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「ポストメディウム」の映画/映像論

本稿では、私が実質的な責任編集を務めた『ビジュアル・コミュニケーション』の趣旨を踏まえて、今日の映画を含む文化状況とそこでの批評の機能、そして拙論の内容について、簡単に紹介します。

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評




私は、今から3年前の2012年に『イメージの進行形――ソーシャル時代の映画と映像文化』という本を出しました。若書きの常ですが、いま読み返しても、すでに気負いや粗っぽさの多分に目立つ本です。

イメージの進行形: ソーシャル時代の映画と映像文化

イメージの進行形: ソーシャル時代の映画と映像文化


ですが、私がそこで拙いながらも蛮勇を奮って試みようとしたのは、私が20代の間、つまりだいたい21世紀以降に身の回りで起こりつつあった重要な変化の意味を映画の世界に即して記述し、また同時に、その変化がもたらす批評の枠組みを多少なりとも刷新することであったということができます。その変化とは、さしあたり短くまとめれば、「情報化」と「消費社会化」の影響ということでした。


ご存知のように、だいたい90年代の後半頃から2000年代初頭にかけて日本を含む先進諸国では、社会や文化の中でインターネットや携帯電話などのモバイル端末が急速に普及していきました。また一方で、冷戦体制崩壊後のグローバル化の影響で、地域の郊外化やライフスタイルのサブカル化とでも呼べる現象がはっきりと目立つようにもなってきました。そうした傾向は、2000年代の半ばになると、さらに一段と加速し、いわゆる「ソーシャルメディア」と呼ばれる双方向型のコミュニケーションツールや、YouTubeニコニコ動画などの動画共有サイトといった新しいウェブサービスがひとびとの行動様式や情報の発信・受容環境を劇的に変えていきました。


そこでは例えば、ネットワークを介した脊髄反射的で自己目的化されたコミュニケーションのパターンを追うことのほうが、個々の実質の違いに目を凝らすことよりも相対的に注目されることになります。少なくとも、いまや多くの局面で、ある作品の表象の具体的な実質を問うことは、それが置かれている固有の「コンテクスト」についての理解と切り離しがたくなっています。また、そうした情報環境で制作され、広く支持を受けるような表現や作品の中にも、同様にネットワークを介した不特定多数による創発的な効果として理解したほうが適切であるような事例が無視できない規模で台頭してきました。近年の比較的若い世代による文化批評において、しばしば「環境」、あるいはそれを設計するという意味の「アーキテクチャ」などといった単語が頻繁に用いられたのはこうしたことが背景にあります。


もちろん、そうした変化の徴候は、映画やそれに近い映像分野にもいたるところでも見られるようになりました。例えば、日本映画ですが、ここではいずれも若い世代の映画作家である瀬田なつきさんが監督した『5windows』や、本論集で冨塚亮平さんが論じている濱口竜介さんが監督した『親密さ』などの作品が挙げられると思います。

『5windows』は、これまでにいくつかのヴァージョンが制作されていますが、主に数人の男女のかすかな巡り合いを題材にした短編作品です。ただ、この作品が面白いのは、作品を構成するシークエンスがバラバラに切り離され、舞台となった実際の特定の場所に設置された複数のスクリーンやモニターで上映されるという趣向です。すなわち、この作品を作品たらしめる輪郭はスクリーンやそこに映る映像のみならず、それが設置され、刻々と移り行くサイト・スペシフィックな環境全体であるともいえます。


とりわけ今年の恵比寿ガーデンプレイスの恵比寿映像祭内の企画で制作・上映されたヴァージョンでは、地下通路のモニターで上映された複数の映像のうち、恵比寿ガーデンプレイス周辺の舗道を、赤いコートを着て歩くヒロインの姿をややローアングルで寄り添いながら手持ちで撮影したショットと、ほぼまったく同じ動きでヒロインだけがいないショットが並んで配置されていたのは非常に示唆的に思えました。いわば、それはある同じ環境やコンテクストを曖昧に共有しながらも互いを微妙にずらしあう今日のイメージの「幽霊的」と呼べる浮遊感を如実に表わしているようであったからです。また、文脈を抜き出された断片がそこここに散らばる上映環境は、例えば、昨年大ヒットした『アナと雪の女王』で、「Let It Go」を歌う無数のエルサの動画が大量にアップロードされているウェブの映像環境をなぞっているようでもありました。


あるいは、濱口監督の『親密さ』は、YouTubeの映像やSNSへの目配せ、「演劇の上演を映画として撮影する」という趣向もさることながら、この4時間半に及ぶ大作の上映はしばしばオールナイトで上映されます。恋人同士の男女が郊外の鉄橋沿いを歩く間に夜が明けていく様子を長回しで描き、物語のラストもまた明け方のシーンで終わるのですが、この映画もまたおそらく、上映終了後の朝方の街という環境や体験と切り離せないものがあります。

いま作品について述べましたが、同じことは特に近年、ライブビューイング上映など「ODS」と呼ばれる多コンテンツ上映を積極的に打ち出すデジタル上映以降の映画館の状況や、批評家の樋口泰人氏が展開し、現在の若い映画ファンの支持を集めているいわゆる「爆音上映」などの試みとも完全に重なっているでしょう。


こうした近年のメディア環境の変化に伴う新しい文化動向は、数年前まで狭義の映画批評の領域ではおそらくほとんど主題的に触れられることはなかったように思います。ただ、かつての映画をめぐる重要な言説の中にこうした動きを的確に捉えるような視点がまったくなかったとはいえません。例えば、ここで不意に思い出されるのは、90年代末に提示された「キャメロンの時代の到来」というテーゼです。


「キャメロンの時代」とは、『ロスト・イン・アメリカ』というタイトルでまとめられた、アメリカ映画をめぐる座談会の中で批評家の安井豊氏が出された仮説的な枠組みです。その空前絶後の座談会では、「80年代から90年代にかけてのアメリカ映画の決定的な変質」が問題にされています。キャメロンの時代は、その中で85年以降の10年間のハリウッドの本質を指す言葉として提唱されていました。安井氏によって「構造の時代」とも言い換えられるそれは、いわば「普通は物語の意味や内容を取っ払って見いだされるのが構造なんだけど、…まず構造が先にあって、その後に物語がくっついている」ような作品が支配的になった時代であり、例えばその典型が「ホワイト」「オレンジ」などの実質を剥奪された名前を持つキャラクターたちが、これまた実質を欠いた形式的なコミュニケーションを延々と繰り返すことで知られるタランティーノの94年のデビュー作『レザボア・ドッグス』であると敷衍されています。


21世紀の劈頭で名指されていたこの「キャメロンの時代」という枠組みは、現在振り返ってみても、今日の文化消費の構造ときわめて類比的に思えます。実際、この後にも触れますが、冒頭で述べたような今日の文化的動向を批評の領域で最も有力に論じた論者の一人と目されている東浩紀氏が『ロスト・イン・アメリカ』の翌年に刊行した『動物化するポストモダン』という著作で提唱した「動物の時代」という枠組みは、安井氏の「キャメロンの時代」とも思わぬ近さで重なるものでもあったでしょう。


東氏の「動物の時代」の場合は、「キャメロンの時代」に続く95年以降のユースカルチャーにおける消費行動や作品表現のあり方を指した用語ですが、いずれの言葉も、「表現の具体的な実質が容易に形式的なパターンに還元され、そのパターンの環境との関係において制作・消費される時代の到来」という点で共通するものであったと思います。その意味で、現在は、「キャメロンの時代」の枠組みがさらに極限まで徹底された時代であるということもできるのかもしれません。


私は、こうした諸々の動向について、それを主題的に捉えるような批評の枠組みがないだろうかと、20代の間、漠然と考えてきました。そして、それらを単に批判するのでも無視するのでもなく、なるべく正面から受け止めながら、しかもそれまでの映画批評の文脈にも通じるような仕方で跡づけようとしたのです。その成果の延長上に、今回の『ビジュアル・コミュニケーション』もあります。

それでは、最後に私自身の実感も交えつつ、私なりの視点から現代の批評、映画批評の現状と問題についてまとめてみたいと思います。

私は、今から10年前の2005年、20代前半の頃から商業媒体で批評を書き始めました。私が批評を書くにあたって、影響を受けた書き手は何人かいますが、その中の一人にやはり先ほど挙げた東浩紀氏がいました。


現在、私と同世代で活躍している少なからぬ数の批評家や論客がそうであるように、私もまた、学生時代から東氏やその周辺の論者の書く批評に共感をもって接してきました。


それにはやはり、学生時代から20代にかけて起こったできごとが背景にあります。例えば、おそらく80年代にはミニシアターやビデオなどの新たなメディアが現れ、それがユースカルチャーに固有の文化圏を形成したのでしょう。それが私の世代の場合は、ウェブでした。ちょうど20歳前後の時に、いわゆる「はてな」のブログブームが到来したのをきっかけに、その数年後の20代半ばの頃には「Web2.0」の波が起こり、YouTubeからiPhoneTwitterにいたる、現在、ほぼインフラとなったプラットフォームやコミュニケーションツールが爆発的に普及し、自分たちの身の回りのメディア環境が劇的に変容していくのを実感をもって感じていました。


東浩紀氏を大きな中心の一つとした当時のシーンは、しばしば「ゼロ年代批評」などと呼ばれました。ゼロ年代批評の当時の状況については、つい数年前のことではありながら、すでに新書などでいくつかの概説書も出ており、かつての「ニュー・アカデミズム」のようにもはや単なるスラングの枠を超えて認知されつつあるようにも見受けられます。


それらの批評の本質を私なりに解釈すれば、大きく二つの要素に集約できたのではないかと思います。第一に、あらゆる批評的な言説もまた、社会の中で即座に実質を剥ぎ取られ、のっぺりとした情報ネットワークが流通させるコミュニケーションの「ネタ」として消費されてしまう現状に最も自覚的に適応した批評であったということ。そして第二に、情報化と消費社会化、そして80年代的な教養主義の崩壊を経た後で、当該の「ジャンル」の「全体性」を再構築しようと試みたこと、ではなかったかと思います。


そもそも批評という行為が創作物や学術研究と本来的に異なる点は、後者と比較して圧倒的に、「作品がそのコンテクストとともに受容・消費される」という点にあると思います。だからこそ、かつて小林秀雄が喝破したように、批評はつねにすでに「様々なる意匠」に還元されざるをえませんでした。ただ、ネットやSNSが社会全体に普及した現在では、それがかつてない勢いで加速しています。いまやあらゆる批評が「様々なるネタ」になり、批評家はTwitterの何気ない「つぶやき」まで含めて「キャラクター」として消費される。


あるいは、メディア環境の急激な変化や文化消費の回路の細分化によって、かつてのジャンル批評の慣習が相対的に機能不全になるという現象が起こりました。例えば、文芸批評の分野でライトノベルケータイ小説を論じたり、美術批評の分野でアニメやフィギュアを論じたりといったことが2000年代の後半には広範に起こりました。これらの動きは傍から見ていると、単に「ハイカルチャーの批評がサブカルチャーの動向をキャッチする」というふうに映ったかもしれませんが、当時、批評を書いていた当事者からすれば、批評が扱うジャンルの全体性を、――それは絶対的な全体性にはなりえないわけですが、ゼロから考え直そうとしていたといえると思います。


いずれにせよ、そのような経緯から、私自身も、私の本や個々の論考において、通常では「映画批評」という枠組みには収まらない、さまざまな新しい表現や動画を、従来の映画作品と同列に論じるという試みを行ってきたわけです。


その後、映画研究や映像文化論などの領域では、「ポストメディウム的状況」などと呼ばれるデジタル以降の新たな映像の条件を問う学問的、批評的動向が国内でも急速に注目を集めるようになりつつあります。また、それと並行して、興行のほうでも上映のデジタル化に伴うさまざまな問題が論議されるようになりました。図らずも、ここまでの私の問題意識とも非常に重なる部分があったのではないかと思っています。


『ビジュアル・コミュニケーション』に発表した拙論は、いずれもこうした問題意識のうえに書かれたものです。「「可塑性」が駆動するディジタル映像――「生命化」するヴィジュアルカルチャー」は、近年の映画・映像文化をめぐる大域的な変容を「ディジタル化」や「ネットワーク化」といった動向に注目して、包括的に検討しようと試みています。そのさいにそれらの動向がもつ特徴を『ゼロ・グラビティ』や『リヴァイアサン』のような映画作品からVineやゲーム実況のような先端的なネットコンテンツを縦横に例にあげつつ、「生命論」や「生態学」の文脈から定式化しています。また、「思弁的実在論」や「新しい唯物論」と呼ばれる思想潮流の問題系との接続を仮説的に試みています。





また、「スタジオジブリから「満洲」へ――日本アニメーションの歴史的想像力」は、日本を代表するアニメーションスタジオである「スタジオジブリ」のアニメーション作品の歴史的出自を従来のアニメ言説よりも広い歴史的射程で捉えることにより、日本アニメーション史のこれまであまり知られてこなかった想像力の歴史性を照射する論考です。ジブリは知られるように、日本最初のアニメ企業である「東映動画」から出発した高畑勲宮崎駿の拠点ですが、近年、アニメーション史研究やメディア史研究の発展により、戦前・戦中期からの連続性において東映動画を捉える文脈が整いつつあります。そこで浮上する「満洲」という存在がジブリにまで続く日本アニメーション史に及ぼした影響のありようについて検討しています。これまで膨大に書かれてきたジブリ関係の論考のなかでも珍しい論点でしょう。後者は、「ビジュアル・コミュニケーション」を掲げた本書のテーマからは外れている内容だとも思われがちですが、例えば、レフ・マノヴィッチなどが主張しているように、ニューメディア以降の映画が「アニメーションの亜種」に還元されていくものならば、まさに私たちのイメージに対する歴史的意識はアニメーションというジャンルからもう一度整理するという試みは重要でしょう。

この論集から読者それぞれに現代の映像文化について、大小の示唆を受け取っていただければ幸いです。

※本文は、2015年5月30日に開催された日本映像学会第41回全国大会シンポジウムでの発表を改稿し、組み込んである。

渡邉大輔氏も登壇するイベントがあります!

「「動画の時代」の「映画批評」はいかに可能か
ポストメディウム的状況を考える
『ビジュアル・コミュニケーション』(南雲堂)刊行記念トークイベント」

ジュンク堂書店 池袋本店
開催日時:2015年11月17日(火)19:30 〜
書店ウェブサイトへ

佐々木友輔×三浦哲哉×渡邉大輔 (司会進行:冨塚亮平)

ここ最近、映画の世界は大きな変化を迎えている。誰でもスマホで「映画」っぽいものが作れ、ネット上にはVine動画やゲーム実況など、いままで見たこともないような新しい映像コンテンツが映画と肩を並べるようにして、活況を呈するようになりつつある。
『映画とは何か』(筑摩書房)など、映画の現在について先鋭な批評活動を繰り広げる俊英・三浦哲哉氏をゲストに迎え、9月末刊行の評論集『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』(南雲堂)の内容を踏まえ、こうした「動画の時代」にかつての「映画批評」はどのように対応していくべきなのか。『ゼロ・グラビティ』『親密さ』 『ルック・オブ・サイレンス』『THE COCKPIT』……などなど、数々の話題作を
素材に、そして映画誕生120年の現在、あらためて「映画」と「映像」の関わりについて「映画批評」の観点から徹底的に語り合う。