限界研blog

限界研の活動や記事を掲載します。

『Genkai vol.3 伊藤計劃以後』再掲 Twitter読書会「今このSFがすごい!」

 

2013年に文学フリマで販売し、完売した『Genkai vol.3 伊藤計劃以後』の記事の一部を再掲いたします。お金を出して買ってくださった方々、すんませんです。

  • Twitter読書会「今このSFがすごい!」

 トークイベント第一弾はニコニコ生放送で行われた「このSFがすごい!」をお送りする。
 現在、SFが盛り上がっている。 
 SFの中心部を見ても、伊藤計劃円城塔といった作家が登場し、数々の賞をとり、作品も売れ、活性化している。また、周縁に眼を向けてみても、いまSFというジャンルは拡散・浸透し、アニメ、ゲーム、マンガといった媒体にも見られる。多くの作品に、SF的要素が使われている。
 本イベントに出演した限界研の藤田直哉は日本SF評論賞受賞者であり、飯田一史は「S-Fマガジン」でレビューを書いている。二人ともSFの中心部を知っている人物だ。だが、『ポストヒューマニティーズ』で藤田は「ゾンビ論」、飯田は「ネット小説論」をそれぞれ寄稿している。これはSFの周縁部の話と言っていいだろう。
 よってこのトークは現在盛り上がっているSFというジャンルを、中心と周縁を包括して見ることができるものになっているわけだ。

 なぜ、いま、SFが盛り上がっているのか。

 この原稿は「#21世紀のSF作品といえば?」というテーマで行われたTwitter読書会の座談会をまとめたものだ。司会にゆりいか氏を加え、Twitter読書会参加者やニコ生視聴者から送られてくるコメントや作品をベースに飯田・藤田・ゆりいか三氏が考えていく。


Twitter読書会とは?

 Twitter上で行う読書会です。
課題本やテーマを決めて、その本を読んで思ったことを開催期間中につぶやき、他の参加者らと意見を交わします。感想は基本的にどんなものでもよく、ハッシュタグをつけていれば誰でも参加でき、何度でもつぶやくことができます。
 この回のハッシュタグは「#21世紀のSF作品といえば?」。

ゆりいか(@yuriikaramo) プロフィール

 Twitter読書会司会者。ネットの中に住む文学少女。いつも家の中で本を読んで、Twitterしてたら「読書会をやりなさい」と色んな人に言われて、Twitter読書会をやり始める。いつの間にか、本物の小説家さんにインタビューしたり、自分でも文章を書くようになったりして今に至る。
(参考URL: http://ddnavi.com/dokushokai




ゆりいか
今回は「#21世紀のSF作品といえば?」というテーマでTwitter読書会を行いまして、SF評論家お二人を呼んで作品紹介や解説をしていただこうと思っています。では藤田さん、飯田さん自己紹介をお願いします。

藤田
藤田直哉と申します。SFを中心に評論を書いています。『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』(=『ポスヒュー』)では編集長的な仕事を行いました。

飯田
飯田です。僕は「S-Fマガジン」の音楽レビュー欄を長い事やっています。が、藤田くんと違って僕は日本SF作家クラブにも入っていないし、ファンダムとのつきあいもない。なのである種SF界の「外野」にいる人間としてお話しできればと。


●『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』制作背景

ゆりいか
なぜ限界研では『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』を書くことになったんですか?

飯田
第一に「SF最近盛り上がってるよね」と、SF界隈では言われていて。九〇年代は「SF冬の時代」で、オビで「SF」と謳うと売れないと言われていた。でも今は盛り返してきて「S-Fマガジン」でも「SFは夏の時代じゃないの?」という感じで特集が組まれるくらいになった。

藤田
「日本SFの夏」特集ですね(二〇一二年一一月号)。21世紀の日本SFの中核として「Jコレクション」(「Jコレ」)が刊行され、一方、文庫では冲方丁さんの『マルドゥック・スクランブル』などの〈リアル・フィクション〉と呼ばれている作品群が刊行され、それが何十万部と売れる大ヒットになった。ゼロ年代の前半の流れが出来たわけです。〈リアル・フィクション〉には元長柾木さんや海猫沢めろんさん、桜庭一樹さんなどがいらっしゃった。そしてポスト〈リアル・フィクション〉として伊藤計劃円城塔がいると、デビュー当時には位置づけられていました(詳しくは『ゼロ年代SF傑作選』解説の拙稿「ゼロ年代におけるリアル・フィクション」を参照ください)。デビューだけでも衝撃だったのだけれど、伊藤さんは何十万部と売れる、円城さんは芥川賞をとられる、それは同時代人として応援していたにも関わらず、信じられないことでした。その後「ポスト伊藤計劃」という言われ方がされるようになりました。
 「ポスト伊藤計劃」なる言葉に実質が伴っているのかどうかは議論の余地があるところです。ぼく自身も、論集の書き手の一部の意見には賛同できないでいますが、ひとつの現象は多角的に論じることで像が浮き上がると思うので、編集方針として、考え方の違いを排除しないように気をつけました。
 しかし、伊藤計劃以後に、実際に読む人の質も変わり、多くの人にSFというジャンルがアピールするようになった感触はあるんです。そのような読者の変化や商業的な規模の変化もあるし、SF評論家として質があがっているようにしか思えない部分もある。では、この状況をどう捉えるのか。それが、『ポストヒューマニティーズ』という評論集を編もうと思った動機です。

飯田
SFは盛り上がっているけど、現代SF評論は書籍として刊行されていないという不釣り合いな状態だったので、やる意味はあるだろうと。で、限界研は二〇代、三〇代が中心だけど、SF読者はわりと平均年齢が高いので、三〇代でもまだ若手に属する(笑)。そういう人たちの目線で書いてみたら面白いんじゃないかと。伊藤計劃さんや先ほど名前が挙っていた〈リアルフィクション〉の作家の多くは団塊ジュニア世代でいま四〇歳前後の人たちだけど、『ポスヒュー』はそれよりか十歳くらい下かそれより若い人が書いたものになっています。

藤田
この『ポストヒューマニティーズ』の副題にもなっている〈伊藤計劃以後〉という言葉は、結構反発を生んでますよね。ぼくもサブタイトルつける時、いやで。研究会内部で「サブタイトルどうする」って会議しているときに、ぼくも「故人を商売に使うな」と思った(笑)。このラベルは、作家さんもいやがっていますよ。長谷(敏司)さんも宮内(悠介)さんもいやがっているらしくて。だけど「付けた方が売れる」という環境にある。出版社の判断的には。そこが、この〈伊藤計劃以後〉の苦しいところなんですよ。つけるのは不誠実だと分かっている、でも、少しでも売れるためにあやかりたい。ぼくはもう、これは、伊藤さんが死ぬときにぼくらに遺していった呪いであり、プレセントなのだと思うようにしていますけれども、批評家として誠実に伊藤さんに立ち向かうには、この、死後にまで働く「計劃」(プログラム)そのものを分析しなくてはならないのだと思うんですね。なぜ伊藤計劃以後というと少し売れるのか。あるいは興味を持たれるのか。なぜ他でもなく伊藤計劃が象徴的な名前になったのかということを考えなくてはならないと思っています。本論集は、そのヒントぐらいにはなっているのではないかと思います。

飯田
俺は「グレッグ・イーガン以後」と言っても何も問題がないのに〈伊藤計劃以後〉では反発する人たちの気持ちが全然わからないし、「不誠実だ」と言う藤田くんの気持ちもわからない。まあそんなネガティブ面に目を向けるよりも、これは大森望さんが言っていたことだけど、学生と話していると「SFって歴史があるけど、古いものを全部読むのはめんどくさい。でも〈伊藤計劃以後〉とくくってくれたことによって全部リセットされて、〈伊藤計劃以後〉から読めばいい」という意見があると。SFに対するハードルが下がって気が楽になったと言っている人がいたと。そういうことから生まれる可能性に目を向けた方がいいんじゃないかなあ。

藤田
今回のハッシュタグで書名をあげる方は、分裂していましたね。なつかしいSFを言ってくる人と、伊藤計劃さんから入ってそれ以降の作家さんしか読んでないけど、という人たちと。大森さんの考えでは、〈伊藤計劃以後〉は、ある種の断絶を作ることで、新規参入の障壁を下げたわけですよね。

飯田
「にわか」に優しい業界であったほうが基本的にはいいと思うよ。新規が入ってこないジャンルは衰退するから。

藤田
九〇年代の「冬の時代」は、「これはSFじゃない」とか、俗に「神学論争」と呼ばれるような不毛な論争と排除の結果生まれたという説もありますからね。「クズSF論争」を経験したおかげで、SFは様々なものに開かれるように体質改善ができた。このことが、「夏」を招いたということも特記しておかなければならないでしょう。

飯田
僕らは九〇年代に中高生だったときにライトノベルを読んで、そのまま二〇〇〇年代に入ったら〈リアルフィクション〉が出てきてホイホイ日本SFに釣られていった世代なので、多分それと同じ感覚で、伊藤さんから入っていろいろ読み始めるという人もいっぱいいるはずで。それはどう考えてもいいことだよね。

藤田
いいことですね。面白いものにうまく出会えればいいわけですからね。SF研究会に入って、先輩からしごかれて五百冊読みましたとか、そういう教養主義も懐かしくはあるし、ジャンルの中核を担っているのはそういう人かもしれないけれど、まずは面白く読むのが一番大事だと思いますね。
 伊藤さんは『ハーモニー』で大学読書人大賞とかSF大賞特別賞とかフィリップ・K・ディック賞の特別賞もとった。『屍者の帝国』でもとった。色んな賞をとって何十万部も売れている。それはなぜなんだろう。早くに亡くなられたから、伝説化されたっていう部分もあることは否定しない。けど、作品の質に何かがあったという立場をぼくは取りたい。訴えかける何かがあったはず。
 それが何だろうかというのは、書き手も評論家も編集者も皆探りかねてる感じがする。なんでこの現象が起きているのか、その本当の核心はだれも分からないのが、現実だと思うんですね。それに対する一つの仮定というか、こういう考え方もあるんじゃないかということをいくつかこの本では出している。それが〈伊藤計劃以後〉という言葉の意味だと考えていただければと思います。

飯田
それを考えるために、日本SFのコアを見ることと、周縁・周辺まで見渡すことを、『ポスヒュー』は両方やっている。二部構成になっていて、一部は日本SFのコアの話。二部はアニメやネット小説、映画の話といった周りの話。

藤田
第一部では、現代日本のコアなSFを論じているんだけど、それを論じているのがコアなSFのプロパーではない、シノハラくんと藤井くんであるというのが面白いところだと(勝手に編者としては)思っています。彼らが、どういう問題関心を持ち、どういう風に現代のSFを論じているのかというところも含めて論を見てほしい。それが彼らの論考をわりと前の方に配置した意図です。論考自体の書き方に未熟な部分はあるにせよ、彼らのような考え方、SFの読み方が存在するということ自体が、この本が強調すべき重要なポイントだとぼくは考えています。これはなかなか、読者の方々に読み取っていただけるか不安の多い賭けでしたが。

飯田
「これが〈伊藤計劃以後〉だ」と押しつけたいわけではなくて、読んだひとそれぞれがコアSFもそれ以外も視野に入れて考えることで、新しい切り口、新しい地平が見えてきたらおもしろい。だから「最近◯◯がヤバかった」とか「〈伊藤計劃以後〉なら絶対これを入れなきゃ」とか、この本をダシに語ってもらって議論が活性化するといいなと思っています。


●#21世紀のSF作品といえば?

ゆりいか
早速Twitterハッシュタグ「#21世紀のSF作品といえば?」を見るとコメントがいろいろ来てますね。おもしろいものもあるので、いくつか読みますね。「僕は高校生ですけど、SF観の中核にあるのはアーサー・C・クラークだな」っていう人もいれば、「最近はパオロ・バチガルピが大好きですっていう人もいて」と……。

藤田
ぼくこないだ喋ったよ、バチガルピと。ハローハローって(笑)。

飯田
「ハロー」は喋ったうちに入らないよ(笑)。

ゆりいか
あと、伊藤計劃さんに関して「そんなに読まれてたっけ?」とか。

飯田
大学生以下と話すと、すごい読んでる。

藤田
ミステリ研や文学研究会の人たちが集まって飲む機会を何度か設けたのですが、そのときに話す時の共通語になるものが伊藤計劃でしたね。本好きであれば、ジャンルを超えて、共通に読んでいるという不思議はありました。他には、アニメが共通の話題になる(笑)。

ゆりいか
あと、実は『南極点のピアピア動画』(=『ピアピア動画』)がものすごくあがってましたね。絶賛の声。あと、籘真千歳さんの『スワロウテイル』シリーズもかなり多かった。途中からはかなり拡散して映画、マンガも入ってきて。特に映画だと『インセプション』が多かったですね。お二人から見て気になったツイートはありました?

飯田
僕は吉浦康裕監督が好きなので、『イヴの時間』とか新作の『サカサマのパテマ』が挙がっていて、個人的に嬉しかった。『イヴの時間』は人間とロボットが同居している近未来の日本を舞台にしていて、ロボットには天使の輪っかみたいなものが付いていてそれで区別ができる。だけど「イヴの時間」という喫茶店の中では、それが見えなくなってしまう。人間とアンドロイドの区別がつかないことによって起きるドラマを描いていて、非常に面白い。映像なんだけど叙述トリックみたいなこともやっている。吉浦さんは新本格ミステリが好きなんだよね。僕と年も近いから読んできたものが同じだなという感じがする。あとは『STEINS;GATE』とか。志倉千代丸5pb.はちゃんと論じるべき対象だと思う。

ゆりいか
藤田さんはいかがでした?

藤田
BEATLESS』が結構あがっていましたね。長谷さんもポスト伊藤計劃と言われがちなのですけど、基本的には独自の作家性を持った、現代日本SFを代表する優れた作家さんの一人で。彼の作品の中でも、『BEATLESS』は特によくに出来ている。「ダ・ヴィンチ」でも二〇一三年上半期ランキング十七位に選ばれましたね。結構ハードな内容だし、美少女が出てくるから「ダ・ヴィンチ」読者さんの層には好まれないかなと思っていたんですが、評判がよくて、新鮮な驚きを得ました。女性書店員さんとかも、装丁も綺麗だと言っていましたね。長谷さんはハードなSFをそうじゃないものを読む層に読んでもらう努力をしてきた作家さんなので、この成果は重大だと思います。このクラスの優れた小説が次々に出てきてくれたら、日本SFは安泰なのですが(笑)。伊藤計劃バブルというと「実体がない」みたいな感じがしますが、そうじゃなくて、一つ一つの作品の質自体も高いようにぼくは思います。

飯田
長谷さんは『円環少女』っていうスニーカー文庫から出したライトノベルも、グレッグ・イーガン人間原理をネタにしている作品を読んで設定を思いついたって言ってたね。

藤田
次に、多く名前が出ていて気になったのは、野尻抱介さんの『南極点のピアピア動画』でしょうか。ぼくは紀伊国屋書店の選書の時に思想・政治コーナーにこれを選書して置いたりしましたよ。未来像の作り方がユニークなんですよね。ニコニコの技術部ですよね、野尻さんって。そういう活動をして、きっちりコミットしながら、こういう作品を書く。そのインタラクティビティが非常に面白いんですよ。ボーカロイド的存在が導く未来、というか。昨日偶然、初音ミクのライブ見て、そのお客さんも見てきたので、そういう未来を想像してしまう気持ちはなんか分かりますよ。ああいうものが導いていく未来があり得るかもしれないという。
  アーサー・C・クラークが考えてたのは、人間が進歩していくことの先にあるものをSFとして描くことだった。サイバーパンクは、当時生まれたてのインターネットが導く未来をSFとして描いていた。野尻作品は、キャラクターとか初音ミク的なものがそのままどんどん発展していって未来になったらどうなるかっていう外挿法をした作品。現代の日本の特殊なメンタリティをベースに使って、フィクションとして、シチュエーションを仮定してっていってどんどん積み上げていってどこまで遠く想像力を及ぼせるか、という作品だと考えると、現代風でいて、SFの王道というか、古典的でもある。

ゆりいか
飯田さんは『ピアピア動画』はいかがですか。

飯田
おもしろく読んだけど、野尻さんの作品なら『太陽の簒奪者』の方がSFとして優れていると思う。人間とは異質の知性を書くという意味ではあっちはかなり徹底している。『ピアピア』はミク廃(=初音ミク廃人)の二次創作というか、「尻P、ミクさん好きすぎるだろwwww」という感じかな。僕はそもそも初音ミクのことは造形的には好きでもなんでもなくて、大半のボーカロイドにはキャラクターとしてはほとんど興味がない。曲とP(=プロデューサー)に関心がある。


●ボカロ小説とはなにか

飯田
さっきあがった『ピアピア動画』だけど、この作品好きな人って他のボカロ小説はほとんど読んでなくて、他のボカロ小説を読んでる人って『ピアピア動画』あんまり読んでないんだよね。

藤田
野尻さん自身は、あの小説は、「ボカロ小説」枠には入れなくて、SFの方からもちょっとアレで、なんか狭間にいてしまってるといった嘆きをツイートでされてましたね。やっぱりボカロ小説とは野尻さんの作品は区別されてしまっている。
 そもそも「ボカロ小説」ってなんなのか知らない人が多いと思うので、飯田さんから教えてもらっていいですか?

飯田
「ボカロ小説」が何かというと、たとえば悪ノPが書いた『悪ノ娘』なら「悪ノ娘」と「悪ノ召使」という二つの曲がベースになって書かれている。Pがニコ動にアップした曲がそもそもストーリー仕立てになっていて。内容は中世風のファンタジーで、ボーカロイド鏡音リン・レンをもとにしたキャラクターを主人公にした悲劇。それがむちゃくちゃ再生されまくった。で、「これ小説にしませんか」という話になって二〇一〇年に本が出た、と。それ以降ボーカロイドを使った人気楽曲で、ストーリー仕立てのものはじゃんじゃん小説にしていきましょうという動きが出てきた。
 ボカロ小説で特徴的なのは、音楽の曲って長くても五分くらいじゃないですか、普通は。Sound Horizonとかプログレは別だけど。そうするといくらストーリー仕立ての曲っつっても、余白がある。起承転結があったとしても、尺の都合上ぼかされてしまう部分があって、そこを想像するがみんな好きなわけ。ファンは。曲と曲の間に解釈の余地があることを楽しみつつ、想いを馳せながら聴いていたところに小説化されて「この時レンくんが何を考えていたのかわかってすごいよかった」となると。

藤田
ボーカロイドを使って歌を作って、その歌がちょっと物語風で、PVもあって、プロデューサーみたいな人が書く小説のことをボカロ小説と呼ぶという理解でいいですか?

飯田
基本的にはPが書いた方がいいとされているけど、他の人が書いている場合もある。原案みたいな感じで。たとえばSFも書いている木本雅彦さんが『人生リセットボタン』というKEMU VOXXの曲をもとにして書いた小説がある。これは原曲を知らなくても、よくできた青春時間ものなので、SFファンも読んだ方がいいと思う。でも、大半のボカロ小説は曲を聞いてないと意味分かんないし、つまんないと思う。というか、藤田くんがそう言っていた(笑)。

藤田
全然分からない、ボカロ小説は。入門のハードルも高いしさ。今、SFよりもボカロ小説の方が一見さんお断りの世界になってないですか? もう、疎外感が強いですよ。教養主義でしょ、今、ボカロ界は(笑)。

ゆりいか
それはすごくあります(笑)。

飯田
教養主義(笑)。

藤田
ボカロ界の排他的体質を、ちょっと糾弾したいよね。入れないもん。コンテクストも多すぎるし、作品も多すぎるし。

飯田
ややこしいのはそうだと思う。『悪ノ娘』の時はまだ鏡音リン・レンとか、つまりボーカロイドを使った二次創作だったけど、『人生リセットボタン』とかは出てくるキャラクターがボーカロイドじゃないんだよ。
 Pがつくったオリジナルキャラクターが出てくる。で、歌っている中の人がボカロ。

藤田
でもそれのほうがまだ分かりやすいかも。

飯田
キャラソンみたいな感じだよね。「○○」というキャラのCVが初音ミク、みたいな。でも、ボカロ自体もキャラクターだから「わけがわからないよ」という……。

藤田
『俺のボカロが妹になりたそうにこちらを見ている』って作品の場合はCDもついてるの?

飯田
CDついてるボカロ小説も多いよ。


●文化の地殻変動

飯田
今言ったボカロ小説を買っているのは、一〇代、二〇代が非常に多い。最近中高生の取材をしているんだけど「小四のときクラスでミクが流行っていたのでみんなで聞いてた」とか言っていて、だからボカロもニコ動も特殊なものとはまったく思ってない。

藤田
なんか、文化変動が起こっている感じはありますよね。

飯田
ミクが登場した二〇〇七年にすでに社会人だった人たちってヒマじゃないからニコ動そんな見てないんだよ。でも学生とか小中学生だった人たちはすごい見てる。もう全然感覚が違う。これは大変な問題であってさ。俺もよく記事を書いてる『クイックジャパン』っていうカルチャー誌は編集長の藤井さんが俺のちょい上、続木さんっていう編集者がだいたい俺と同じくらいのアラサーなんだけど、二人ともまったくニコ動がわからないんだよ。だから「このPはこういう文脈で重要だから絶対取り上げた方がいい」って何回言ってもまったく関心がない。すごいジェネレーションギャップがある。

藤田
飯田さんがものすごい長い時間をかけてセレクトして、『ポストヒューマニティーズ』で論文一個にまとめてくれたので、分かった気になれて、ありがたいですね。

飯田
僕も最初はそんなに興味なかったんだけど。僕はライトノベルの創作セミナーをやっているんだけど、を書いている人が受講してくれまして。最初、名前を言われてもよくわかんなかったんだけど、家帰ってググってみたら曲が何十万回再生とされていて「マジか」と思って。それから勉強しました。あとは大学に呼ばれて講義してると、女子から来る質問がほぼボカロとかゲーム実況についてで、地殻変動を認識したこともある。

ゆりいか
ボカロ小説は、物語の歌詞を知っているとにやりとできるところもありますよね。

藤田
物語内容とかはどうなんですか。結構シンプルな感じ?

飯田
シンプルか複雑かの前にテイストの話をすると、エグいものが多いと思う。たとえばライトノベルだと売れているものはわりと健全なものが多い。少年マンガ的というか、ラブコメかバトルものでアッパーな内容。だけど、ボカロで流行っているものはほぼ悲恋とか悲劇。あと「鬱だ死のう」的な歌詞とか。ダウナーな、報われない話。

藤田
ダウナーで思い出したんですが、宮内悠介さんの『ヨハネスブルグの天使たち』という作品は、歌うロボットが出てきてきてて、それが衝突実験させられたり、貿易センタービルに突っ込まされたり、自爆テロさせられたり、兵士にさせられたりしてて、凄く陰鬱な作品で、そこに出てくるのがボカロ的存在なんですよね。それはボカロではないけれども、的な何かは共有している。それが直木賞候補になったじゃないですか。あれにぼくびっくりしています。文化の繋がり方というか、ラインの引かれ方というか。一方にボカロ小説があり、SFがあり、直木賞があり、なんか、妙なところで繋がりがありますよね。こういうジャンルを超えた感性の変動がどこかで起こっているように思いますね。

飯田
宮内さんの本もボカロが好きな子は誰も読んでないと思うけどね。あれも曲を元にしてないし、ボカロ小説だとはボカロが好きなひとたちはほとんど誰も思ってない。ボカロをロクに聴いてないひとたちだけが「ボーカロイドが〜」云々と言っていて、非常に寒い。


●SF=ボカロ小説――想像力の重なり

藤田
いま、この放送へのコメントはどんなものが来ていますか?

ゆりいか
ボカロ小説に関しては「少女マンガを読解できない層がもしかしたらそっちにいったんじゃない」というのが来てますね。「ボカロ小説がハヤカワJAで出たら読むだろうな」という人もいて、出ている媒体の問題もあるかもしれない。

飯田
ライトノベルの時もまったくそうだったからね。ラノベ作家がJAで書いたら読むんだよ。でもラノベで書いてるうちは読まないの。棚が違うと行かない問題はしょうがないけどさ、そういう分断はいつの時代もあるよね。

藤田
さっきの飯田さんの振りを受け継いで話をすると、『リライト』という法条遥さんが書かれた作品がありますが、これはタイムリープものなんです。時間を飛び越える作品で言えば、『時をかける少女』ってありますよね。あれは時を戻って誰かを助けようといった作品だけど、その逆バージョンがこの作品。悪く書きかえちゃえ、どんどん書き換えられてもう何が本当なのか分からなくなりました、みたいなのが『リライト』。これがもともとホラー大賞でデビューした作家で、ちょっと「現在」の感覚が新しい世代っぽいんですよ。デビュー作のタイトルも「ゾンビ」についての話だったし。無根拠な自己の存在感覚の恐ろしさは、現代風ですね。あとは出たばっかだけど、野�啗まどさんの『know』が面白かった。野�啗さんはメディアワークス文庫の最初の大賞をとられた方で、もともとクリエイターを主人公にして小説を書く事が多かったんです。「天才」を書くのも上手な方でしたね。この前の『2』も結構力作だったんですが、『know』はクリエイターの話じゃなくて、本当に未来のあらゆるところに電子回路があったり、壁とかに全部あって、人間のログとかもものすごいあって、脳に“電子葉”が埋め込まれてて、常時計算されているような世界をガチで書いちゃった。ちょっと驚きましたよ。

飯田
伊藤計劃の『ハーモニー』みたいな。

藤田
そう、『ハーモニー』風。そこでハンパない計算能力を手に入れた美少女が現れたらどうなるだろうかという話なんです。真剣な問題を扱っていて、情報格差が作中にあって、生活保護的な人は情報ゲットがしにくくなったりプライバシーがほぼゼロになるから、のぞきとかもされ放題。収入とか階層に応じて扱える情報のレベルが変わって、それによって社会の格差が大きな問題になっている。そのインフラに、わざと格差を生む偏りが仕掛けられているんじゃなかろうかと情報庁の官僚が気づいちゃうところから話がはじまるんですが。面白そうでしょ?

飯田
ちょっと関連する話していい? また戻って恐縮なんだけど、『リライト』もタイムリープものじゃないですか。『人生リセットボタン』は人生をリセットできるボタンを手に入れた高校生の男の子の話で、ある女の子がどうしても好きなんだけど、その女の子は別の男の子が好きなの。だけど告白を成功させたいからあの手この手を使って三千回ぐらい人生をリセットする。でも、全然うまく行かない。で、実はリセットするたびに脳みその海馬が収縮してるってことがある時点でわかって、要するに記憶力が失われていくわけ。さらにはその女の子をいろいろな事件が起こるんだけど、それを防ぐために主人公は何回もリセットするんだよ。

藤田
細田守版の『時をかける少女』ではタイムリープできる回数が減ってくけど、代わりに海馬が減っていくっていう感じ?

飯田
そうそう。だから最後は『アルジャーノンに花束を』みたいになる。著者の木本さんはSFも書いてる人だから、他のボカロ小説よりもSFとしてちゃんとしているので、SFファンも読んだらいいんじゃないかと。
 あと『know』関係でいくと、『こちら幸福安心委員会です』っていうのがあって。書かれているのは鳥居羊さんというライトノベルでデビューした方。曲を聞いてもらった方が早いんだけど、監視社会ものなの。「幸福なのは義務なんです」というのがサビで繰り返されるんだけど、まあ『あたらしい新世界』的なというか、ディストピアを書いていて。その世界の象徴的な存在が歌姫のミクであると。『マクロスプラス』とか『キングゲイナー』にちょっと近い。この世界では「幸福なのは義務」なので「不幸だ」って言ったやつはガンガン処刑されていく。

藤田
『1984年』メソッドが活用されているんですね(笑)。「悪いもの」の言葉をなくしていけば悪いものがなくなっていくっていう欺瞞的な世界。

飯田
そうそう。鳥居さんのインタビューを読んだらフーコーを読んで着想を得たと言っていたんだけど、伊藤計劃も元ネタはフーコーやピンカーでしょう。野�啗まど、『幸福安心委員会』、伊藤計劃と並べるとある種の時代精神というか「空気」を感じるところがある。


●ネット小説――人気のメカニズム

ゆりいか
今回、タイムラインを見てるとすごく仮面ライダー平成ライダーがよくあがってましたね。

藤田
仮面ライダーもSFとして人気がありますね。

飯田
というか、AmazonのSF・ファンタジーカテゴリーランキングを見ると、二〇一三年七月では一位が『オーバーロード』っていうエンターブレインから出てるネット小説、二位が『仮面ライダークウガ』のノベライズで、三位がやっぱりエンターブレインから出てる『この世界がゲームだと俺だけが知っている』で、日本で売れているSFって、Amazonに限ると、もはやそういう状況なんだよ。

ゆりいか
今、キーワードとして、ネット小説というのが出ましたけど、ボカロともまた違いますよね。そういうことも飯田さんが論じられてましたけど、ちょっと紹介していただきたいと思います。

飯田
ネット小説は一番有名なのは『まおゆう』ですね。『まおゆう』は2ちゃんねるに掲載したもの。で、同じ橙乃ままれさんが書いた、『ログ・ホライズン』って言う今度一〇月からアニメが放映される作品は、「小説家になろう」というサイトに連載された。「なろう」がブレイクしたのは、電撃文庫で『魔法科高校の劣等生』が出た後で、今も利用者が増え続けている。「小説家になろう」ではだいたい異世界に転成するか、VRMMORPG中に閉じ込められちゃうパターンが多い。男向けのやつで言うと。『アクセル・ワールド』で電撃大賞を獲った川原礫さんの作品『ソードアート・オンライン』(=『SAO』)もネット掲載でスタートしたものです。『魔法科高校の劣等生』は電撃文庫から出てるから読者層はわりと若いんだけど、『オーバーロード』はエンターブレインの編集者に取材したら、中心は三十代とか四十代と言ってたね。主人公は社会人のネトゲ廃人で、でも人気が廃れてネトゲのサービスが終了する日を迎えるという、もの悲しいところから始まる。『オーバーロード』は主人公がアンデッドなの。主人公のダメリーマンが使っていたキャラクターがアンデッドで、ゲーム世界らしきところに閉じ込められてそのままアンデッドになっちゃう。ライトノベルだとだいたい十代の少年が主人公じゃないといけないから、こんな設定で書いてもほぼ新人賞取れないんだけど、ネット小説では人気になる。著者の丸山さんも別に一〇代向けに書いてないと思うしね。それで三〇代、四〇代の読者がついて、ネットで人気になって書籍化したらバカスカ売れる。これは現象としておもしろい。
 つまり売れるにはネットで人気になるのが早い。新人賞システムって無駄が多いんだよ。そのジャンルの偉い人が選考委員なことが多いけど、偉い人は必ずしもターゲット層の読者じゃない。読者に遠い人が選んでも売れるとは限らないのに、そんな人が選ぶのに選考料をひとり何十万とか払って選んでもらっていて、でも出版しても売れないことの方が多い。だけどネット小説の書籍化の場合は、最初から読者が選んでランキングが一位とか二位になったものを本にしているから、売れて当たりまえなわけ。新人賞システムはマーケットの動向と齟齬が生じやすいので、商売的に考えるとまったく非効率。まあ、あっちこっちで下読みしてる人間が言うことじゃないが(笑)。

藤田
確かに読者の欲望をそこまで信用すればそうだけど、それだけではない価値もあるような気もしないでもないんだけど、ぼくは。信用している部分もあるけれど、信用でききれない部分もある。

飯田
そういうことをSFが好きな人が言うのがわからないんだけど? 純文学が好きな人がそう言うならわかるよ。でもテクノロジーの進化を称揚するというか、科学技術の発展が描きだす未来を愛するSFファンがなんでそう言うの?

藤田
SFファンのコアなツボみたいなものって、結構マイノリティのもので、マーケットの理屈でやると淘汰されちゃんじゃないかな、っていう危惧感はありますよ。これはSFに限らず、何かを愛好した人が必ずいつかは直面しなければいけなくなる問題かと思いますが。

飯田
でも商業出版でやる以上、デビューしたあと採算取れない作品ばっか出す作家は結局、淘汰されていくわけでしょ。入り口を新人賞にしようがアクセス数にしようが、本を出したあと売上でジャッジが下されること自体は変わらないんだから、入り口だけ権威が選んでその後は市場の評価に任せるってのは単に二度手間で矛盾している、不徹底な仕組みだよ。……まあ、いいや。この話題、ちょっと生産性ないからやめよう。


●映像=SF

ゆりいか
藤田さんどうですか、他にオススメの作品は何かありますか。

藤田
映画の話も少ししましょうか。ぼくが映画でいいと思うのは、『パシフィック・リム』とか『トランスフォーマー』とか『アバター』。いや、それを駄目だと言いたくなる気持ちはよくわかるんですよ。しかし、これらが良いのは、視覚的に見た事のないものがあるということなのですよ。単に視覚的に凄い。内容的に高度で、センス・オブ・ワンダーがあるとか、今まで聞いたこともない物語といった作品は減っています。物語はもう単純化にどんどん向かっている。SF映画として理想なのは、凄く物語性的に複雑で、しかも視覚的に凄いもの。しかし、予算的にそれは成立しにくい。だったら、もう、映画は視覚的快楽だけでいいかと思っています。インターフェイスとかロボットとかの動きとかトランスフォーマーの変身とか『アバター』の3Dとか、SF映画の魅力は、映像の快楽でいいんじゃないかって割り切っています。凝った物語は、小説の方がやりやすいから。

飯田
ハリウッド映画と比べれば、日本のテレビアニメは話としておもしろいものもけっこうあるよね。

藤田
日本のテレビアニメの方が複雑。『新世界より』だって複雑な話だったし、『輪るピングドラム』(=『ピンドラ』)なんてよくあんな話やったなと、びっくりしたよ。凄いでしょ、あれ。複雑だし。日本のアニメは結構難しいことやっているよね。ハリウッドはすごい、雑ね。物語は。

飯田
シンプルだから強いっていうのもあるけどね。

ゆりいか
今回アニメでは『魔法少女まどか☆マギカ』(=『まどマギ』)をあげている人が多かったですね。あとは今シリーズでは『GATCHAMAN CROWDS』とか。

飯田
それは、ゆりいかくんが推したいやつでしょ(笑)。

ゆりいか
僕が推してるんですけど(笑)

藤田
あと、『攻殻機動隊S.A.C.』が多かったね。

飯田
『S.A.C.』はすばらしいよ。今年公開された『攻殻機動隊ARISE』は全然面白くないけど。『ARISE』でほめられるポイントは坂本真綾さんの演技だけ。脚本も演出も音楽も最悪。人々が『攻殻』に求めてるものを何もわかってない。「どうせここで素子がバトーの目を奪うんだろ」と思ってるとそのとーりやるわけ。そんなんばっかで、ひとつも新しくない。……と、藤田くんが『ARISE』のパンフレットになんか書いてたことを知っていてわざわざ言ってみる(笑)。

藤田
『ARISE』はこのあとどんどん面白くなりますよ。『S.A.C.』が人気なのはよく分かりますけど。

ゆりいか
あと、『新世界より』がすごく多かったかな。

藤田
新世界より』は前半の伏線部分で損している感じがあって、映像のできはすごくいい。だけど、伏線と伏線同士の関係が見えてくるまでが長かったのが、もったいなかった。緻密で丁寧なつくりで、よかったのに。

ゆりいか
ハリウッド系では『インセプション』が圧倒的に多くて「『マトリックス』は入らねーのか」っていうツイートもけっこうあります。

藤田
マトリックス』は公開が九九年だから。『リローデッド』なら二一世紀のSFだけど。

飯田
マトリックス』ってパクられすぎて古くさく見えるっていうのもある。

ゆりいか
「『攻殻機動隊』が好き」っていうコメントはけっこうきてますね。

藤田
SF映画、アニメでこれぞっていうと他に何がある? 『マクロス』も入るでしょ。『マクロスフロンティア』。あとは『エヴァ』だって入るし、『宇宙戦艦ヤマト2199』だってそうでしょ。

飯田
われわれの論集だと、山川賢一さんが『ヱヴァQ』について書いてますね。
 僕は『宇宙戦艦ヤマト2199』はたいへんすばらしい作品だと思っていて。日本のSFは初期からアニメと蜜月で、『ヤマト』は豊田有恒さんが関わっていた。で、『2199』で監督をやっている出渕(裕)さんはキャリアの初期にはまさに豊田さんがやっていた「パラレル・クリエーション」っていう企画会社に出入りしていた。それが今『ヤマト』の新作を作っている。しかも高校生とか大学生と話していると、「親が『ヤマト』好きだからいっしょに観てます」っていう子がすごい多い。クリエーター側でも受け手の側でも受け継がれているという。もちろん、作品が優れているからこそそういうことが起こるわけだけどね。

ゆりいか
「家族ぐるみで観るSF」だと、『サマーウォーズ』もあがってましたね。

藤田
細田アニメはいいよね。
 『風立ちぬ』っていう人はいないの?

ゆりいか
風立ちぬ』いないですね(笑)。

飯田
風立ちぬ』ねぇ……。ほんと、あいつら関東大震災で全員死ねばいいのにと思ったな。うちのじいちゃん、戦時中には陸軍で満州にいたんだけど、戦争終わったあとに満鉄で運ばれてシベリア抑留されて大変な目に遭ってるからさ、戦争やってるときに軽井沢でぬくぬく生きてるとかマジ許しがたいと思った。SFとなんにも関係ないけど(笑)。

藤田
ハウルの動く城』でもいいよ。

ゆりいか
あれはSFなんですか?

藤田
風立ちぬ』はSFかどうかちょっと怪しいけど、『ハウル』はSFっぽい。

飯田
『ポニョ』はSFじゃないの? あれ、クトゥルーでしょ(笑)。

藤田
『ポニョ』は……SFなのかなぁ?


●「有川浩」以前・以後問題?

藤田
あと、いま多く名前が出てるのは有川浩さんですね。

飯田
有川浩話で言うと、最近一〇代にアンケートとったんですよ。中高大学生に好きな小説について聞いてみて。

藤田
何人くらいに聞いたんですか?

飯田
いま集まってるのは八〇人くらい。好きな小説ジャンルで言うと、ミステリが一番多くて二二%、ライトノベルが二〇%で、SF一四%、純文学一三%。

ゆりいか
純文学一三%!?

藤田
強い。

飯田
でも中高生って国語の授業で夏目漱石とか読むから、そんなもんじゃない? で、ネット小説四%、ボカロ小説二%。
 あと毎日新聞社がやっている「学校読書調査」というのがあるんだけど、そこで人気のある作品を「本当なのかな」って思っていくつか入れてみたんだよ。『図書館戦争』とか山田悠介とか『王様ゲーム』とか『謎解きはディナーのあとで』とか。あと個人的に聞きたかった伊藤計劃を入れてみたの。そうすると『図書館戦争』が一三%なので、純文学やSFと同じくらい読まれている。

藤田
太宰とか漱石とかも含めるわけでしょ? 純文学って。それを読んでいるのと同じくらい『図書館戦争』が入ってる。

飯田
そう、ちょっと面白かった。もちろん、八〇人くらいにしか聞いてないから偏っているとは思うんだけど、それでも一〇人に一人以上読んでいるのはすごい。
 ちなみに山田悠介は九%、『王様ゲーム』六%、『謎解きはディナーのあとに』五%で、伊藤計劃は四%で二五人に一人だからクラスに一人ぐらいは読んでる。

藤田
有川浩以後の図書館」っていう論集を次に作りませんか?

飯田
図書館ネタでやるってこと? ボルヘスとか(笑)。

藤田
でも、有川浩以前・以後問題ってあるでしょ? どう評価するかって。まさにここは「ダ・ヴィンチ」の総本山だから言っているわけではないけれども。実際朝日新聞は「自衛隊三部作」を「右傾エンタメ」とか言うわけでしょ? 『図書館戦争』にも批判は多いわけじゃないですか。こんなに人気があるのにも関わらず評価が割れてて、きっちりした評価がされてないっていう意味では有川浩の以前と以後っていうのは何か構造変動をしていると思うんですよね。書店員などの本に関わる主題を題材にする小説が増えている傾向が漠然とあるのは確かですね。

飯田
ビブリア古書堂の事件手帖』とかもね。

ゆりいか
読書会で色んなテーマで今までやってきましたけど、有川浩率ってめちゃくちゃ高くて、どんなジャンルの中でも「有川浩のこれが」っていうオススメがあがるんですよ。ミステリもそうだったし。全体的にみんな、有川浩はおさえているという感じがしますね。

飯田
有川浩って感情表現が豊かというか起伏が激しいキャラクターを書くじゃないですか。そういうものが売れる小説なんだろうなとは思う。百田尚樹でもボカロ小説でも「すごい泣ける」とか「テンションがあがる」とか、感情に訴えかけるものが人気な印象がある。

藤田
なんで、有川さんがいいと思うのか、コメント欄の人に聞いてみていいですか?

ゆりいか
「有川いいね!」っていう人がコメントでもいますね。どういうところが好きかってちょっと聞いてみたいですね。

藤田
図書館戦争』は確実にSFです。もともと有川さんはSFを書いてますよね。『図書館戦争』はブラッドベリの『華氏451度』のオマージュでもあるし、設定的にはSF的設定を見事に使っているから。彼女の成功っていうのは、何かSF的には重大な意味を持っているはずなのに、適切に位置づけられていないな、っていう歯がゆい思いはあります。

飯田
いや、でも星雲賞もとってるから、SF界では評価されていると言っていいんじゃないの?

藤田
作家の持つ文学史的(?)な意義や、現象の意味がきちんと分析されていない感じがする。

ゆりいか
「ドラマティックな部分がいいんじゃない」っていう人と、「取っ付きやすさ」「勢い」とか、あと、「ストーリー」っていう人もいますね。一方で、「ごめん、あまりいいと思わない」「ぬるい」っていう人もいて分かれている感じがありますね。

飯田
「ぬるい」っていう人の気持ちもよくわかる。キャラクターに寄せて書くことと世界観を深く掘り下げて書くことの両立ってなかなか難しい。SFを読みたい人はわりと世界やシステムの話を読みたかったりする。だから男の読者は、(『図書館戦争』のヒロインの)「郁の恋愛なんてどうでもいいだろ」と思っちゃう。

藤田
あの世界がどういう設定になっているのかがわかんないっていう批判は結構見かけますね。設定とか世界観に対する興味か、恋愛とか感情とかキャラとかに対する興味かっていうので読み方が根本的に違う可能性が確かにあると思いますね。
 円城塔の小説なんて、まずこれが書かれている世界とかこの小説がどういうものかみたいなことをそういうことを読みながら楽しんでいくわけじゃないですか。一体何の世界を描いているのか。この言葉は何の原理で書かれているのか。そういうのを探っていくのが楽しい、そこに好奇心をくすぐられるっていうのが、SF読者の中にあって、そのエッセンスを突き詰めているのが円城塔作品の魅力のひとつだと思うんですよ。


●ゲーム的/ライトノベル的/SF的

藤田
しかし、どうして、こんなにSFっぽいものが大量にあるのかな? ゲームも含めて。『メタルギアソリッド』(=『MGS』)もそうだったし、『ファイナル・ファンタジー』もそうだし。『HALO3』も出てたよね。

飯田
ゲームも映画もSFにすると見た目がハデにできるから、それが大きいと思う。『ファイナル・ファンタジー』で思い出したんだけど、ももいろクローバーをあげてた人がいるじゃないですか。

藤田
『ファイナル・ファンタジー』でどうして、ももクロが思い出されるの?

飯田
ももクロの曲を作っているのってヒャダインで、ヒャダインは『聖剣伝説』の曲とかを作っている伊藤賢治から影響を受けてる。で、ももクロもファンタジーやSF的な意匠をけっこう使っている。日本人がイメージするファンタジーやSFの音楽って伊藤賢治すぎやまこういちあたりで決まっている。……っていうと言いすぎだけど、すぐ連想されるものはそのへんでしょう。「音から考えるSF」という意味ではスクウェアからももクロへ、という流れは重要で、「ゲームとSF」という切り口がそこでも大事であると。

藤田
コアなSF以外のところにもSFイメージみたいなもの、パワードスーツとかが伝達されて応用されて広がって、拡散しちゃってる感じなのでしょうね。

ゆりいか
もう一つ気になっているのはライトノベルの話をやってないんですが、けっこうTwitterではあがってたんですよ。代表的なのは谷川流さんの『涼宮ハルヒの憂鬱』、そのあとにあがってたのは……。

藤田
紫色のクオリア』じゃない?

ゆりいか
クオリア』もありました。あとは『SAO』がすごく多かったですね。ライトノベルはいかがですか、飯田さん。

飯田
僕はライトノベルをSFとして語らない主義なので……基本的にファン層が違うと思ってるから。

藤田
でも、『SAO』とかはサイバーパンクSFでしょ?
 『とある魔術の禁書目録』だってSF要素強い、というか、SFの本質的な葛藤を主題化している側面だってある。『バカとテストと召還獣』だって、学校化したサイバーパンクニュータイプのように見える。

飯田
話が逸れるというか逸らすんだけどSF史的に見ると、谷川流って竹本泉永野のりこが好きで、東方プロジェクトの神主ZUNも竹本泉永野のりこ好きなんだよね。そう考えると二〇〇〇年代のオタクカルチャーは竹本泉永野のりこの絶大なる影響によってある一角が占められていたことになる。……ということを四、五〇代の人たちに言うと、すごいウケる。

藤田
是非「竹本泉永野のりこの系譜」という論考を(笑)。

飯田
独特のかわいさとSFネタの組み合わせって、なんか日本のある種の心性を持った人にはフィットする。気持ちいいんだろうね。吾妻ひでおもそうかもしれないし、そもそも手塚治虫からしてそうっちゃそうなんだろうけど。……といって、ライトノベルの話を終わらせようとする俺(笑)。

ゆりいか
コメントでは『境界線上のホライゾン』の話をしてほしいとか「伊藤計劃だってラノベ風じゃん」みたいなのが来てますけど。

藤田
伊藤計劃ライトノベルとかケータイ小説の文体を模倣して書いていたんですよ。『ハーモニー』とか。ただ、伊藤さんはちょっとアイロニカルなところがあって、そういうライトノベルとかケータイ小説に安易に、シンプルな物語に涙しちゃうっていうような構造そのものを皮肉るような仕掛けをしていたと思います。etmlっていうタグついて、この感情がついたら、この感情になるでしょみたいな、ああいう突き放した仕掛けをするところが伊藤計劃の特徴だよね。あれこそが伊藤計劃の神髄なんじゃないの?
 一見、普通のフィクションのようにも読めるし、人間がそういうものに感動する、脳の仕組みというか、物語の仕組みに対するちょっとした揶揄っていうか。それを引いた視線で見てる。それが伊藤計劃の面白かったところだと思う。それがなぜウケたのかホント不思議だよね。多分、人間が感動させられたり、ものをいいと思うっていうのは、どこかでタグとかで簡単に条件付けられたりとかコントロールされてるんじゃないかっていう意識が伊藤計劃ファンにはあったのかもしれない。ひょっとしたら。

飯田
「この世界はコントロールされている」的な感覚は、八〇年代には神林長平が非常にうまくすくっていた。神林さんは『猶予の月』とかでは設定書き換え合戦みたいなことをキャラクター同士でやっていて。「言葉が世界を規定している」というのがあの人の基本的な考え方であり世界観だから。それを発展というか咀嚼させると伊藤さんみたいになったり、元長柾木みたいになったりする。元長さんも『ゼロ年代SF傑作選』に入ってる『デイドリーム 鳥のように』なんかではメタタグが埋め込まれている世界を描いているし。

藤田
だから、神林長平は本当素晴らしく、重要な作家です。その影響を受けた作家さんがゼロ年代に活躍したのは確かですね。円城さんを含めて。

飯田
そうだね。『まどマギ』の虚淵(玄)さんも神林さんの影響がありますからね。

●言語/人間

藤田
今の話に繋がるけど、言葉が世界を変える、あるいは言葉に作られてしまったり、コントロールされるっていうテーマが結構SFにはありますよね。「言語SF」って言って『ポスヒュー』でも海老原さんが論文を書いてるけど。「コントロールSF」みたいなものも。

ゆりいか
「われわれは何か、大きなものにコントロールされてるんじゃないか」とか。

藤田
大きなものだったり、宇宙人だったり、もっとちっちゃいウイルスとかだったりするんだけど。人間の脳の仕組みが自分の意志と関係ないんじゃないのかみたいな、ちょっとした自覚を促す装置が増えましたよね。そういうのを刺激する文化が増えているじゃない。ソーシャルゲームとか。いわゆる動物化した萌えとか。そういったものに対する違和感に伊藤計劃ってフィットしやすかった部分はあるのかも・もしそうだとしたら、それだけ違和感ある人がいたっていのがぼくはちょっとびっくりするべきことだと思う。

ゆりいか
個人的に喋ってもいいですか? 伊藤計劃ライトノベルケータイ小説の文体をアイロニカルに取り入れているじゃないですか。僕が最近読んだ小説では籘真千歳の『スワロウテイル』の最終シリーズがそういった手法を使ってたんですよ。物語の軸になる部分に詩みたいなものを置いてるんですが、何の詩かなっていうと東方projectの「bad apple」の歌詞なんですね。でもネットの文脈を知らないでも物語とちゃんと対応してるから通じる。だけど知ってる人は「あ、これ、『bad apple』じゃん!」と。それが面白い。

藤田
スワロウテイル』は、ゆりいかくんがはじめてぼくとTwitter読書会をSFでやった時に、推してくれたんだよね。『スワロウテイル』はもともとセンスオブジェンダー賞の候補作に入ってたんだけど、ぼくが特別賞に推すために論戦したんだよ。

ゆりいか
僕はあの作品が好きで、実はセンス・オブ・ジェンダー賞の後に、その流れを知ってか知らずか、籘真千歳さんからFacebookで「ゆりいかさんのおかげで……」といった、すごく長いメッセージが送られてきたんです。
 ぼくとしてはたまたま手にとった小説がすごくよくて、その小説の二作目の話がもろに震災の話を書いていたんですよね。直接的な震災のモチーフはないんですけど、ある種のメッセージ性みたいものが。

藤田
結構色んなSF作家、真面目に入れてるよね。

ゆりいか
就職活動で落ち込んでいたりとか、震災直後だったのもあって、メンタル的に弱っている時にあれを読んでいたんです。その時、あるキャラクターのあるセリフに、自分の行動に責任を持って、自分で勝ちとっていかないと、他人のせいにしてばかりはいられないだろうということが熱弁されていたんです。

藤田
あれは、男と女が分断された社会において、それぞれセックスマシーンのような存在をあてがわれている設定の世界ですよね。ちょっと卑猥な説明になったけど、もっと綺麗な話ですよ、本当は。

ゆりいか
ヒューマノイドと言われている妖精みたいな女の子が実はすごく劣等感を持っていて、人間臭い。だけど人間に対して「なんでこんなこともできないの、私ですらできるのに」と言っていて、それがすごく響いた。先ほどの話と繋がるような「人間外から何か言われている」じゃないですけど。

藤田
AIとかCGとかロボットと出会うとショック受けるよね。しかもAIが物語書いたりし始めたら、昔は言葉が使えるのが人間の素晴らしいところだハイデガーとか言ってたでしょ。そういうのが揺るがされるよね。人間の優位性というのが、「あれ、もう優位性ないのかな?」とか心配になるよね。多分、色んな時代皆揺るがされてたんだと思うよ。動物と人間は違うんだとか。人間は木じゃないんだとか。人間のオリジナリティって一体なんなのかっていうのが、ますます問われてきてるね。


●「エグさ」と「グロさ」の境界

ゆりいか
コメント欄を見ていくと、「マンガは?」っていう声もありますね。

飯田
マンガは凄く多いから、逆に絞りにくいな。

藤田
GANTZ』が一番いい。

ゆりいか
一番いいんですか!?

飯田
本当に?

藤田
SFマンガって『テラフォーマーズ』とか?

飯田
テラフォーマーズ』は超面白いよね。白土三平以来の、それっぽいけどインチキな理屈を使ったバトルものの現在形で。

藤田
進撃の巨人』もSFだ。

飯田
立体起動装置のこと?

藤田
いや、架空の設定を作って、その中でどういう世界観なのかちょっとずつ明らかになっていくという点はSFじゃないですか。だって、巨人があんなところに、ああなってるなんて、驚きですよ。街も凄い設定じゃない? 『進撃の巨人』は。

飯田
藤田くんが好きなのはわかるよ。だってあれ、でかいゾンビものじゃん。

藤田
人類が立てこもっている場所=ショッピングモール。巨人=ゾンビという意味でしょ? それはそうだと思いますよ。

ゆりいか
なんか別の評論家さんも言ってましたね。アメリカで『進撃の巨人』がウケているのかっていう話をした時に「あれ、ゾンビじゃん」って皆が言ったっていう話があって。

飯田
あと香港や韓国でもウケていて、巨人を中国に見立てて「俺たちはあいつらに立ち向かっていかなければいかないんだ」っていう文脈で観てるって聞いた。

藤田
それと、どうも、科学か何かが裏にある気配があるじゃないですか。主人公の父が細菌兵器みたいな開発してるっぽい。

飯田
アンブレラ社でしょ(笑)。

藤田
そこらへんは、科学の力が関係してくるんじゃないのかな。あの世界観の設定にも。

ゆりいか
元ネタが『マヴラヴオルタナティブ』ですから、ガチガチのSFを持ってきてると思います。

藤田
よくあんな殺伐として、皆がころころ死ぬ作品が大ヒットしているな、と感心するよ。愛着持つより前にキャラクターが死んじゃうからね。死んだやつが誰かすらよくわかんない。

飯田
若い子はエグいのが好きなんだよ。『進撃の巨人』も『まどマギ』も『ダンガンロンパ』もボカロもそう。女子大生が「かわいい女の子がマミられる(=死ぬ)のが好き」と言うのを聞いたよ、俺は(笑)。

藤田
あんなに殺伐した世界観がフィットするってのも、ちょっと恐ろしい感じがする。『闇金ウシジマくん』よりも殺伐としてる。

ゆりいか
そうですね。殺伐としてますね。

飯田
でもギリギリ、グロくはない。エグいのは好きだけどグロいのはイヤっていう。フリーゲームでもエグいのがみんな好きなわけで、ゲーム実況でも『青鬼』とか『Ib』とか『魔女の家』とか『ゆめにっき』とか『のびハザ』(『のび太バイオハザード』)とか、全部二頭身のキャラがあっさりぶっ殺されたりする。『のびハザ』は冒頭からのび太がゾンビ化したママを包丁で殺さないといけない。テレビでやってるドラマやアニメ、ハリウッド映画みたいなマス向けの作品では自主規制されてしまうような表現をぶち破るのが好きみたいだね。『進撃の巨人』とか『ダンガンロンパ』はTVでやれるギリギリヤバいところを描いているからいいわけだ。

藤田
海外のゾンビゲームやると、結構リアルなゾンビが出てきて、棒とかで叩いて殺して、身体欠損描写されたりしますね。そういうのが好きみたいですね。

飯田
でも日本ではグロいのはイヤがられる。

ゆりいか
その差は微妙ですね。

藤田
不思議だね。精神的・記号的な、のび太がママを殺すとか、エグさはいいけど、見た目グロいっていうのはアウトなの? 洋ゲーは見た目グロさに突っ走りまくってるよ(笑)

飯田
描写にこだわるのが洋モノって感じがする。昔話の研究をしている小澤俊夫――オザケンの父ちゃんだけど――が「グリム童話は残酷だ」と言われて大人が規制しようとするという話をしてて。小澤さんは童話の表現を規制したり変えてしまうことには反対なわけ。「童話は『残酷』だけど『残虐』には絶対表現しないんだ」と言ってたの。たとえば『かちかち山』で「タヌキがばあさんを殺してババ汁にしてジジイに食わした」というエピソードがあるけど、ばあさんをどうやって解体したとか、そういうことは詳細に描写しない。出来事しか描いてないんだと。それが昔話は「残酷」だけど「残虐」じゃないという意味で。日本の若い子が「エグいのは好きだけどグロいのはイヤ」っていうのとちょっと似てるなと思った。出来事だけ分かれば、それによって生じる感情は伝わるからね。悲しいとか、怖いとか。

藤田
描写があんまりないと。

飯田
なくてもいいというか、あると引いちゃう。気持ちがグサッとくるようなものが欲しいだけで、見ていて気持ち悪くなるものはいらない。

藤田
桐野夏生の『OUT』とか、風呂場で人解体してる長いシーンとかグサッとくるけど、来ない?

ゆりいか
来ますよ(笑)。

飯田
来るけど、気持ち悪いじゃん(笑)。

藤田
グサッと来るけどね。


●拡散するゾンビたち

ゆりいか
他に何か、これを紹介したい作品はありますか?

飯田
藤田くんはゾンビの話はしとかないと!

藤田
ゾンビねぇ……。

飯田
なんでそんな消極的なの(笑)。

藤田
ちょっとゾンビは説明が長くなる。

ゆりいか
「藤田さん、『ウォーキングデッド』見ましたか?」っていう質問が来てます。

藤田
見ました。まだ、DVDが出てるところまでですが。あれも、エグいというか、辛い話ですよね。冒頭、ちっちゃい女の子がゾンビになってるかなってないか分からないけど撃つってところからスタートして、その後二話目とかはゾンビの匂いがするとゾンビが来ないから、ゾンビを解体して内蔵を身体に塗ってすり抜けていくとか。銃弾が少ないから、一匹一匹頭かち割って殺さなきゃいけないから。丁寧に一体一体殺していって埋めたり燃やしたりするんだよ。あれはグロいんだけど、凄く上品。不思議なもので。逆だよ、さっきのと。

飯田
「自分たちと同じ人間がゾンビになりました」ということを強調する作品だよね。他の作品だと「ゾンビはとりあえずぶっ殺していい」対象になりがちだけど、そうしない。

藤田
仲間がゾンビになった時に殺すときもすごい悲しんで、土葬とかの葬儀のシーンが多い。死についての扱いがナイーブですね。だから残虐だけど残酷じゃないのかもしれない。

ゆりいか
ゾンビものだと、Twitterでは『The Last of Us』をあげろという声もありました。

藤田
あったねー。あったけど、まだプレイし終わってないんだよね。

ゆりいか
「歴史に残るゲームだ」みたいに絶賛されてますよね。

藤田
アンチャーテッド』のグループが作ったやつですよね。やるつもりですが、今、積みゲーが多いんでちょっと後回しになっています。

ゆりいか
ゲームでもゾンビものが脈々とあると。

藤田
洋ゲーはゾンビゲーが凄く多くて、こいつらバカなんじゃないかってぐらいゾンビを殺してんだよね。何万体も殺してんだよ、毎日毎日。Appleのアプリとかで上位ゲームとか見るとゾンビだらけ。もう、なんでもいいんだよ。『プランツvsゾンビ』とか、植物とゾンビが戦う。

一同
(笑)

藤田
『ゾンビコンテナー』っていうパズルゲームもある。ナチとゾンビはよくセットになる。ゾンビを核爆弾で吹っ飛ばすみたいなシミュレーションもある。なんでもかんでもゾンビになる。なんで、あんなにゾンビが好きなのか、意味が分からない。ずっと考えてプレイしてるんだけど、よく分からない。

飯田
荒木飛呂彦先生は本で「ゾンビものを観てると癒される」と言ってたけどね。

藤田
癒されるところはあるかもしれない。

飯田
荒木先生は、ゾンビは走っても何してもなんでもいいんだけど、一個だけ許せないのが「リーダーがいるゾンビものは絶対イヤだ」と言ってて。ゾンビになった瞬間、どんなやつでも平等になるのがすばらしいんだと。だから統率者がいる作品はダメだって言ってたよ。

藤田
ランド・オブ・ザ・デッド』は確か統率者がいたかな。
 最近もうゾンビむちゃくちゃだから、腐らなかったりするし、喋れるし、普通に知性あるとか、噛まないとかね。何でもありになってきてるところがある。面白いですよ。
 ゾンビでいうと、哲学的ゾンビ問題があって、人間の内面がありますか、ありませんか、あるいは人間じゃないものにも内面や魂がありますか、ありませんかというもの。例えば初音ミクにこんなに感情移入が出来たり、生命感があるように感じる感性とか、あるいは人工知能に感情移入する、そこに何か生命のような何かがあるかなという感じ。ゾンビってゲームに今一番多い。映画の中にも多いけど、基本的にゲームの中にあって、要するに人工知能が動かしてるわけじゃない。CGと人工知能が。人間だけど人間じゃないようなものとしてゾンビが大量に撃ち殺されまくってるわけだけど。なんでこんな現象が起きているのかに、まず驚いています。

飯田
藤田くんがゾンビを虐殺しまくっているシリアルキラーだということはよくわかったんだけど、たとえば『MGS』だと人間の兵士は殺さない派なの?

藤田
いや、がんがん殺すよ。もう関係ない。ソビエト兵だろうと北朝鮮兵だろうと。『MGS』じゃないけど、日本兵を撃つ時だってあるんだからね。嫌だよ。「トツゲキダ!」とか「カミカゼダ!」とか言って。

飯田
ゾンビじゃなくてもFPSなら人間でも殺すのか(笑)。まじめにゲーム内のゾンビと人間を区別して扱う意味がわからなくなってくるな……。


●キャラクター文化としてのゾンビ

ゆりいか
「美少女ゾンビの話をしてほしい、藤田」っていう声がありますよ。

飯田
ああ、『さんかれあ』とか。

藤田
さんかれあ』もそうだけど、『まどマギ』もそうだし、広く見れば『ピンドラ』もそうだけど。何だろうね、あれは。なんで美少女ゾンビにしたがるのかね?

ゆりいか
確かに、ライトノベルとかだと美少女ゾンビものは多いですよね。

藤田
これはゾンビですか?』(=『これゾン』)の作者の木村心一さんにインタビューを飯田さんはされましたよね?

飯田
でも『これゾン』はヒロインがゾンビじゃないよ。主人公がゾンビ。主人公も腐らないし、木村さんも「どっちかというと吸血鬼に近い」って言ってたけども。

藤田
さんかれあ』はヒロインがゾンビでちょっとずつ腐っていくかもしれないという話。なんで、美少女をゾンビにしたがるのかな?
 『アイアムアヒーロー』だってヒロインがゾンビになりかけて、ゾンビになりかけたけど、一緒にいたいみたいな。

飯田
あれは「難病もの」だと思うんだよね。ヒロインが死んじゃうかもしれないと。なんかしらリミットを設定しないと劇として盛り上がらないから。舞台装置として、だんだん腐って意識なくなっていくぞというのを置いてるだけなんじゃないかなあ。

ゆりいか
私の頭の中の消しゴム』みたいな。

藤田
確かに、ガンに浸食されていっているのと同じようなものとは言えるんですけどね。それだったら、難病にすればいいはずなのにゾンビにするっていうところが、ちょっと分からない。美少女ゾンビは日本ぐらいでしか出てきてないはずだから、キャラクター文化とか色んなものと考えながら、セットにして考えなきゃいけない。まだ、ぼくもはっきりと分かってない。
 むしろ、なんで美少女がゾンビになるのかっていう解釈があれば教えてほしいぐらい。

ゆりいか
「何でも美少女化だからじゃねーか」っていう声も。

藤田
それはそう。だから、なんで何でも美少女化される国なのかっていうのが分からない。

ゆりいか
ウォーム・ボディーズ』とか「イケメンゾンビ映画は海外でもある」ってコメントがありますね。

藤田
今度、ビン・ラディンがゾンビになるって映画がやるらしい。

一同
(笑)

藤田
『オゾンビ』っていう。びっくりしたよ。ナチがゾンビになるのはよくあるけど、ついにビン・ラディンまできたかと。

飯田
SFに話を戻すけどさ、ゾンビっていまSFに入れてもいい雰囲気なの?

藤田
一部だけじゃない? 長谷さんとか、伊藤さん円城さんが書いた『屍者の帝国』があったから、ゾンビとSFは隣接性がある雰囲気があるけれど。『NOVA10』も結構ゾンビものというか死後の世界系とか、人間じゃないゾンビ風味人間の作品が多かったのが印象的でした。片瀬二郎さんの『ライフ・オブザリビングデッド』とか、山野浩一さんの『地獄八景』とか、北野勇作さんのもそうだったかな? あれと哲学的ゾンビ問題と、死後の世界問題がSFで人気のトピックになってる。SFの人たちの問題関心が、どうもゾンビの形をとって出てる部分もあるんじゃなかろうかという感じがして。
 美少女ゾンビが出てきたのは……ゾンビは世界的なテーマになっていて、アメリカでは『ウォーキングデッド』とか『ワールドウォーZ』とかゾンビ撃ち殺し系『レフトフォーデッド』とかみたいなのだけど、日本はゾンビの受け取り方が違う。要するに身体性と人間性の変容の象徴だとぼくは考えていて。変容を、自分たちの実感として作品の中に見いだすときに使いやすい装置としてゾンビがある。日本にゾンビ的テーマが来た時に「ポストヒューマン」ものと同じで日本風にアレンジしてしまったんだと思う。SFの場合は脳科学とか意識はあるかとか哲学的問題とか、人工知能の問題とかロボットの問題とか、SFが持ってるやり方でその問題に取り組んじゃう。
  キャラクター文化が人工知能などのSF的テーマと接近してきていることもそこに関係していると思う。キャラクターって生きてないじゃん。生きてないけど、生きてるかのように錯覚されてるじゃない。それで不死性を持ってる。あんまり滅びないでしょ? デジタルデータだし。ぬいぐるみとかは滅びるとかさ。だから美少女ゾンビはあんまり崩れない傾向がある。身体が腐ったりしない。キャラクター文化で経由して捉えられたゾンビだから、ゾンビのそういうキャラクター的解釈だからなんじゃなかろうかということを飯田さんがおっしゃってて。

飯田
え? 言ってたっけ(笑)。

藤田
いや、キャラクター文化の方。

飯田
ああ、日本ではなんでも一回キャラ文化として取り込んじゃった上でジャンル的に処理するってことだよね。ゲームにしろマンガにしろSF小説にしろ。聞いてて思ったのは、ボカロ小説も「ボカロに心があるか」とか、どうやって心を獲得するかみたいなのがある。それって古典的なSFのテーマだよね。

藤田
手塚治虫からそうですかね。

飯田
そういうテーマのボカロ曲では「ココロ」が名曲。小説にもなってるけど。泣ける。

藤田
最近の新しいところは、自分たちに心がないかもしれないと思い込むところだと思うんですよ。人間とか生きてる自分とか、他人にも心とか内面を持っていないかもしれないという懐疑が、現代的なものかなと。
 あと、初音ミクとかが動いてたり、人工知能がある程度しゃべれたりして、本当に生きている感じを実感として受けるようになっているという環境の変化は大きいですよね。


●ハードSF――身体性

藤田
ちょっとガチSFの話しますか。
 「身体」テーマの作品を紹介します。マックス・バリーの『機械男』。ダーレン・アロノフスキーが今度映画化します。『電車男』って「train man」っていう英題で翻訳されている、あれって掲示板のやり取りを反映して作品を変えていったじゃないですか。これも自分のホームページに毎日載せてコメントをもらってそれを参考にしながら書いたっていう作品で、原題が「machine man」って言うんですよ。「train man」にちょっとオマージュを捧げているような気配がある。
  情報中毒みたいなオタクみたいなやつが主人公で、しかも天才的な技術者なんですよ。物語としては、最初、家で起きた時、スマホが見つからなくて、巨大万力みたいな中にあるのを発見して、取りに行ったら、足挟まれて、足もげるんですよ。片足が。そして、義足を作る。凄い義足を自分で作っちゃった。でも、片足だけだといやだから、反対も欲しいなと思って、反対の足も万力に入れちゃうんですよ。

一同
(笑)

藤田
それで、両足がメカになったので、人間はもっと完璧になっていいはずだからっていって、今度は腕を万力に挟もうとしたら会社に止められて。会社は警備員の腕をマシンでムキムキにしちゃって、「あれは俺が作ったやつで、人にやりたいんじゃない、俺は人類のためにやっているんじゃなくて、自分の身体をよくしたいんだ」って言って喧嘩になる。そのうち会社が兵器、ロボット兵士みたいな強化人間みたいなのを作るっていう受注をしちゃって。博士は本当はもうやりたくないのに、勝手に改造とかされまくって、意識失っている間に原子炉とか付けられて、脳しか残ってない。
 最後の方は「もう止めてくれ!」って。だから科学とかテクノロジーで人間はよりよく向上したり、もっと良い世界にいけるんじゃないかと思ってどんどん身体を捨てようとして、改造していく。だけど、最終的にはやっぱ悲惨なことになるよねみたいな、こう『へルター・スケルター』みたいな話ですね。

ゆりいか
ハードなSFは他にもけっこうあがってましたよ。飛浩隆さんがすごい多かった。

藤田
『グラン・ヴァカンス』が出てましたね。『グラン・ヴァカンス』は面白い。これも仮想空間の中のAIが登場する――

飯田
そういう意味ではキャラクターものでもある。

藤田
今のSFは人間と身体の問題にテーマが寄ってますよね。

ゆりいか
あと、出てたのは小川一水さん。

藤田
『コロロギ岳から木星トロヤへ』とか、『天冥の標』も。『天冥の標』は本当に凄いんだけど、量が多すぎる。

飯田
一巻ごとに時系列も話のタイプもどんどん変わっていくから、どういう話なのか説明しづらい。各巻ごとにSFとしてチャレンジがあるから、読み応えはすごいあるけど。

藤田
『コロロギ岳から木星トロヤへ』は『天冥の標』を書いてる間に書いた中編。過去から未来へ情報を伝達しなくちゃいけなくて、なんとかして伝達するの。未来からこっちへはモールス信号届くんだけど、こっちからは時間を超えて届けなきゃいけないから、どうする? みたいな時間SF。『天冥の標』の方が作品としては凄いけど。

ゆりいか
あと、多かったのは瀬名秀明さんの『希望』ですね。

藤田
『希望』については『ポスヒュー』でシノハラ君が書いてる。
『希望』自体が難しい小説だし、シノハラ君も難しい書き手だから、難しいものに難しく挑んじゃってる。重力と感情移入とシンパシーを扱った、なんか『ジョジョ』みたいな感じだけど。

飯田
キャラクターやロボットやヴァーチャル・リアリティを捉える時に「重力」っ、重みという概念を入れるといいんだというのが瀬名さんの『希望』の時の考え方で、「ふーん」って思ってたら宮内さんの『ヨハネスブルグの天使たち』もロボットがどんどん落下していく話だったんだよね。意識しているかどうかはわからないけど。

藤田
身体性とか重み、物性を持たせようという傾向はありますね。
確かあと、衝突実験見て、感情移入して、自分が衝突実験されてる人形と似てくるという話じゃなかったっけ?

飯田
七〇年代にはバラードの『クラッシュ』とか、自動車事故に性的快楽を覚えるという頭のおかしいSFがあった。ピンチョンの『重力の虹』でもセックスとロケットが連動していたと。でも今は落下とか重力と言ってもそういう感じじゃないよね。衝突を性的なものとしては捉えていない。

藤田
セクシャルではない。だから、余計分かりにくい。性的倒錯だったら何でもありっていうか、性的倒錯は全てのものに起きるような感じがあって、狂気とかいう言葉で楽に済ませられる。けど重力とか衝突とかに人間性の本質がある、重力とコミュニケーションと衝突みたいな話だと、そういう解釈に逃げられない。難しいと思います。


●〈伊藤計劃以後〉――「いま・ここ」のリアリティ

藤田
最後に聞きたいんだけど、ゆりいかくんは伊藤計劃作品はどうだったの?

ゆりいか
僕ですか? 好きですけど。そうですね……。伊藤計劃は言葉や文字に対して、ものすごく重きを置いていると思っています。『虐殺器官』もそうじゃないですか。「メガデスを思考する文学」とか言ってますけど。メディアを利用すれば人の思考を統率できると。ある意味「文学」が持っていたものを描いていると思うんです。明治文学だってある意味そういう統率を志してやろうとしてるところもあったし。そういう大きい流れとして、言葉が関連するメディアの大切さがあるんだ、っていう話として読んだんです。

藤田
ぼく、もともと純文学の読み手だったんだよ。大学時代は。伊藤計劃円城塔が出てきた時に、これはもうSFの方がいいんじゃないかと正直思ってSFの方に行ったところがあって。純文学はメタフィクションとか色々やってきたけど、純文学の方法では今生きてるこの感覚を描けてないっていう思いがずっとあった。この生の感覚みたいなのが。その時に伊藤計劃円城塔とか、その前に「SFマガジン」の「ぼくたちのリアルフィクション」特集とかを読んだりして、こっちの方が同時代として生きてるリアリティを表現するのにふさわしい器なんじゃないかと。
  大江健三郎が、現代文学は例えばドストエフスキーには適わない、過去に優れた文学があるのに現代で文学を書く意味は何かと言ったら、同時代に生きてる人間が、同時代をどう考えて、どういう風に受け止めて、どう表現するかを共有するために必要なんだ、それが現代文学の価値なんだと言っている。『核時代の想像力』っていう本の中で六八年か九年ごろに原爆の話、科学の話とかを意識しながら言ってるんですよ。
  それで、例えば情報社会の中で生きているリアリティを表現するには純文学よりもSFの方が手法としての蓄積が多いので、強くなっている。すなわち、同時代性が現代文学の価値だとしたら、SFの方が現代文学としての価値は高いんじゃないか。こっちの方が自分たちの自分の感じてる世界や言いたいことが言える世界だ、同時代をあらわせているんだと思った。純文学よりもね。
  ただ、純文学の方がうまく表現できる側面もある。例えば、女性性とか、ぼくは女性じゃないけど、そういうものは多分、純文学の方がうまかったりする。あるいは震災という経験をどう言葉にするかとか。でもテクノロジーに囲まれたこの現代社会に生きている感覚を、ある種の寓話込みで表現するにはSFが非常にうまく機能している。〈伊藤計劃以後〉っていう言葉にはそんなに意味はないと思うけど、現代の若い人がそれなりに、そんなに教養も必要なくSFを楽しめてる背景には「同時代性」があるんじゃないか。同時代性があるってことは、現代文学なんだよ。大江健三郎の言葉を借りるならね。
  これを否定したい人はノーベル文学賞者を否定するってことだから。大江健三郎を論破しないといけない(笑)。

飯田
突然権威主義になった(笑)。
 ただ、ある意味では同じように僕も思っていて、ボカロやネット小説をなぜおもしろいと思っているかと言うと、商業出版や商業音楽にはいろんな自主規制がある。でもボカロやネット小説はそんなの関係ない。商業では「ダメだよね」って言われていることもいっぱいやっちゃう。ボカロで流行ってる曲なんてJ-POPみたいな前向きな歌詞はほとんどなくて、すごい可愛い曲かすごいエグい曲しかほぼない。「死にたい」とか、「俺は物語の中心じゃない」みたいなのがすごい多い。

藤田
ある種のリアルさがそこにある。

飯田
そうそう。そういうのがストレート出ているからこそ受け手に響いてるところがある。たとえば世代によってはシンガーソングライターがアコギ持ってじゃらーんって鳴らしてフォークソング歌った方がリアルに思う人もいたと思う。素朴だからね。対照的に、ボカロの曲ってすごい速いし音域も高いし、普通の意味ではリアリティがないように見えるんだけど――

藤田
そういう形でしか表現できないようなリアリティや生の感覚があるように見えるわけですよね。

飯田
うん。ハードコアパンクもギターを異様にかき回したり、喉をつぶすくらいの勢いで歌って、自分たちの主張を伝えている。それと同じで、ボカロの曲がやたら速くて高音というのはさ、表現者が抱えている感情の振れ幅を伝えようとすると、表現自体が極端になるっていうことだと思う。SFも昔は現実にいる人間じゃない架空の設定を作っているから、こんなの嘘だ、子ども遊びだ、ということで否定されていた。だけど、そうじゃなくて、激情とか現下の経済状況やテクノロジーが人々にもたらしているものを描こうとすると、構築性が高いものの方がむしろリアリティがある。そこは似てるんじゃないかな。ボカロと現代SFは。

藤田
人間を描くんじゃなくて、人間がシステムの相互関係の中にあるという前提で書くとしたらシステムも書かなければ、設定として作らなければ、人間がもはや描けないというような前提がどれもあるような気がする。野�啗まどさんも法条遥さんも、藤井太洋さんの『Gene Mapper』もそうかな。
 そのリアリティがぼくにとっては今のSFが盛り上がっていることの、本質的な理由なのだと思う。こと情報社会とかテクノロジーを取り入れた生を描くという点では、SFに優位性があるように思える。そういう時代になったということなんだと思うんですよ。それは、よくも悪くも、ですが。
 ぼくは「ダ・ヴィンチ」で「七人のブックウォッチャー」っていうコーナーで、主にSFの小説を中心に紹介させてもらってるんですが、わりと反響がいいんです。『BEATLESS』が今回上位に入った話もそうですが、一般の方々にSFが読まれてる気がする。「SFちょっと苦手」っていう意識があっても、意外と読んだらはまったり、フィットすると思います。「この感覚、言葉にならなかったけど、こういうことだったのかもしれない」。そんな感じにフィットするSFがきっと見つかるはずです。いい作品に出会えばハマるはずなんだよね。SFだからって理系じゃないと分からないとか、小難しい理屈がないと分からないとかいうわけでもない。そういうのもあるけど避ければいいわけで。意外と気軽に読んでみて面白いものだということでいい。それが、生きる上で何か役に立てばいいんじゃないかと思います。

(収録日・2013年8月10日/構成・藤井義允)

限界研『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』のタイトルにもある「伊藤計劃以後」について、限界blogで読める記事の一覧です。

[http://d.hatena.ne.jp/ge