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「愛」じゃなくて「愛についての感じ」海猫沢めろん試論 第一回【評者:藤井義允】

「愛」じゃなくて「愛についての感じ」
――海猫沢めろん試論――


評者:藤井義允


第一回

●はじめに

 五月某日。朝日カルチャーセンターで開催された、海猫沢めろんと詩人・穂村弘のチャリティーを兼ねた講演会「愛についての感じ、ください」を聴講しに行った時のことである。この講演は、海猫沢めろんの『愛についての感じ』と穂村弘『短歌、ください』の出版記念イベントとして開催され、最初に穂村弘海猫沢めろんの『愛についての感じ』の書評を述べる形で始まった。周りを見渡すと講演の会場内は穂村弘氏の氏のファン、特に女性客が多く聴講していた。『愛についての感じ』に穂村弘は本書の帯に書いた推薦文「この美しさはなんだろう。愛って言葉が生まれる前の世界みたいだ。」という言葉を書いていた。そのコメントに関連して穂村弘なりに本書から醸し出される愛について、例を交えながら話し、それに対して海猫沢めろんがコメントしていくという形で数分が過ぎていった。私と多くの聴講者は、そんな穂村弘の言葉に対して、真剣に耳を傾けていた。そして『愛についての感じ』に関して、海猫沢めろんに話が回った時である。彼の一言は次のようだった。

最初に愛って言うよりも恋愛をやるじゃないですか、人間って。恋みたいな。それがクラスチェンジしてレベルアップしたら愛になるっていう感じに最初って思うじゃないですか。だけどそういう経験がまずないんですよ。なぜなら僕はずっとアニメのキャラが好きだったから。
(朝日カルチャーセンターチャリティー講座「愛についての感じ、ください」)

 前おきが長くなったが、私はここから「海猫沢めろん」という人物についての本考察を進めていきたいと思う。つまりここではこんなちょっと変わった作家・海猫沢めろんの描く物語は一体どのようなものなのか、ということを考えていきたいのである。
 では、まず海猫沢めろんの根底にある考え方を追っていくために一つのテーマに沿って論を展開していきたいと思う。それは「愛」についてである。

●『左巻キ式ラストリゾート』――問題提起

『左巻キ式ラストリゾート』は海猫沢めろんの初小説となる作品である。この物語は二次元世界に主人公が捕らわれてしまう話だ。主人公はそんな世界で様々な登場人物=キャラクターに対して好意を抱く。そしてその後、主人公と同じ次元にいる「海猫沢めろん」というキャラクターにその世界が主人公の作り出した世界と偽物の世界ということを知らされ、また「海猫沢めろん」は次のようなことを言われる。

「名前なんてどうだっていい。データベース、サンプリング&リミックス、スライドフォーマット、テンプレ。この世界だけじゃない、この世界の隣、この世界の裏、この世界の上、別の二次元並列世界だってこの理論で動いてるものがあるんだぜ。おまえがキャラクターに対して抱いていた感情なんて、簡単に操作できる、その程度のものなんだよ」
海猫沢めろん『左巻キ式ラストリゾート』)

主人公はそんなサンプリングされて作られたキャラクターおよびそのような世界に対して、愛していることを宣言する。しかしここではある疑問が浮かんでくる。「要素の組み合わせ」としてのキャラクターまたは世界を愛する場合、それは一体何を愛したのか。それは単純な「要素の組み合わせ」として「部分部分の要素」を愛したのか。


理想と現実

 ここで参照したいのは講演会「愛についての感じ、ください」の海猫沢めろんの発言である。

三次元の恋愛もあるんですけど、なんか三次元の人と付き合うとずっと罪悪感がぬぐえないんですよ。……(中略)だから理想があるんですよ。理想っていうのはやっぱり二次元的なもので、存在してないものに対してすごい愛情があるんです。だけど、三次元の人って、やっぱり二次元とは違って変化しちゃうんですよ。

(朝日カルチャーセンターチャリティー講座「愛についての感じ、ください」)

 またもう一つ、これは海猫沢めろんのブログで書かれていたものである。

愛を考えるときあまり人間対人間、というのがピンと来なくて、人以外のものか純粋概念ばっかり思いつくのです。
海猫沢めろん.com:http://uminekozawa.com

 海猫沢めろんという作家は今までの論を通してもわかるように生粋の「オタク」であり、純粋概念的な二次元キャラクターという「理想」に対して愛を抱いていることを述べている。ではここから何が言えるのか。キャラクターを作るのは他でもない作者である。しかしこのキャラクターは生み出されたときにはその作者の手から離れて独立し、その存在は読者(情報の受け手)によって存立することになる。その性質は言葉の性質と相似点があげられる。(では自分で作りだしたキャラはどうなるのかという声が聞こえてきそうだが、結果的にはこれも変わらない。以降の結論を見れば明らかである。)
 ここで『神林長平トリビュート』の中に掲載されている海猫沢めろん著の「言葉使い師」を見てみる。

神林長平トリビュート (ハヤカワ文庫JA)

神林長平トリビュート (ハヤカワ文庫JA)

ぼくはワードマン・ナイ。いまぼくが見たデータはもうひとりのぼくのデータだ。あちらではもう、何万年も過去のことになっているだろう。この星々のすみずみまで、ぼくらワードマンのバックアップデータは飛び交っている。いろんな形のデータ。この物語は誰かのところへとどくまでにいくつもの変化を経て歪んでしまうだろう。言葉とはそういうものなのだ。
早川書房編集部編『神林長平トリビュート』より、海猫沢めろん「言葉使い師」)

 つまりキャラクターとはある一定の情報を頼りに、あとは受け手に依存しているものなのだ。つまり、その理想はそれを受けとるものの中では揺らぐことなく、変わることはない。この理想への愛というのは言ってしまえば自分自身に起因する殻の中の愛なのである。
 ということは、テンプレのサンプリングで作られたキャラクターおよび世界に愛を抱く『左巻キ式』の主人公は自分自身の理想に愛を抱いているわけだが、著者海猫沢めろんと同じような純粋概念的な殻にこもった愛なのだろうか。彼は自分自身の中で作り上げているキャラクターに対して自己欺瞞的な愛を抱いていたのだろうか。


●『左巻キ式ラストリゾート』――解答

 では『左巻キ式』の最終考察へと移る。結論から言ってしまえば、上記の問題提起はNOである。ではそれは一体なぜなのか。
 それは作品の最後に書かれた主人公の言葉にその意味が収束されている。

「けれどその現実が本当に現実かなんて証明できない。なぜなら、あなたは今ここにいるから。そしてあなたの現実も僕の虚構も何ら変わりない。そしてそこで得られる触れ合いも、僕にとっては等価だった。現実世界の言葉と、虚構の世界の言葉。それは同じだった。だからどちらも……僕は」(中略)

「今まで見てきたいろんな世界を、僕は――愛してますから」

海猫沢めろん『左巻キ式ラストリゾート』)

 主人公は「海猫沢めろん」が言う三次元的世界の現実を本当に現実かどうか証明できないと言い、その二次元世界での現実をも現実としてみなしている。(ここで注意してほしいのは、主人公は二次元世界を現実としてみなしているわけではない。引用でもあるように、彼は「今まで見てきたいろんな世界を愛」しているわけであり、つまり彼が見てきた世界が現実なのである。)
 つまり、本作の主人公は「理想」に耽溺しているのではなく、しっかりとした「現実」の愛を考えているのだ。
 『左巻キ式』では理想ではなく、現実への愛ということで結論はついた。しかし、もう一つ、大きな問題が残っている。それはサンプリングされたキャラクターを愛することについてだ。『左巻キ式』では主人公は現実の愛と向き合っていたが、著者海猫沢めろんのように、その理想化されたキャラクターを愛するということには前項「『左巻キ式ラストリゾート』――問題提起」であげた問題点が払拭されていない。つまり、そのような理想を愛する者はキャラクターの何を愛するのか、というものである。次からはこの問いについて考えていきたいと思う。

≪continue…≫