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【日本SFサイシン部02】不確かな風景――下永聖高『オニキス』(ハヤカワJコレクション)【評者:海老原豊】 

最新の日本SF(出版されて、せいぜい半年以内)の最深部に迫る! 書評コーナー。隔週で月2回更新を目指す!

2回目は、下永聖高『オニキス』。第一回ハヤカワSFコンテストで最終選考に残り、『SFマガジン』2014年1月号に掲載された表題作「オニキス」を含む全五作の短篇集。その他の作品は本文庫のための書き下ろし。


オニキス (ハヤカワ文庫 JA シ 8-1)

オニキス (ハヤカワ文庫 JA シ 8-1)

下永聖高の作品は古くて新しい。後に述べるが、作品それ自体は現実を多重露出のように重ね合わせて見ることに専心している。作品から出てジャンルとう枠で見てみると、SFの古さと新しさが奇妙に同居していることに気がつく。いわば作品の内部でも作品の外部でも、現実を多重露出しているのだ。


各短篇のガジェットを拾ってみよう。


「オニキス」。時間を超えて存在する特殊物質マナ。語り手はマナの影響を受けずに記憶を保持できる装置のモニター。だから、マナによって世界が書き換わっていくなかで彼だけはその変化を認知できる。


「神の創造」。妖精発生装置。部屋の状態とリンクした異世界と、そこに住む人々を、部屋の主に見せることができる。さらにその主は異世界の住人達に「神」として存在を感じられる。語り手は自分の部屋に異世界の住人を「重ね合わせて」見る。


「猿が出る」。語り手には猿が見える。正確には、猿ではなく類人猿。その猿は、人間に進化する過程を一日一万年ペースでたどるのだ。どうやら、語り手の脳にある腫瘍が原因らしい。腫瘍は、成長するはずだったもう一つの脳であり、その脳が種の系統発生をヴィジョンとして語り手の見る世界に投影している。


「三千世界」。平行世界を渡って歩ける装置。語り手はこのナビを使い、次から次へと世界を渡り歩く。チートコードという呪文のような特殊能力を使い追っ手から逃げ、他方でチートコードの使いすぎで増加したエントロピーを抑えるために訪れる天使からも逃げる。


以上のような下永作品のSF的古さとは何か? 一言でいえば、フィリップ・K・ディックみたいなのだ(文庫解説の藤田直哉も指摘している)。ディックのどの作品でもいい。たとえば最近にあまれた短篇集『変種第二号』が端的に示しているのは、核戦争の恐怖に裏打ちされた世界の不安定さ。明日、いや一瞬後にも核爆弾が降ってくるかもしれない。イマ・ココの現実は不安定であり、明日には全く別の世界が存在しているかもという恐怖。ディックは、ほとんど強迫的なまでに核戦争「前」と「後」を絶えず重ね続ける。ディックのヴィジョンは、物理的に現実世界が脅かされて始めて生まれた。下永のこれら短篇で執拗に描かれる現実に何かが重ねられたヴィジョンは、だから極めてディック的であり、またその意味で伝統的なSFの作法にのっとっている(古いSF)。


では、SF的な新しさは何か? それは私たちの時代の不確かさが何に由来しているのかと結びついている。それは私たちの意識が脳神経科学的な現象でしかないという気づきからだ(藤田解説では「脳科学的アプローチ」と呼ばれる)。「オニキス」「神の創造」「猿が出る」にはいずれも脳神経科学に関る装置(ガジェット)が出てきて、物語の肝となっている。冷戦下では、世界は物理的に不確かであった。現在では、世界は脳神経科学に不確かである。

神経科学的な不確かさ――伊藤計劃以後の作品であれば、よくある話かもしれない。下永の新しさは、この不確かさを風景として、現実に重ねあわせる筆致にある。


この短篇集の最後に置かれている「満月」。私小説ともエッセイともとれる不思議な短編。作者と思しき語り手が記す東南アジアへの旅。旅先で聞いたスマトラ沖地震の知らせ。彼は「自分は、ほんとうはあのときの旅で死んでしまったのではないか?」と考える。現実からの遊離感。しかし、もっともそれを強く感じたのは、日本に帰ってきて空港から都心へと戻る電車の中からみた景色、「すべてが終わってしまった」ような、静かで小穏やかな世界を見たときだった。


アーキテクチャという言葉が指し示しているのは、私たちの精神が環境として物質化している事態だ。つまり、精神を神経として物質的に風景に重ね合わせている。こうして描かれる私たち自身の不確かさは、私たちの世界の不確かさと物理的に続いている。ここがディック的な古いSFの世界にはない、下永の新しいSF的要素だ。


核爆弾は落ちてこない。物理的な不確かさは消滅した。あるのは、精神が風景と重ねあわされる環境的(アーキテクチャ的)な不確かさだ。(海老原豊

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