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耳目口司『丘ルトロジック4 風景男のデカダンス』【評者:宮本道人】

耳目口司丘ルトロジック4 風景男のデカダンス


評者:ドージニア道人


 はじめに、本稿に進む前に一つ前置きしておきたいのだが、僕は、人を傷つける可能性が少しでもあるテロは、断じて許されるべきではないと思っている。しかし今回レビューする『丘ルトロジック』シリーズには、テロを称賛するようにも取れる表現が存在するので、これについてまず意見を書いておきたい(特に気にならない方は、この段落を飛ばして読んで頂いて構わない)。
 ライトノベルというジャンルは、子供でも手に取りやすい本のジャンルだ。そんなジャンルでテロを煽りかねない表現を用いて文章を書く事は、非常に危険である。
 もちろん、虚構と現実は基本的には切り離して考えるべきだ。僕は小説で悪を描く事が悪い、などと言うつもりはない。ただ、ライトノベルの購買層に10代が多い事を考えると、中には虚構と現実をごっちゃにしている若者もいるだろう(これは僕自身がある程度そうだった)。本書はそんな若者に、「部活でテロをするなんて楽しそうだ。自分も友達とやってみよう」と思わせてしまいそうな危険な魅力を持っている。
「危険だ」とはいっても、犯罪を描いた小説を出版するのは良くない、とは僕は思わない。ただ、出版する時は、「これはテロを扱った本で、どんな大義名分があってもテロは犯罪なので、絶対に真似してはいけない」といった内容の但し書きをはっきりと提示すべきなのではないだろうか。
丘ルトロジック』シリーズでは、そのような配慮があまり見られなかった。これは作者だけでなく、出版社側にも問題があると思う。特に日本には地下鉄サリン事件という過去があるのだから、テロに良いイメージを付加する事は安易にすべきではない。
 しかし、『丘ルトロジック』シリーズは、三巻までテロを容認していた方針を、四巻で大きく変えてテロ否定側に移行した。これが三巻までであれば、僕は本作をレビューしなかっただろうが、四巻を読んだ上でこれまでの巻を見直すと、テロを否定するために三巻までがあったのかもしれないとも思えてきて、ここに今回レビューする事を決めた。もしかすると三巻までを読んだ読者から何らかの意見があったのかもしれないが、最終的にテロを否定する形になっている以上、本作の抱えていた問題は自己解決されたと言えるだろう(ここで言いたいのは、あくまで内容面での危うさがなくなったという意味で、但し書きに関しては変わらず必要だと思っている)。
 ちなみに、本作はテロの扱い方の問題を除けば、非常に面白い本だ。論じるべきポイントが多数ある。作者はおそらく僕と同年代で、本作に書かれている問題意識には共感できるものが多い。だが、三巻のテロ容認の方針を考えると、称賛するのはどうにもためらわれる。一読者としては楽しんだが、手放しで肯定するレビューを書きたくはない。
 そのような理由で、この前置きを加える事にした。本稿では僕はあえて一読者としての意見を主に書いたが、それは決してテロ容認のつもりで書いている意見ではない。
 以上の前置きをふまえた上で、本稿を読んで欲しい。

「この美しい世界を、人間から取り返そうじゃないか」
 そう提唱する先輩のいるオカルト研究会に、「オカ研」を風景の「丘」を研究する部活だと勘違いして入部した風景好きの主人公。部員として都市伝説を調べてゆくうち、主人公は先輩の思想に共感し、部員と共にテロを起こして社会を変える事になる。
 今作は、そんな形で始まったライトノベルのシリーズ最終巻である。テロを肯定するようにも見える書き方で読者の度肝を抜いた本シリーズだが、最終巻ではその方向性は大きく変わった。

 今作で描かれるのは、丘=風景=科学=理性と、オカルト=宗教=芸術=異常の戦いだ。
 主人公の先輩は今作で、宗教団体を自分のものにして大規模な二度目のテロを起こす。「我々に必要な物は、世を変えるという圧倒的な情熱のみで良い」、「革命の意思は、人の神秘は、芸術をもって大成される」と主張する先輩は、オカルトを通り越してカルトに変わってしまった。
 これに対し主人公は、テロを起こそうとする先輩に異を唱え、作品の根本にあるオカルトさえも否定する。「テメェの頭の中の病気の波なんざに神が宿るわけねぇ」、「神は風景にしか存在しない」、「芸術なんてただの催眠術」と先輩に言う主人公は、狂気に宿る神を完全に否定している。
 今までの巻の、圧倒的な変人を偉大に見せてきた書き方は、ここで完全に自己否定されている。ある作中人物は「最も理不尽な振る舞いをする者が、その家では畏怖の対象となり果てる」、「貴様らは単に、理不尽の味を覚えただけの屑」と主人公に言い放つが、この台詞も前巻までの主人公達を否定するものだ。

 前巻まで、主人公は先輩とともにテロを起こす側だった。変人として生き、その狂気の中に積極的な意味を見出していた。だがこの巻で、作者は読者を完全に裏切ってきた。異常者として生きる主人公達に感情移入していた読者は、今作の主人公を見て反感を覚えるだろう。主人公は異常=オカルトとして肩身狭く生きていた過去を忘れて、オカルトを否定しているのだ。
 この、作者の理性への敗北宣言は、一方で非常に現実的だとも言える。人はいつまでもファンタジーの世界で生きる子供ではいられない。主人公は大人になり、理性を持ち、大人にならない友人を否定してゆく。
 突きつけられる現実は極めて常識的だが、これまでの巻で語られていた理想が全てぶち壊される分、その落差は衝撃的だ。

 特に先輩の描かれ方の変化は最も激しい。オカルトを信じる先輩は、簡単に言えば中二病だ。前巻までは抽象レベルで美しく理想を語っていたが、今作ではその内容が現実のレベルでは独善的で危険な馬鹿げた行為でしかなかった事が描かれる。革命は結局はテロでしかなく、人命を尊重しない先輩はただの非人道的なテロリストでしかない。
 革命にロックンロールで対抗する女性は先輩の革命のメッセージの無さを批判して、「革命なんてさ、どうやったって無理っしょ」と言い放つ。それは現代日本のごく一般的な若者の感想だろう。
 前巻までにふんだんに盛り込まれていたクラシック音楽は、そうしてロックに乗り越えられる。クラシックは古い形のままだからクラシックなのであって、ある意味でロックはクラシックより進化を繰り返した先に位置している(ここでの進化とは、優れたものに成長しているという意味ではなく、単に変化と淘汰を繰り返したという意味だ)。
 先輩は進化してゆく世界を嫌い、クラシックのような古いものを尊重する。先輩はそんな意味で、社会進化に革命で逆らっているとも言えるかもしれない。この構図は小松左京『果しなき流れの果に』と同じであるが、辿り着く結末は異なっている。

 今作では最終的に、オカルトは科学に負ける。そして最後に描かれるのは、負けたが故に再びテロを起こそうとするオカルトの姿だ。オカルトと科学が和解し融合しない限り、両者は対立し続ける。
 この対立は、永遠に解消できないのか。
 今作では、最後の最後で、少しだけその解決策が提示されている。
 主人公は、『LLD』――ローカル・リンク・ディストラクションという監視システムを作り、それを全世界に公開しようとしている。その原型は一巻から登場する作中の画像投稿サイト「カメラ倶楽部」というものだ。
 主人公曰く、LLDを用いれば世界を支配している常識を上書きできる、らしい。リアルで人が起こす革命から、ウェブで構造から起こる革命へ。それは先輩と同じ野望を持ちながら、暴力を使わないスマートな手段だ。
「カメラ倶楽部」から発展したLLDは、オタク的想像力の究極とも言える。主人公は異常者=オカルトであった前巻までの自分のアイデンティティを、この巻に来てオタクに移し替え、オカルトを脱した。
 作者は、科学とオカルトの和解策として、つまり新しいものと古いものを共存させる手段として、「オタク」を提示しているのだ。

 今作の面白いところは、主人公がテロを元テロリストの立場から否定し、ウェブでの革命をテロの上位互換と考えている点だ。主人公は心では革命を望んでいて、一巻では実際にテロを起こしていたが、今作の先輩のテロのやり方には反対している。そして主人公は、自分の考えていたオタク的集合知の利用が、人命を損なわない革命を意味する事に気づいたのだ。
 野尻抱介『南極点のピアピア動画』では、ニコニコ動画が人々の世界観を変えてゆく様子が描かれているが、今作はそれを革命という視点で描こうとし、しかしその一歩手前で終わってしまったという見方もできるだろう。
 オタク的集合知が革命的に世界を変える。今や現実的な形を伴ってきたそんな未来が、今作の後には続いているはずだ。

 最後にもう一度言っておくが、テロというのは決して軽く書いて良いようなテーマではない。だが、テロを本当に否定するためには、テロ自体を描く事が不可欠だ。本作の文章はあまりに無邪気で、その矛盾を意識して真剣に向き合っているとは言い難いが、そこに挑戦したという事実自体は評価できよう。
 テロを否定するというのは、簡単ではない。歴史上の多くの革命がテロによって起きているという側面もあり、より良い社会になるのに必要だと主張する人もいるだろう。
 本作はそのような意見への一つの反論を与えてくれる。ウェブでの革命なら人命を損なわず、それはテロの上位互換だ、という考えだ。
 テロは、もはや古いのだ。新しい時代に、テロは必要ない(もちろん今はまだウェブ環境の整っていないところもあり、このロジックでは現代のテロを一概に否定する事はできない。今は、新しい時代への過渡期と言えるだろう)。
 オウムが再び話題になっている今だからこそ、テロをどう否定するかを考えるために、『丘ルトロジック』は読んでおきたい作品だ。