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『功殻機動隊ARISE』【評者:旭秋隆】

攻殻機動隊ARISE border:1 Ghost Pain』

評者:旭秋隆

 『攻殻機動隊ARISE』は、その時代設定が『攻殻機動隊』シリーズの最初期にあたる。シリーズの中心となる公安九課はまだ存在せず、本作の主人公である草薙素子も少佐と呼ばれていない。そのため、電脳化義体化もシリーズのなかで最も進んでいないということになる。言いかえれば、電脳や義体化も新しいメディアとしてまだ、広く受け入れられていない社会が背景になっていることになる。『border』という名が示すとおり本作で重要なのは、そのような背景のなかにある境界であり、それが生み出す《関係》なのである。
 ところで、本やインターネットなど新しいメディアの普及の仕方には、一定のパターンのようなものが見受けられる。本の場合だと、聖書がその端的な例だろう。グーテンベルク活版印刷を発明し、ドイツ語訳のものが現れるまで、一部の権力者しか手に取ることができないものだった。またインターネットも同様だ。インターネットの始まりは1969年、アメリ国防省がスポンサーとなって、スタンフォード研究所、カルフォルニア大学ロサンジェルス校など4つの大学・研究機関を専用回路で結んだARPANETという学術的なパケット通信網だった。
 新たなメディアの登場と権力というものは、密接な関係にあるというのが歴史の常である。この歴史の流れは、本作『攻殻機動隊ARISE』でも同様に扱われている。
 本作における草薙素子は、彼女が所属している501機関からの独立を望んでいる。作中ではすでに経済的な自立を約束された中佐からの推薦状を受け取っている。だが中佐の収賄容疑が晴れなければ推薦状は無効となり、草薙は義体維持管理規制によって監視拘束の身となってしまう。このことからも分かるように彼女の行動には権力によってかなり制限をかけられている。その意味では「彼女の上司であり保護者でもある野心の女」という公式HPで紹介されているクルツ中佐の存在も象徴的である。
加えて、上映前に配布される『攻殻機動隊ARISE MANUAL BOOK』では、シリーズ構成と脚本を担当した沖方丁という作家の作品について代表作『マルドゥック・スクランブル』の他に『天地明察』や『光圀伝』などを「組織や政治闘争、権力争いの中で決死に生き、理想を追求する「大人」を描く物語」として挙げている。「そのような「大人」の政治を描く力量が『ARISE』でも遺憾なく発揮されているはずである」と続けていることから、まだ少女の面影を残す草薙素子義体という一つの新たなメディアとして捉え、取り巻く権力というのが本作の軸の一つであることは間違いない。このような軸を《メディア―権力》としよう。
 だが、そのような《メディア―権力》という関係はあくまで、本作で与えられている視点の一つでしかない。もう一つの視点は草薙素子という存在を人間として捉えた場合のものである。このような関係をここでは《メディア―権力》に対して《存在―権力》と呼んでおこう。
 そして、このような視点で捉えれば本作でも登場する《疑似記憶》と『Ghost pain』というサブタイトルにもあるように《痛み》というのが重要なものとなる。どういうことか。
そもそも《存在―権力》という関係というのは、かつてフーコーパノプティコンを分析し《生権力》という権力の構造を明らかにしたように不可分の関係にある。また日本の社会学者である大澤真幸は、アメリカの歴史学者マーク・ポスターの主著『情報様式論』の解説のなかで、このような監視と権力について「真に完全な監視状態は、つまり個体の身体に密着しているとい言い得るほどまでに、完全に遍在化した権力は、「内面」という深さを個体の身体の内に析出する能力を失ってしまうのである」と主張した。
そう言ったところから本作を捉えれば、《記憶》というのは非常に重要な意味を帯びてくる。本作で登場する《疑似記憶》というのは、《存在―権力》という関係のなかでは強力なものになる。つまり、この《疑似記憶》というのは、「「内面」という深さを個体の身体の内に析出する」ことなく「真に完全な監視状態」を達成するためのかなり具体的な概念といえる。しかし、そのような「真に完全な監視状態」に近い世界観のなかでは、本当に「「内面」の深さ」は失われてしまうのだろうか。
それを考えていく上で《痛み》というのは、そのような思考に否を唱えるものだといえる。その分かりやすい例として若者のリストカットという行為というものがある。リストカットの原因については自己肯定感の低さや承認欲求に対する不全感というものが挙げられる。このことを換言するならば、リストカットは自己肯定感の低さから構成されたリアリティを欠く現実に対し、《痛み》を身体という唯一のものに与えることによって、個を現実のなかで確立するための手段なのである。
《存在―権力》という不可分の関係。それらが《疑似記憶》によって強化され、失われていく個の内面と、その関係を食い破る《痛み》を引き受け、個としての可能性を探るのが人間としての草薙素子の姿である。
さて、以上のことから、本作に登場する《関係》のなかにおける草薙素子の存在が二つあることが確認できた。一つは《メディア―権力》のなかにある義体という新たなメディアとしての草薙素子。もう一つは《存在―権力》のなかにある人間としての草薙素子である。このような整理のなかを行えば、草薙素子という存在は非常に曖昧な、境界線上の存在として現れる。義体という新たなメディアか、あるいは《痛み》を感じる人間か。あるいは、一つのメディアであり人間でもあるのか。取り巻く《権力》のなかで、この曖昧な境界のなかにいるのが『攻殻機動隊ARISE』で描かれている草薙素子である。
同時にこの話は、現実社会を生きる我々にとっても非常に重大なことを示している。《メディア―権力》という関係については、インターネットの登場により新たな民主主義の可能性が長年模索されてきた。《存在―権力》も同様なことだ。社会に生きている以上、その関係から逃れる術はないと言っていいだろう。そして、草薙素子ほど密接ではないが、例えばAR技術が搭載された眼鏡などの登場のように、メディアは今後、人間にとってより密接なものになるだろう。そのような未来におけるメディアとの関係性を考えるうえで、『攻殻機動隊ARISE』は重要な作品といえる。