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「愛」じゃなくて「愛についての感じ」海猫沢めろん試論 第二回【評者:藤井義允】

「愛」じゃなくて「愛についての感じ」
――海猫沢めろん試論――


評者:藤井義允


第二回


●問題提起確認


 前回では海猫沢めろん『左巻キ式ラストリゾート』から一つの問題提起を示した。それは、イメージやキャラクターといった理想や想像を愛する者は一体その何を愛しているのか、というものだった。また今度は別の角度から始めていきたい。


●再び、理想と現実

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 東浩紀の著作『動物化するポストモダン』ではオタク系文化の潮流は擬似的な日本を作り出し、またオタクたちがその擬似的な日本に対し自己肯定(ナルシシズム)を導く幻想として機能していると書かれている。そんな中でオタクたちは現在大きな物語の凋落とともにデータベース消費へと変調していった。またそのようなデータベース消費ではキャラ萌えと呼ばれる消費行動が現前しているというのである。そしてそのキャラ萌えを起こさせるキャラクターとはデータベースへ登録された設定などから組み合わされて作り出されたシミュラークルなるものだと述べている。このようなシミュラークルで作られたキャラクターが多様に存立しているのが、現代という時代である。そのようなキャラクターを動物的に求めているのが九〇年代以降の社会と言っている。
 これは先ほどの『左巻キ式』で「海猫沢めろん」が言っていたことと重なる部分がある。現在の社会ではこのようなシミュラークルで作られたキャラクターが乱立しており、そのキャラクターを好きになるということは、その要素ないしそれを作り出すデータベース上のものを好きになるということだ。

 また、講演会で海猫沢めろんは次のように言う。

アニメのキャラがいたとして――なんでもいいですよ、ハルヒでも――なんか絵が下手なだけでこれハルヒじゃねーなって思いますよね? 声優が違っても思いますよね? あるんですよ、俺の中にハルヒ感っていうのが。ゴーストが。
(朝日カルチャーセンターチャリティー講座「愛についての感じ、ください」)

 理想である純粋概念的なキャラというものというのは、その存在が単純な要素の組み合わせであるために、その規定するキャラクター性は単純な要素が変わるだけで失われる。キャラクターのキャラクター性というのはそのような要素の組み合わせで図るが故に、それを愛する者たちも要素に着目し、それを愛する(≒消費する)という形式が生まれているわけだ。
 ではそんな要素を愛する純粋理念的キャラクター性愛と一般的な愛、これらの差異はなんなのだろうか。


●『愛についての感じ』――愛って何?


 ここで海猫沢めろんの『愛についての感じ』に触れたいと思う。しかしここでまず扱うのは二つの作品、「ピッグノーズDT」と「新世界」についてのみだ。

愛についての感じ

愛についての感じ

 「ピッグノーズDT」では主人公の「町田」が今までは女性だと思っていた「ヒカリ」が実は性同一障害で、心は女性だが、体は男性という人物に登場人物の町田は好意を抱いてしまう。ここで「町田」は「ヒカリ」に確かな愛を感じていたが、その事実を知った瞬間それが揺らいでしまう。しかし、その後「猪狩」という昔はホモ狩りをしていたという人物が「町田」の店へその人自身男色好きの人物になってやってきて、「町田」が「ヒカリ」とのことを相談するとある場所へと招待される。そこはゲイ風俗店で、主人公はそこで同性との性行為を果たす。そしてその後、主人公は最後にこのように述べる。

 目がさめたら、まず、最初にヒカリさんに会いに行くのだ。そして彼女のことを愛してみるのだ。深く。切実に。
 たとえ愛し方がわからなくても。やってみる価値はある。
 もう、愛することしかできないのだ。
海猫沢めろん『愛についての感じ』より、「ピッグノーズDT」)

 最終的に「町田」は「ヒカリ」のことを愛そうと思う。主人公はそのような彼女の性別など関係なく、「ヒカリ」自身へと愛情を向けている。つまり愛とは性別に囚われるものではないということだ。しかし、だとしたら一体彼は「ヒカリ」の何を「愛した」のか。

 そしてもう一つの作品、「新世界」ではある刑務所から出てきた男「金城」が、西の色街のある風俗店で遊女の「たま子」という女性へとコンタクトをとる。しかし「金城」は「たま子」には全く触れずその接待時間をすごし、「たま子」からはヘンコと言われる。そして偶然、「金城」と「たま子」は再会をし、二人互いの知り合いの子供二人と映画館へと赴く。そこで次のようなシーンがある。

「なあなあ、この人たま姉の恋人なん?」
「ちゃうちゃう、友達やで」
「友達と恋人ってどうちゃうのん」
「レベルの高い質問や……。うーん、身体の関係があるかないか、ていうこととちゃうかなあ……いや、まってな……ちゃうかな……その場合、セックスしてへん恋人っていうのはどうなるんやろ……」
頭をかかえていたかと思うとたま子は、はっと顔を上げてぽんと膝を打つ。
「あ、わかった。関係の位置の問題やわ。つまりな、男と女のいちばんうまくつきあえる距離がどこかによって、呼び方が決まるねん」
海猫沢めろん『愛についての感じ』より、「新世界」)

 ここで「たま子」は友達と恋人について、自身の考えを改めているのが見て取れる。身体の関係があるかないか、という基準で恋人(ここでは恋人=誰かを愛している者とする)という呼び方の線引きを思いついていたが、このことに関して、「たま子」はセックスしていない恋人について考え、それを再考する。注目すべきは肉体関係の有無で恋人、つまり人を愛していると規定することに対して「たま子」がそれを否定しているこの部分だ。つまり、肉体関係=愛ではないということが「たま子」の中で確認される。一体愛とは何なのか?

 自身のブログではこのように述べている。

「愛」なるものは自分にしかわからない。自分の持つ愛が他人の言っている愛なのかはわからないし、目に見えない。かといって生き物を解剖すると死に、魂などどこにも見あたらなくなるのと同じで、愛は部分として見ることもできない。
海猫沢めろん.com:http://uminekozawa.com

 では結局先から問題にあげている「愛」とは何なのだろうか。人は何を愛して、一体何を愛と呼ぶのか。
 この問いかけから海猫沢めろんという作家の物語を結論づけていきたいと思う。

≪continue…≫