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川又千秋『幻詩狩り』レビュー【評者:海老原豊】


川又千秋『幻詩狩り』


 以下は、『SFマガジン』(2012年8月号)の「現代SF作家論シリーズ」掲載のトマス・ラマール「川又千秋論 時の渦巻き『幻詩狩り』」を訳出したことと、その後、ラマール氏本人が来日して開催された国際 SFシンポジウム・キックオフ「日本・ SF・翻訳――川又千秋『幻詩狩り』英訳を記念して」(2012年7日)に参加したことを受けて、書いたものである。


評者:海老原豊


川又千秋『幻詩狩り』(1984年)

 第5回日本SF大賞を受賞した川又千秋の代表作。
 いくつかの物語が錯綜する。
 現代の日本。麻薬取締官のような男が秘密裏に取引される「ブツ」を追跡する。ただし、どうやらその「ブツ」は麻薬ではなく、単なる「詩」である様子。
 時は遡り、1948年、パリ。アンドレ・ブルトンシュルレアリスムの代表的イデオローグ。彼はフー・メイと名乗る年若き詩人とした約束を果たすべく、待っていた。この詩人が書いた悪魔的な経験をもたらす詩は、ブルトンの鞄の中に 固くしまわれ、現代の日本へと一種の時間旅行をする。
 再び、現代の日本。ただし時間軸は、例の「ブツ」が出回る少し前に設定される。大手から独立した文学・美術系を専門に扱う出版社に、巨大百貨店と広告代理店から舞い込んだ依頼。最近になって発見されたアンドレ・ブルトンの遺品・遺稿を整理しつつ「未開の世紀」と銘打った一大シュルレアリスム展覧会を企画してくれないか。そして、ブルトンの鞄の中からフー・メイ(不明?)の詩は取り出され、ご丁寧に日本語に翻訳され流通し始める。その幻詩は、何語であれ読むものの魂を抜き去り、殺してしまう。精神の退廃をもたらす「ドラッグ」として詩は取り扱われ、暴力的な法規制がどれほど進もうとも、耽溺するものの数は増えることはあれ、減ることはなかった。
 中心人物の一人で幻詩取締官・坂元は、捜査官でありながら(いや、それゆえに?)幻詩を目にし、作者フー・メイと一体化を遂げる。次に目が覚めたのは、22世紀。火星にある人類の植民地。カール・シュミットという男として民間傭兵部隊〈マーシャンガード〉の一員として、幻詩に汚染された殖民キャンプの民を虐殺する任についていた。幻詩の呪いは、かくも深い。
 川又は、本作を通じ彼独自のSF起源を提示している。SFの起源をめぐる論争は根が深く、統一見解にたどり着くことなどない。『フランケンシュタイン』やエドガー・アラン・ポーの短編にまで遡るものもいれば、ジャンルSFの基礎となった1920年代のパルプ・フィクションを始まりとするものもいる。いずれにせよ、SFファンにとって、何を起源とするか論争することが一つの楽しみですらあるともいえるほどだ。だが、SFをタイム・スリップや歴史改変というサブジャンルを擁する文学ジャンルとして考えてみれば、SFが自らの起源それ自体を常に改変し続けているなどといういささか荒唐無稽な仮説を提示することも、可能である。歴史を変える力をもったものは、自身の歴史すら変えてしまう。近代になってジャンル形成を遂げたSFは、その本質に自己言及性を内在し、したがって極めてポストモダン的なものだ。
 さて川又は、本書『幻詩狩り』でSFの起源にシュルレアリスムを接続した。時空さえ歪めるフー・メイの幻詩は、言語SF作品群の一つであると2012年の今なら素直にいえるかもしれない。ただし作中において、ブルトンは幻詩をシュルレアリスムの理解者・ヘアに紹介するも、彼は「もう十五年ほど待ってから、サイエンス・フィクションの雑誌へ持ち込んでみたいですね」と一蹴する。このみぶりをどう解釈すればよいだろう。ひょっとしたら、サイエンス・フィクションというジャンル名が形成され人々に広く共有されるにつれて、作品が本来持っていたもの、フー・メイの悪魔的な詩が体現する力を失ってしまったのではないか。そんな疑念が頭の隅をよぎる。
 長山靖生『戦後SF事件史』(河出ブックス)を紐解けばすぐに分かるように、日本において戦後の舶来品だったSFは、戦前からあった「冒険・科学・小説」的なものと混ざり合い、一部を打ち消しあい、また別の一部を強化しあって、星・小松・筒井といったビッグネームの作家の活躍を経て、ジャンルSFとしての今日の姿にいたっている。事実、長山が丹念な手つきで読者の前に提示しているのはSFの多様性と同時に、SF以前の「冒険・科学・小説」の多様性であった。長山の歴史は、まるで一つの歴史改変小説を読んでいるかのように、私たちに「あったかもしれないSFの現在」を幻視させる。さらに 長山が日本におけるシュルレアリスムの受容と作品について一章割いていることは、注目すべきだ。日本においてSFが(ジャンル)SFとなっていく過程で、いくつもの可能性が泡のように生まれてははじけ、ただし全体としての流れには加わる。そんな様子が見られた。戦後日本のこの姿は、川又(の描くヘア)がフー・メイの詩をシュルレアリスム/SFの境界においたことと相似をなす。

 2012年7月4日におこなわれた国際SFシンポジウム・キックオフ「日本・SF・翻訳――『幻詩狩り』英訳を記念して」で、パネリストの一人として参加した川又千秋は、『幻詩狩り』でシュルレアリスムをSFと重ねた理由を何点か紹介していた。中でも興味深かったのは、旧大陸においては古い芸術の破壊としてダダイズムがあり、新しい芸術の構築としてシュルレアリスムが出てきたが、新大陸アメリカでは、そもそも壊すべき古い芸術がなかった、という指摘だ。アメリカでは、その代わりにパルプという安い紙が発明された。すなわち、新しい表現を受け入れる「空白の紙」としてのパルプ。川又『幻詩狩り』がSFを徹底的に歴史化しようとも、当のSFはフー・メイの幻詩のように、その力をするりと抜け出し時空を超えて拡散していくのであった。



幻詩狩り (創元SF文庫)

幻詩狩り (創元SF文庫)

S-Fマガジン 2012年 08月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2012年 08月号 [雑誌]

海老原豊(えびはらゆたか)
1982年東京生まれ。第2回日本SF評論賞優秀作を「グレッグ・イーガンとスパイラルダンスを」で受賞(「S-Fマガジン」2007年6月号掲載)。「週刊読書人」「S-Fマガジン」に書評、「ユリイカ」に評論を寄稿。