミック』のイメージを消し去りたかったことは間違いない。

 しかし、デビューからまもなく30年になろうという2025年現在においても『コズミック』はゼロになっていない。それどころか『ジョーカー』とともに復刊されてしまい、毀誉褒貶の激しい感想が行き交う、かつての状況を令和の時代に甦らせてしまっている。そんな中、清涼院が放った乾坤一擲の作品、それが『神探偵イエス・キリストの冒険』だ。

 『神探偵イエス・キリストの冒険』は聖書に書かれた出来事をミステリに仕立てた短編集だが、清涼院が聖書ミステリを書いたことに驚かされた読者も多いと思われる。探偵役のイエスは病を治す、水をワインに変える、などの奇跡に加え、過去も未来も見通す――つまり、神探偵イエスは事件が起きる前からトリックも犯人も知っている。そのうえで、使徒ヨハネの視点から見た謎と解決とを描いているのである。

 キリスト教の教義だとか信仰自体、そして奇跡が起きること自体も当然、謎解きには絡んでくる。全知全能たる神そのものが探偵役、そして奇跡があるという特殊設定は現代ミステリのトレンドそのものだが、リアルタイムではなくフォロワーが出てからあらためて評価されたり、数年後になってトレンドになるものを扱いがちな作風から、清涼院自らトレンドに寄せていったとは考えにくい。クリスチャンとなった清涼院が自分の書くべきミステリを見出した結果、現代のトレンドと合流した点は、まさに奇跡的な偶然である。

 聖書から離れて無根拠なことは書けないという縛りが強いせいか、1作目は地に足の着いた聖書ミステリだった。ところが、2作目『神探偵イエス・キリストの回想 逆襲のユダ』で本格ミステリとして、〝華麗なる飛翔〟を示したのだ。

 その〝飛翔〟とは、かつて「木村間の犯罪×Ⅱ」などで見せた良質な謎解きを再び示した……だけにとどまらず、イスカリオテのユダの、前代未聞の正体を、懐かしさのある驚きとともに提供してくれたのである。

 注目すべきはその真相の「見せ方」だ。
 実を言うと本作では、探偵側ではなく、謎を生み出した側の口から真相が読者に伝えられている。もともと神探偵はすべてを見通しているため推理をせず、使徒の視点から真相を推し量ることが多いシリーズだが、使徒ですらなく犯人側から真相が伝えられる本作の形式は『カーニバル』や『トップラン』との解決編と同じなのである。20年以上の時間が経過しても一貫していると言うことも可能だが、2006年のインタビューで清涼院は、その形式を選んだのは「本格の放棄のため」だと答えていた。

 だが本作では逆に、本格ミステリにならんがため、その形式を選んでいるのである。あとがきを読めばわかるが、清涼院が敬愛する本格ミステリ作家のデビュー作も真相の語りは『逆襲のユダ』や『カーニバル』などと同じ形式をとっていた。

 2000年前後の清涼院作品には非本格をめざしながらも本格の先達と同じ見せ方を選ぶという捻じれが存在していた。それはそれで魅力でもあったのだが、捻じれが解消された本作は「本格に対する信仰告白」とでも言える、素直な本格ミステリになったのではないだろうか。

 ところで、先程筆者は神探偵シリーズを特殊設定と紹介した。
 水がワインとなることも、人間が湖の上を歩くことも、さらには一度死んだ人間が数日後に甦ることも、現実の法則とは異なる特殊な状況である。よって『逆襲のユダ』は特殊設定ミステリ――と言い切って良いのだろうか。日本国内には200万人弱、世界に目を向ければ20億人以上のクリスチャンがいる。彼らにとって、イエスが奇跡を起こすことは特殊なことではない。ごく当たり前のことなのではないか。

 そう考えてみると、日本人にありがちな無宗教(むしろ神仏習合的感覚)の読者にとっては神の奇跡の実在が前提の特殊設定ミステリ、一方、クリスチャンにとっては聖書の謎を解き明かす歴史ミステリとして読むことができるはずだ。

 読者ごとに複数の読書体験を用意する――かつて清涼院がよく取り組んでいた読者を巻き込む試みが、『神探偵』シリーズからもまた、読み取れるのである。そのような懐かしい試みは、『イエス・キリストの冒険』の最終盤における真犯人の指摘シーンにも顕著に表れている。

「神探偵」シリーズはこれまでよりも幅広い読者層に向けられた、これまでとは異なる傾向の作品であることは確かだが、変わらない部分も確かにある。変わらない部分を残したまま、いかにシリーズが飛翔を続けていくのか、今後が楽しみである。

須藤古都離『ゾンビがいた季節』書評

 須藤古都離もまた、潮谷験同様、柾木政宗と同じような立ち位置にいる。須藤も柾木のようにデビュー作の印象が読者の中に強く残っているせいか、作品ごとに作風を変えており、その変化は潮谷よりも自由奔放だ(潮谷は謎解きという軸足自体は動かさない分、須藤よりも制限が多い)。

 須藤古都離は〝ゴリラ〟と〝裁判〟という一般的には結び付かない単語を組み合わせ、変人弁護士によってゴリラの権利を主張する裁判を描いた『ゴリラ裁判の日』でデビューした。さらに2作目である『無限の月』はデビュー作『ゴリラ裁判の日』ともまた異なるタイプの物語だった。
 日本で暮らす男性がSF的なアイテムを用いて、中国で暮らす女性の過去を追体験することで、彼我の境界が曖昧になっていく冒頭から始まり、主に中国を舞台にしたサスペンスへと展開は移っていくのだが、物語の底には曖昧さの肯定があるように思えてならない。

 知能を持ったゴリラが現状を変えようと積極的に行動する『ゴリラ裁判』と、科学装置によってふたりの人物がそれまでの人生を共有することで、その相手の人生に(やや現実逃避的に)憧れていく『無限の月』では方向性が違うように思えるが、それでもヒトとゴリラ、彼と彼女、その境界線を無くそうとする/無くなっていくという共通点が存在している。さらに付け加えると、太極図のように白と黒とに分かれながらも、両者が混ざり合った部分を白や黒だと強制的にグループ分けするのではなく、そのまま曖昧な部分として許容する、そんな優しさが両作ともに垣間見えていた。
 そんな2作品に続く須藤の3作目は〝ゾンビ〟ものだった。

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潮谷験『名探偵再び』書評

 ……というような『食刻』と実に対照的なのが、『食刻』のひと月後に発売された潮谷験『名探偵再び』(講談社)である。

 柾木と同じくメフィスト賞の出身である潮谷はデビュー作である『スイッチ 悪意の実験』以降、特殊なシチュエーションや、虚構設定の奇病、SF的な設定の中に登場人物を放り込み、その状況でこそ輝く論理を用いた謎解きを得意としていた。その方向性を選んだ結果として、名探偵や館、密室などといった本格ミステリのガジェットとは一定の距離をおいていたように思える。

 それが『伯爵と三つの棺』で架空の歴史を描きつつ、古典本格への急接近を試みたかと思うと、最新作『名探偵再び』ではタイトルや表紙が示す通り偉大な名探偵をテーマに、本格ミステリの要素に満ち溢れた連作短編集を書き上げたのである。

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柾木政宗『食刻』書評

 一般的な読者が柾木政宗に対して抱くイメージは〝絶賛か激怒しかいらない〟と帯に書かれたデビュー作『NO推理、NO探偵?』(講談社ノベルス)によって確立された。

 推理を封じられた女子高生探偵が助手と共に推理力以外で事件に立ち向かうメタコメディな連作短編ミステリだが、ラストにおける前代未聞のメタフーダニットは読者に強烈な印象を与えた。この路線は、続編である『ネタバレ厳禁症候群』(講談社タイガ)に引き継がれており、また出版社を変え、ラブコメミステリである朝比奈うさぎシリーズも2作書かれている。

 しかし、すでにデビューから7年以上が経ち、最新作『食刻』(講談社)で8作目となるそのキャリアにおいて、コメディ路線の作品はその半分――4作品だけなのである。清涼院流水がそのキャリアの3分の1=10周年の時点で文SHOWを使わなくなったのに、20年が過ぎた現在でもいまだに文SHOWのイメージで語られることがあるのと同様、強烈な衝撃を与え過ぎた初期作は路線を変えても読者の印象に残り続けるという例だろう。

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