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「愛」じゃなくて「愛についての感じ」海猫沢めろん試論 第三回【評者:藤井義允】

「愛」じゃなくて「愛についての感じ」
――海猫沢めろん試論――


評者:藤井義允


第三回



●問題提起確認


 さて長くなったが今回でいよいよ海猫沢めろんが描く物語とはどのようなものか結論づけていきたいと思う。前回までは、海猫沢めろんの諸作品から愛についての考察を行っていった。そこで描かれていた愛は、性別も関係なく肉体関係も問題にならなかった。
 では、「愛」とはなんなのだろうか。人は何を愛して、一体何を愛と呼ぶのだろうか。


●「愛」から「私」へ


 再び講演会「愛についての感じ」の海猫沢めろんの発言に目を触れてみる。

部分とかじゃなくて、見えるところとかでもなくて、これがそれ人だと思えるものがあるとそれが愛だ。だから体重とかで変わってしまうものは愛じゃないと思うんですよ。そうじゃなくて。そういう外部要素で変わらないものが愛なんじゃないか。

(朝日カルチャーセンターチャリティー講座「愛についての感じ、ください」)

 一般的な「愛」と理想との「愛」の差はここにある。つまり、「愛」とは外部の環境などでは変わらないその人の「その人性」へと向かうものだ、という考えである。すべての要素を取り払ってもそこに存在する対象。人はそんな対象の本質――アイデンティティに対して愛を向けているのではないか、という仮定だ。

 そしてこの後にこうも言っている。

そういうもので変わらないものが「私」なんじゃないか。
(同上)

 海猫沢めろんの今までの言説を見て次のようなことが言える。
理想的な愛において、その愛する対象である「キャラクター」の存在は自分自身に起因しており、またその存在は外部の変化で簡単に変わってしまうものだった。しかし現実の愛の対象は一人一人の「私」であり、そしてその「私」は外部の変化では簡単には変わらないアイデンティティを持っている。


●『愛についての感じ』――「私」の問題


 では私たちが愛するその人の「私」とは何なのか。また単純に「私」とは、「私」を作り出してるものとは一体何なのか、という問題が出てくる。

 海猫沢めろんはこれらの問題についてどう作品内で対応しているのか。第二回でも扱った『愛についての感じ』を通して考察してみる。

愛についての感じ

愛についての感じ

 最初は「初恋」という作品だ。子供の時から「レザーフェイス」と呼ばれた男はある日、切り絵をしている女の子の「キリエ」から名前とメールアドレスを聞き出す。その後そのメールアドレスに空メールを送ると、「キリエ」から「もしかして、サンタさんですか?」というメールが返ってくる。そこで「レザーフェイス」はサンタを装って、彼女の学園祭へと「サンタクロース」という名前をつけて向かう。しかし結局彼女と会うことはできずに「レザーフェイス」は「サンタクロース」という名前を捨てて帰る。

 この作品では先に論じた「私」に関しての問題がいくつもちりばめられている。

「あなたはだれですか」
 見て分かりませんか。サンタです。
「わかりません。だから入れるわけにはいきません」
 キリエさんを呼んでください。
「誰ですかそれは」
二人はくすくすと笑っている。彼等はサンタ(レザーフェイス)に気づいている。サンタ(レザーフェイス)があまりにもバカバカしくて笑わずにはいられない。
海猫沢めろん『愛についての感じ』より、「初恋」)

 これは「キリエ」に会うために「レザーフェイス」が「サンタクロース」の名前をつけてキャンパス内で「キリエ」の居場所を尋ねた時の様子である。彼はここでは「サンタクロース」という名前を持っているが、それでも「レザーフェイス」ということに気づかれている。このように名前だけでは簡単に消せない「レザーフェイス」性が浮かび上がっているのがわかる。

レザーフェイスは自分がレザーフェイスではないと知っている。けれど自分が誰なのかは分からない。AはBではないというときにそれを分ける境界はどこにあるのか、レザーフェイスには見えない。キリエさんがキリエさんであるというとき、レザーフェイスの指し示すキリエさんと、部員の指し示すキリエさんは違っていたのだろう。それは言葉のもっている性質であり、仕方ないことなのだ。では部員たちと分かり合うためにはキリエさんをなんと呼べばよかったのだろう。言葉が文脈の中でのみ理解されるとしたら、文脈をどう変えれば良かったのだろか。なにもかもがわからない。自分はもしかしたら自分ではないのかもしれない。テーブルに並べた蜜柑の皮を試しに顔に張り付ける。だがオレンジフェイスにはなれない。なれっこない。レザーフェイスは自分のためにできることを考えた。
海猫沢めろん『愛についての感じ』より、「初恋」)

 しかしここでは逆にそのレザーフェイス性というのが一体何なのか、それが自分自身でわからなくなっている。自分とは一体何なのか。そのような問いは「私」の問題としてあげられる。

 次に「オフェーリアの裏庭」について触れていく。
 主人公である「海猫沢めろん」は男女友だちと三人で友人女子から山にある別荘に行こうと誘われる。その道中、「★★パワーストーンSHOP オフェーリアの竪琴★★」という看板を見つけ、興味本位でそこへと赴く。そこで見たのはガンダーラと呼ばれる女性に店を案内される。そこで「めろん」は二人と離れ、一人そのオフェーリアの裏庭へと足を運ぶ、そこは色々なものや動物などが乱雑に存立していたいささか不思議な場所だった。そして「めろん」はある写真を思い出す。それはカルティエブレッソンの「サン=ラザール駅裏」だった。
 この作品の最後には次のように書かれている。それは、奇跡はもう色褪せており、そこには単なる偶然しかない、ということである。完璧な相似形を施した、アンリ・カルティエ=ブレッソンの絵画は見事な相似形でそこには奇跡が見いだせる。しかし、主人公の「めろん」はオフェーリアにもガンダーラという人物自身の相似形を見つけだす。それは彼女と彼女を取り巻く環境に対してだ。
 人の取り巻く環境などは一種奇跡である。しかし、それはあらゆる人に当てはまる単なる偶然=色褪せた奇跡でしかない。
 それに気づいた「めろん」は最後に次のような行動に出る。

友人男子は「あ、先に帰ってたんですねー。いやーすごかった。めろん君いなくなったあと、神話がはじまっちゃってすごかったですよー」と笑った。後部座席に座った友人女子も笑いながら「石、帰りにどっかで捨てたほうがヨクナイ? なんか、呪われそうだし」と楽しそうに石を見つめた。
 耳の奥で映画館で聞いた観客たちの笑い声がよみがえる。
 私は自分の意思を財布の中に入れ、駐車場から車を出し、別荘へと向かう山道を猛スピードで走らせた。後頭部座席の二人が困惑しているのがわかった。

海猫沢めろん『愛についての感じ』より、「オフェーリアの裏庭」)

 オフェーリアで起きた出来事を笑う友人たちに対して苛立ちを感じいきなり猛スピードを出すのである。ここでは色褪せた奇跡=重要なものではないということではない。その偶然はすべてにおいて重視すべきものなのだ。故にそれを馬鹿にするような態度をとった友人達に苛立ちを覚えたというわけである。
 そこにある世界とは書き換えが想定可能な世界である。つまり「私」はその環境において代替可能な人物ということだ。しかし、現に「私」はここという場所に設置されている、交換不可能な存在としているわけである。それは「偶然」でありさらには「奇跡」であるが、そのようなことはどこでも起きている色褪せた奇跡ということだ。
 そしてこれも「私」の問題に絡むものである。つまり「私」とはどうして可能世界においてその場所に設置させられた「私」成りえたのか。つまり、どうして「私」が「私」であるのかという問題である。


●「愛」とは……。「私」とは……。

しかしそれ(=愛[筆者註])をどうにかして捕まえることはできないだろうか……「愛とは愛ではないもの、それ以外である」という否定神学的な言葉は、YOU結局なにも言っていないにひとしいじゃないの! そんなセリフでドヤ顔されても! どこかに完全無欠の真理があるという思い込みを持っている狂信的な人間にはとうてい了解できないよ! 真理真理真理! あうあうあうあ! 飯島矢口星野天地! ド━(゚Д゚)━ン!!
海猫沢めろん.com:http://uminekozawa.com

 「愛」とは何か。また「私」とは何か。考えた結果、海猫沢めろんは上記のような結果に行きついた。つまり、結局答えは見付からないのだ。
 私たちは「愛」は確かにあると思っている。しかしそれを突き詰めてみると、そんな確かにあると思っている「愛」の不確定さが現出してくる。そして「私」の問題も同様である。


●幸せな夢から覚めて――海猫沢めろんが描く“強い”物語


 私たちは「愛」や「私」がはっきりとせず確固たるものではないのにも関わらず、「私」という主体を持ち、「愛」を認知している。今、現実に行われているのは、確定しない他者に要素としての「キャラ」というレッテルを貼り付けて、無理矢理分かりやすい「私」像を作り出したり、そんな「キャラ」化したものを「愛」していたりしていることだと思われる。
 不確定な「私」を無理矢理「キャラ」化して確定させることによって、何も考えないことによって、幸せになれる。なぜなら「キャラ」というものを愛し信じていれば、考えなければ、そこには純粋な本物の愛があるはずだからだ。

 その「キャラ」化した「私」やそれに対する「愛」を肯定すべきか否定すべきか私には判断できない。
 しかし、そのような「キャラ」を信じているようなオタクであるはずの海猫沢めろんは、疑い、考え、そして物語を紡いだ。それはつまり自己欺瞞的な愛から脱却することに他ならないだろう。
 だからこそ、海猫沢めろんの物語は、“強い”物語ではないだろうかと、私は考える。
 自ら幸せな夢から覚めること。それはなかなかできることではないと思う。

≪end…less≫


【参考文献】

海猫沢めろん『愛についての感じ』(講談社
海猫沢めろん『左巻キ式ラストリゾート』(パンプキンノベルス)
海猫沢めろん『全滅脳フューチャー!!!』(太田出版
海猫沢めろん『零式』(ハヤカワ文庫)
東浩紀動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社現代新書
早川書房編集編『神林長平トリビュート』(早川書房
SFマガジン編集部編『ゼロ年代SF傑作選』(ハヤカワ文庫)
永井均『こどものための哲学対話』(講談社文庫)
海猫沢めろん.com http://uminekozawa.com (最終閲覧日:2012/05)
朝日カルチャーセンターチャリティー講座 「愛についての感じ、ください」(2011/05/20)