限界研blog

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限界研読書会――東浩紀『訂正可能性の哲学』

限界研の琳です。こんにちは。

限界研では毎月読書会を行っており、今回からこれを紹介して行くことになりました。が、たぶん発言録的に書くのが読みやすかろうと思いながらさっそく録音し忘れ、やむなく今回は体験記風にまとめてみました。自分の目線から見た限界研読書会で、かなり主観的な内容になってしまいましたが他意はありません。次回からは準備を大事にしたいと思います。

さて、記念すべき第一回目の課題本は東浩紀『訂正可能性の哲学』でした。先日姉妹編といえる『訂正する力』も出版されたばかりで、まだまだ話題の本ですね。読書会もかなり盛り上がりましたが、まずは前日までの読書から話を始めてみます。


genron.co.jp

「本書は、五十二歳のぼくから二十七歳のぼくに宛てた長い手紙でもある──」世界を覆う分断と人工知能の幻想を乗り越えるためには、「訂正可能性」に開かれることが必要だ。ウィトゲンシュタインを、ルソーを、ドストエフスキーを、アーレントを新たに読み替え、ビッグデータからこぼれ落ちる「私」の固有性をすくい出す。『観光客の哲学』をさらに先に進める、『存在論的、郵便的』から四半世紀後の到達点。


自分の場合は一度ざっと読み、読書会までに再読しました。全体の印象として、かなり面白かったです。特にルソー読解が素晴らしく、文芸評論としてはリスペクトしかないですね。これだけ入り組んだ論理をするする読ませる筆力もすごいし、硬派な論考を一万部を超える売上に結びつけられる人気もすごい。同じ批評をやっている身として、ここまでやれるんだと勇気づけられるものがありました。


ただそのうえで、自分には著者の意図をつかみきれない箇所がいくつかあり、平易なようで難解な本という印象もうけました。具体的にここでは2点ほど、難しかったところを挙げておきます。

まず、そもそも訂正可能性とは何なのか、というところで自分は躓いてしまったんですね。たとえば本書で「ソクラテスは女である」は訂正可能とありますが、同じ固有名でも「東浩紀は女である」だと反証可能な命題に変わります。同じように数学の訂正可能性を示す「クワス算」も、重さ(68g+57g=125g)とか人数(68人+57人=125人)で考えると、やはり反証可能な命題に変わっていきます。

これらはいずれも、構成的な概念から実体的なそれへの写像によって生じた変化です。そうなら訂正可能性とは反証可能性の裏返し、反証不可能性の話をしているだけのものなのか、と考えたくなるわけです。

でもそうすると、実体なき構成的概念はすべて人文学の射程に収まり、AIなども人文学になっていきます。ところが本書によれば、人文学は訂正可能であるがゆえに人工知能民主主義に対峙しうるものであり、この解釈では本書の主張と矛盾します。

そういえば本書には、訂正は感情によってなされるような記述もありました。そうなら東的訂正とは矛盾を許容するものかもしれないと、次に考えました。しかしそうなら、例え反証チェックを通過した科学命題だろうと、いかようにも訂正し得るものとなり、可能も不可能もなくなってしまう。クワス算のような面倒な手続きは最初から要りません。あらゆる言明もエビデンスも実体もすべて無制限に訂正できる社会は、もはやディストピアと思えてきます。

そういった感じで自分には、訂正可能性なる着想が人文学をいかに境界設定しうるのか、どうも著者の考えを掴みきれなかったのです。

クワス算については、もうひとつ気になる点があります。本書は連帯の前提として、プラスかクワスかの二者択一を強いています。自身にせよ他者にせよ、ゲームのルールや固有名をどちらかの世界観やキャラ設定に揃えることで共同体は訂正され得ると、著者は思考実験を進めています。自分はこれが気になりました。世界は友敵に分断されていると著者は書きますが、クワスかプラスかの二者択一を強いるクリプキ的共同体もまた、まさに友敵の境界を鮮明にしているように感じられたからです。

よく共感にはエンパシーとシンパシーと二種類あると言われます。エンパシーは理解、シンパシーは同情と訳されたりもします。シンパシー的な連帯は感情を分かち合えない他者を排斥する一方で、分かち合える他者とは強い同朋感情で結びついていきます。シンパと言ったりもしますね。プラスであれクワスであれ、一面的な世界観で他方を消去するクリプキ的共同体には、どこかシンパシー的な連帯を彷彿とさせられるものがありました。

他方、エンパシー的な連帯は、感情ではなく理性によって、他者との共感を可能とします。プラスをクワスに訂正するのではなく、プラスもクワスもどちらの世界観も二重写しに見るということです。シュレディンガーの猫のような多重露光の世界観というのでしょうか。

そもそもそれまで伝統的にプラス算という無矛盾な公理体系を利用してきたひとたちが、ある日クワス算の可能性を指摘され、おもしろいね、じゃあ今日からクワス算を使いましょうと、これをあっさり訂正できてしまうものですかね。クワス算は思考実験ですからもう少し実践的な話をすると、例えば障害を持った方やLGBTなど抱えている方の身体性からくる価値判断を、マジョリティが受け入れ同じ価値観で生きていくことって結構難しいのではないでしょうか。立場が逆ならもっと難しいでしょうし、相手がゴリラとか宇宙人なら難易度はさらに高まる気がします。そう考えたとき、プラスかクワスかの二者択一を強いるクリプキ的共同体とは、結局のところ、異質な他者との分断が避けられないのではないか。そう思えたのです。

ただ、本書のバフチン的喧噪や家族論にフォーカスすると、東的共同体はクリプキ的なそれよりもっと偶然的でゆるい繋がりとも感じられます。そこにはプラス派もいればクワス派もいて、それぞれが自らのルールで好き勝手に騒いでいる。にもかかわらず彼らは偶然同じところに居つき、なんとなく家族的なもののように遡行的に見えてしまっている。そんな共同体とでも言うのでしょうか。

しかしそうなら、こうしたゆるい共同体論の理論的基礎としてクリプキ的なコミュニケーション論を据えた事が今度は不自然に思えてきて、やはりよくわかりません。ここも自分には著者の意図を掴みきることが難しかったわけですね。

そんないくつかの疑問を抱え読書会に参加し、自分の順番では上に書いたようなことをしゃべりもしましたが、読書会の性質上、結論を出したり意見をすり合わせたりするのが目的ではないので、ちょっと広がりにくい意見だった気もしました。次回はもう少し、議論を発散させられるタイプの話題を提供できるとよいなと、これを書くことで反省させられました。


さて、読書会ででた意見を以下に抜粋します。

  • 探求からクリプキをもう一回やっている。NUMでなくてゲンロンだ、ということかと。
  • リベラルの開くことへの安易な賞賛に対して、閉じ方を模索するような議論は興味深い。そして、そこから訂正可能性という論点に向かう方法は東の政治的な感覚が出ているようにも感じて、論点が広がりそう。
  • トクヴィルの話からアメリカの民主主義へと訂正可能性の話を広げていくのは、今後の具体的な展開として興味深い。
  • 『一般意志2.0』が出た時、別の読書会でとりあげた。そこでは、テクノロジーによる民意の集約を筆者がどうとらえているのか、肯定的か否定的かで意見が割れていた。今回『訂正可能性の哲学』では、一般意志2.0の人工知能民主主義の限界が指摘されていて、10年ごしに理解できた。
  • 動物化するポストモダン』のデータベース消費は、実は言語的なモデルではないか。文から単語を抽出し辞書に格納し、辞書から取り出した言葉を組み合わせて新しい文を作る。小さな物語ー萌え要素ーデータベースの二層構造と似ていないだろうか。『訂正可能性』も言語論になっているが、東浩紀の姿勢は昔から一貫している気がする。
  • 『訂正可能性』では、訂正の発端として、クレーマーとハラスメントが言及されているのが印象的だった。
  • 家族論とコロナ渦の関係や、エッセイ的なスタイルとゲンロン経営など、実践的な内容。国や政治の本質直観として家族が出てきているのかと。福島瑞穂歴史修正主義に対する態度など、疑問を感じる部分もあったりする。

こんな感じで、いろいろ意見が出ました(本当はもっとたくさんありました)。これぞ読書会の醍醐味ですね。上記のほかにも、造園学のお話とか、禁欲的、活動家的な書として本書を読めるとか、新鮮な感想がいくつもありけっこう感心させられました。


ここでいったん休憩をはさんで、それぞれの感想を踏まえたディスカッションの場に。まずは本書のルソー論から、さいきん庭的なものが何故か流行っているよね、と言う話題で盛り上がりました。

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なるほど、たしかに盛り上がっているようです。すこし前には東浩紀もショッピングモールとか語っていたけど、本書で庭的なものにスライドしていくのは何故なんでしょうかね、とか、東浩紀が家族的なものを語るのはショッピングモール的なものの延長。中央線沿線の男一人で寄り付くリベラルな空間から、子連れで一日過ごせる家族的空間へと向かうものでブレてないよねとか、興味深い話が目白押しでした。

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個人的に、庭の問題系は資本主義批判とセットで考えるべきものと感じられましたが、またいつもの話になりそうだったので黙っていました。

続いてクワス算の話題に。クワス算の問題は経験の外側を経験の外延として想像するのか、それとも不連続な異界として想像するのかの問題で、地球平面説とかインテリジェンスデザインとかの話に通じているし、ミステリになぞらえると不完全な手がかりに基づく多重解決の問題に対応する、という感じの話題を振ってみました。ミステリではこういう状況でのオチのつけ方が小説的課題で、ここにシンパシー的探偵が現れると『インシテミル』風味になっていくのでちょっと危ういとは思っています。

クワス算はメイヤスーぽいという話から、メイヤスーは数学は否定しないが125gがある日突然5gになるような事を言いそうという話にもなりました。このあたりはチェスタトン的でもありますね。あと東浩紀的には、後期クイーン的問題に対する解答として久保寺容子を持ってくるあたりが家族の問題と共振しており本書と通じる、という指摘もあってなかなかアクロバティックで面白かったです。

最後はビッグデータの話で盛り上がりました。ビッグデータ分析ってソクラテスの固有名の訂正可能性の話とか、推しがアイドルの固有名を消去し記号化・神格化するプロセスとそっくりなのに、後者は訂正可能で前者は訂正不可能とあるのが不可解だったんですが、ビッグデータ分析はエンジニアによって訂正可能、アイドルも推しによって訂正可能と言う事に気づき腑に落ちた、という話題を振ると、どうやらここはこれまでの著書で出てきた郵便的不安と結び付けて読解すべきところのようで、他者にレッテル張りするような話とはニュアンスが違うのではと言う意見もありました。


そんな感じで、今回の読書会はお開きになりました。当初の疑問に答えは出ませんでしたが、そもそも答えを出したり意見をすり合わせたりするのが読書会の趣旨ではないので仕方ありません。どなたかご教示いただけるとうれしかったりします。

今後も読書会が開かれるたびに本ブログで紹介していく予定です。おそらく発言録形式が読みやすそうですが、むしろ今回のようなまとめ方が好評なら、これを継続するのもアリですので、皆さまの感想をお聞かせいただけると励みになります。

それではまた来月。どうもありがとうございました。