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デモ/蜂起の新たな時代 【笠井潔】

デモ/蜂起の新たな時代          

笠井 潔

1 制度的アイデンティティの危機

 チュニジアジャスミン革命ムバラク政権を倒したエジプト革命アメリカの「オキュパイ・ウォールストリート」、ギリシアやスペインの反貧困運動をはじめ、2010年末から11年にかけて世界各地で大規模デモが発生した。日本でも福島事故以降の脱原発運動が、大飯再稼働をきっかけに新たな段階に入る。とりわけ注目を集めたのは、毎週金曜夕方に行われる首相官邸前抗議行動で、6月からは万単位の参加者を算えた。
〝68年〟以来の、〝68年〟を超えるかもしれない大衆的高揚を前にして、さまざまに「デモ」の意味が語られはじめた。9・11新宿駅前集会での「デモで社会は変わる、なぜなら、デモをすることで、『人がデモをする社会』に変わるからだ」という柄谷行人の発言は注目を集めたし、新しいデモを主題にした津田大介『動員の革命』、五野井郁夫の『「デモ」とは何か』、小熊英二の『社会を変えるには』なども刊行された。前提となる発想は対極的ながら、この流れと無関係ではない著作として東浩紀『一般意志2.0』もある。
 たとえば五野井は、次のような柄谷行人の発言を引用している。

確かに、デモ以外にも手段があります。そもそも選挙がある。その他、さまざまな手段がある。しかし、デモが根本的です。デモがあるかぎり、その他の方法も有効である。デモがなければ、それらは機能しません。今までと同じことになる。
柄谷行人「9・11原発やめろデモ」でのスピーチ)

 ここで柄谷は、デモという言葉に大衆的示威行動という以上の意味を込めている。その点は五野井も同じだが、辞書的な意味とは異なるものとしてデモを再定義してはいない。
 まだデモという言葉が一般的でなかった明治時代、足尾鉱毒反対闘争でデモは「押出し」と称された。隊伍をなして東京に向かおうとする農民と警官隊との衝突は、前後六回におよんだ。
 足尾農民の押出しは、同時代の欧米の近代的なデモではなく、祖先たちの一揆の記憶に触発されたものだったろう。一揆はまた蜂起でもある。
 室町時代の公卿の日記に、「土民蜂起す」という記述がある。蜂起という漢語が日本で使われはじめたのは、この時代のことらしい。ムシロ旗を掲げ、ありあわせの武器を手にした農民たちが徳政を要求して街道や町に繰りだす。これは、たしかに「蜂が起きる」光景を思わせたろう。近畿地方を中心とした室町時代の農民蜂起(土一揆)は、戦国時代になると大規模な一向一揆として全国化していく。
 年貢を納めるため朝から晩まで田畑で鋤鍬を振るっていなければならない農民が、たがいに一揆の盟約を結び要求を掲げ、本来の居場所を離れて街道や町に溢れだす。本来の居場所とは、もちろん支配的制度による規定にすぎない。この点で一揆の盟約による農民蜂起は、封建社会の底辺に置かれた制度的役割(社会的アイデンティティ)の自己破壊であり、そこからの自己解放でもあったろう。
 土一揆は江戸時代の農民一揆と違って、飢餓寸前という経済的困窮のみを動機としてはいない。天皇や将軍の死、あるいは代替わりなどをきっかけに、徳政を要求する一揆が頻発した。徳政の要求を支えていたのは、人為的に移動させられた物(財を含む)は元の位置に戻らなければならないという観念である。近代的な言葉に置き直せば、ようするに所有の自然権をめぐる倫理的な要求。
 王の死が共同体に儀礼的な無秩序を生じさせる事例は、民族学社会人類学でしばしば報告されてきた。王の死による社会秩序の象徴的な危機が、社会的アイデンティティの崩壊としての蜂起を惹き起こしても不思議ではない。リヴォリューションが星座の一巡を語源とするように、王の死は、治世のあいだに乱れた世界の秩序を本来の状態に戻し、共同体が蘇生し復活するための機会である。だから、借金を棒引きにしろ、あるいは高利で奪われた所有権を元に戻せという徳政の要求が、将軍の死や代替わりを機に蜂起として爆発した。
 反民衆的な抑圧体制の頂点を攻撃したという宣伝効果を狙って、〈人民の意志〉党や社会革命党のテロリストはツアーリ暗殺を企てたわけではない。少なくとも、それだけではない。王の死が無秩序と混沌を、さらにリヴォリューションとしての社会の蘇生と更新をもたらすだろうという、原古からの無意識的な記憶がテロリストたちの情熱を駆動していた。
 日本では土一揆から一向一揆にいたる時代、中世末期にあたるヨーロッパでも無数の農民蜂起が、あるいは大規模な農民戦争が闘われていた。代表例はエンゲルスが『ドイツ農民戦争』(邦訳、岩波文庫、1950年)で、エルンスト・ブロッホが『革命の神学者 トマス・ミュンツァー』(邦訳、国文社、1982年)で論じたドイツ農民戦争だろう。中世末ヨーロッパの農民蜂起や農民戦争は、カトリックの教権支配に抵抗する異端的な千年王国主義運動でもあった。農民蜂起が民衆的な宗教改革運動として闘われた点は、日本の一向一揆の場合も変わらない。
 一揆は共同行動の盟約を意味するが、外から見れば蜂起である。一揆、蜂起、押出しに共通するのは、固定化された社会的アイデンティティからの離脱であり、主体性の死と再生の経験だろう。それはまた「自由」の経験でもある。
 市民革命は自由を要求して闘われたといわれる。この場合、自由とは絶対主義王権の抑圧にたいし、将来に実現されるだろう自由な社会、自由が保障された社会制度を意味する。蜂起は、こうした目標を達成するための手段にすぎない。しかし、このような目的/手段の理解は一面的である。
 たとえば、会社に行くために電車に乗る。目的は会社に行くことで、電車に乗るのは手段にすぎない。タクシーに乗るとか他に有効な手段があれば、電車という手段は変更可能、代替可能だ。しかし登山の場合はどうだろう。登山の目的は山頂に立つこと、手段は坂を歩いて登ることだ。山頂に立つためには代替手段がある。ヘリコプターに乗ることも、強力に背負ってもらうこともできる。しかしヘリコプターで山頂に降りても、登山とはいわない。自分の足で歩いて登る行為(手段)と、山頂に立つという目的は機械的に分離できない。出勤と違って登山では手段と目的は一体である。ヴェーバーの目的合理性の概念を参照するまでもなく、こうした目的/手段の了解は、魔術から解放された近代の産物にすぎない。
 同じように「自由」の場合もまた、自由な社会の実現という目的と、大衆蜂起という手段を分割することはできない。蜂起とは、固定化された社会的アイデンティティを自己破壊して自由になることだ。制度的な〈私〉は象徴的な意味で死を迎え、自由な〈私〉に再生する。自由な集合的行為としての蜂起こそ、目的である新たな社会制度の自由を支える。啓蒙君主によって民衆に与えられた自由を、本来の意味での自由とはいえない。天皇によって明治憲法を与えられ、占領軍によって戦後憲法を与えられた日本人の自由の脆弱性が、この事実を端的に示している。
 憲法で保障されるような自由とは、大衆蜂起で生きられる自由の制度化にすぎない。むしろ、このように捉えるべきではないか。デモとは、近代に持ちこまれた一揆、蜂起である。蜂起を武装蜂起、とりわけボリシェヴィキによる十月クーデタを典型例とするような武装蜂起として理解すると、デモが蜂起であることの意味がわからなくなる。蜂起とは、個々の社会的アイデンティティを破砕して街頭に溢れだす群衆の集合的行為である。
 大規模であろうと小規模であろうと、暴力的であろうと平和的であろうと蜂起は蜂起だ。またデモが蜂起である限り、そこにはかならず社会的アイデンティティからの離脱や制度化された主体性の死と、蜂起者=デモ参加者としての再生という内的過程が刻まれている。逆にいえば、歴史に大文字で記録されるような巨大蜂起は、しばしば社会的アイデンティティの動揺と危機の時代に生じる。
 日本の〝68年〟に際し、大衆蜂起の核心を主体性の死と再生として唯一、的確に提示しえたのは長崎浩だった。当時の長崎は、「主体性の死と再生──自分は誰なのか」(『結社と技術』、情況出版、1971年、所収)で次のように述べている。

よく知られているように、いまこの社会の底辺では、「流民型労働者」と呼ばれたりする、非定着的労働者たちが動きまわっている。この現象は、世の秩序の根幹をなす諸組織の秩序と論理からの、労働者たちの端的な「脱落」を意味している。そして、これは同時に、戦後の過程で労働組合へと組織されてきた労働者階級の「階級(意識)」からの〈脱落〉でもある。学生の場合も同じだ。大学で教育をうけるという特殊な価値意識は崩壊し、学生層の組織としての「自治会」は形骸化を深めている。

 ヨーロッパの千年王国主義運動は多くの場合、災害や飢饉をきっかけに開始された。土地を離れ流浪する群衆の前に預言者があらわれ、邪悪な世界を糾弾し、千年王国の到来が切迫していることを告げる。これまでと同じように暮らしていけない事実は、農民としての主体性の解体を意味する。古い主体性の死が、蜂起者という新たな主体性への再生を促した。
 長崎によれば、これと類比的な事態が1960年代後半の日本にも生じていた。「自治会組織の解体によってイメージされたものも、学生層という社会的規定の解体である。総じて、知識人の問題を解体することで、学園闘争は逆説的にも、『大学生』を『何者でもない者』へと壊していった」。このように「何者でもない者」、あてどなく浮遊する空虚な主体の大群こそが蜂起の前提となる。
 戦後革命期ともいわれる敗戦直後の日本では、天皇の臣民という社会的アイデンティティの崩壊が大衆を街頭に駆りたてた。しかし戦後復興と高度成長の過程は、人々に新たな社会的アイデンティティをもたらした。勤労者は企業と労働組合に二重に組織化され、喰うに困らない安定した生活と居場所を与えられていく。しかも、しばしば労働組合は組合員をデモに動員する。組合に組織された労働者が中央の指令のもとに行うデモは、当然のことながら蜂起としてのデモではない。そこには制度的に固定化された主体性の死が、したがって蜂起者としての再生という経験が根本的に欠けているから。
 このように考えてみてようやく、「デモが根本的です」という柄谷行人の言葉の意味が、あるいは柄谷の意図を超えて明らかになる。組合動員型のデモは、本来的な蜂起としてのデモとはいえない。それはデモ=蜂起の頽落形態にすぎない。
 日本の戦後史で蜂起としてのデモが一時代を画したのは、皇居前広場を占拠した食糧メーデー(米よこせデモ)から血のメーデー事件にいたる戦後革命期と、1960年代後半の全共闘運動の時期である。労働者を中心に諸階層が街頭に溢れだした前者と、学生層を主とした後者を同列に捉えるわけにはいかない。とはいえ〝68年〟の場合、労働者が階級として自足している「ゆたかな社会」(ガルブレイス)の大衆蜂起だった点に、西側先進諸国に共通する画期性が認められる。
 今日まで最大規模のデモとして記憶されている1960年の安保闘争だが、蜂起としての質は希薄だった。強行採決後の統一行動では、数次にわたり東京で数十万、全国で数百万というデモが組織されたが、その中軸は総評や全学連原水協をはじめとする平和団体などの組織動員だった。「国民運動」と称されたゆえんだろう。国民運動から逸脱して過激化した全学連のデモに、蜂起の質はかろうじて宿されていた。行動が過激だったからではない。戦後復興の過程で蓄積された漠然とした社会的不安や、日本社会の変貌を予感したアイデンティティの危機や群衆化を無意識的に捉えた限りで、全学連の国会突入は蜂起的だった。
『社会を変えるには』の小熊英二は、ポスト工業化社会がもたらした自由の増大に、脱原発デモの画期性の根拠を見ている。それは、新自由主義的な「自由」による社会的流動化の増大とも言い換えることができる。
 小熊によれば、福島原発事故以降の脱原発デモで「新しく目立ったのは、2000年代以降に急増した、30代を中心とする『自由』労働者たちです。『一億層中流』の日本型工業化社会が機能不全になって、増加してきた社会層といえます」。既成の運動や組織に属さない「『自由』労働者」層が、SNSを活用しながら脱原発デモを中心的に支えている。
 小熊の観察は妥当だとしても、デモの考察としては没歴史的で一面的といわざるをえない。デモの名に値するデモ、蜂起としてのデモの主体は原理的に自由である。自由とは、制度化された社会的アイデンティからの自由だ。企業の従業員、その妻や子供、企業に就職するまでの訓練生(学生)というアイデンティティの、2000年代入って歴然としてきた危機と内的崩壊が、新しいデモの背景にはある。
 1930年前後のドイツでは、29年恐慌の波及による失業者の急増が深刻な社会危機を生じさせた。職業という社会的アイデンティティの解体が、左右のデモ/蜂起を激化させ、最終的にはナチス革命にいたる。同じようにリーマンショック以降の世界的な経済危機が、若年失業率が50パーセントに達したギリシア、あるいはスペインなど南欧諸国での大衆蜂起の背景にはある。北アフリカ諸国の民主化運動も「オキュパイ・ウォールストリート」の反貧困運動も、世界的な経済危機という共通の背景をもつ。
 しかし日本では、2000年代からの格差化/貧困化の進行にもかかわらず、北アフリカ諸国や南欧諸国のようなデモ/蜂起は生じなかった。劇的な解雇の嵐ではなく、非正規・不安定労働者の傾向的増加という真綿で首を締めるような形で、労働の危機がじわじわと進行してきたからだろう。また急激な円高にも見られるように、リーマンショック後に南欧諸国を襲った深刻な経済危機を、いまのところ日本経済は回避しえている。
 日本人の社会的アイデンティティを根柢から揺るがしたのは、経済危機よりも福島原発事故だった。原発事故と放射能汚染は、もう昨日と同じようには暮らしていけないという危機感を、福島の被曝地域の住民を中心に国民的なものとした。戦後日本の「平和と繁栄」の破局的な終着点こそ原発事故だったという直覚は、繁栄に自足してきた戦後日本人に決定的な変化をもたらした。すでに進行していた社会的流動化とアイデンティティの崩落もまた、原発事故の衝撃をきっかけとして急速に自覚化され、脱原発デモと結合していく。
 蜂起としてのデモの主体は、どの時代でも自由だった。日本の戦後史に即するなら、天皇の臣民というアイデンティティからの自由が、戦後革命期というデモの一時代を生じさせた。もちろん工場も家も焼け落ち、労働者や家庭人という社会的な存在根拠も崩落していた。続いて1960年代の後半には、学生層に集中してアイデンティティの危機が露呈され、〝68年〟の大衆蜂起が闘われる。
 世界史的には、さらに大きな射程で同じことがいえる。市場経済の浸透と農村共同体の崩壊による大都市への人口集中は、プロレタリア貧民を激増させた。屑拾いや水売りのような半端仕事(プティ・メティエ)で生計を立てるしかない点で、プロレタリア貧民をマルクスのように「二重に自由な」存在と定義することはできない。農民としてのアイデンティティを失った結果として、たしかに封建的束縛からは「自由」になっていても、しばしば労働市場から排除され、労働力を売る「自由」さえ与えられていなかったとすれば。バルザックの小説で具体的に描かれた都市貧民こそ、フランス大革命からパリ・コミューンにいたる19世紀のフランスのデモ/蜂起の主役だった。
 しかし資本主義の発達と帝国主義化は、プロレタリア貧民という「危険な階級」を機械制大工業の産業労働者に変貌させていく。産業労働者は資本によって組織されると同時に、社会民主主義労働組合と政党にも組織された。この過程は、第一次大戦を前にした20世紀初頭に完成を見る。
 第一次大戦と第二次大戦に挟まれた「危機の二十年」(E・H・カー)には、またしても社会的アイデンティティの崩壊現象がヨーロッパを襲った。こうしてロシア革命の勝利とドイツ革命の敗北、ファシズムの台頭、フランス人民戦線、スペイン戦争という大衆蜂起の一時代が到来する。
 第二次大戦後には西側先進諸国で、ケインズ・フォード主義体制による「ゆたかな社会」が確立される。その一環として戦後日本では、小熊のいわゆる「『一億層中流』の日本型工業化社会」が形成されていく。
「『一億層中流』の日本型工業化社会」の解体と自由な主体の群生が、脱原発デモに新たな質をもたらしたという小熊の見解は、だから没歴史的で一面的といわざるをえない。この点は五野井郁夫にも共通するのだが、脱原発デモの「新しさ」を強調しようとして、土一揆から足尾鉱毒反対闘争にいたる、とりわけ戦後革命から〝68年〟にいたるデモ/蜂起の歴史的経験を軽視する。あるいは意図的に切断しようとする。こうした姿勢では、新しい事態の意味するところを正確に把握することもできない。


2 「失われた二十年」と「与えられた二十年」

 本年8月27日の朝日新聞に掲載された「ぼくたちの失敗(上)」に、「学生運動に失敗、すぐ企業戦士に転向したくせして『後続世代は無気力』と批判、年金は潤沢にもらう……このあたりが今の若者の〝団塊世代観〟だろうか」とある。これを日本の〝68年〟をめぐる後進世代の第一の「常識」としよう。
 第二の「常識」は、「必要な妥協を拒んで無意味に過激化・暴力化し、いかなる成果も残すことなく消滅した」というところだろうか。無展望な暴力的過激化が、その後の社会運動に甚大な被害をもたらしたという観点から、たとえば小熊英二は『1968』を書いている。
 日本の〝68年〟をめぐる後進世代の「常識」は無知の産物、あるいは歴史的事実の意図的な歪曲だと反論してみても、効果は期待できそうにない。二つの「常識」が定着し終えた根拠を明らかにしなければ、どのような反論も説得力をもちえない。こうした「常識」も半分は妥当で、完全な捏造とはいえないが、それでも放置しておくわけにはいかない。団塊世代全共闘世代の自負や名誉など、たいした問題ではない。そうではなく、二つの「常識」は後続世代の運動の発展を制約しかねないからだ。
 とりあえず、第二の「常識」のほうから検討していこう。『「デモ」とは何か』で五野井郁夫は、「二〇一一年という現在」と「四三年前の一九六九年一〇月二一日、いわゆる『新宿騒乱事件』」を対比し、次のように述べている(ちなみに1969年というのは五野井の間違いで、騒乱罪が適用された新宿闘争は68年)。

しかし、二〇一一年六月一一日に新宿駅東口のアルタ前広場に集まった群衆らの行動には、四〇年以上前の物騒なイメージの出来事とは決定的に異なる点があった。それは、参加者側の徹底した「非暴力」、そしてデモ自体の「祝祭性」、すなわち平和なお祭りのような賑わいである。

「カーニバルのようにわくわくする『祝祭』の雰囲気と『非暴力』というこの二点で、戦後史における暴力の鉄鎖との訣別が明瞭なかたちでなされた」という五野井の主張には、六八年と六九年にかんする事実誤認とは水準の異なる、見過ごせない問題点が含まれている。そもそも「祝祭」と「暴力」は、五野井が思いこんでいるように対立的ではない。
〝68年〟の時点でも、アンリ・ルフェーブルの著作から「パリ・コミューンのスタイルは祭(フェート)のスタイルだった」(『パリ・コミューン』、邦訳、岩波文庫、2011年))という冒頭の一句はしばしば引用されたし、全共闘運動では「祝祭としての叛乱」という言葉が好んで用いられていた。山口昌夫は「失われた世界の復権」(『現代人の思想15 未開と文明』、平凡社、1969年、所収)で、ヘルメットに角材という学生デモの「異装」に祝祭的なものを見て、〝68年〟の大衆蜂起を「世界の再聖化」運動として評価した。
 大衆蜂起は「世界の再聖化」運動だという定義は、文化的アナキズムの無内容なまでに一般化された認識にすぎない。そこでは未開社会のイニシエーションから、中世末の千年王国主義運動やフランス大革命のバスティーユ蜂起、さらには大戦間のモダニズム芸術運動までが「世界の再聖化」運動として平板に一括されてしまう。山口のような文化的アナキズムの立場では、「近代」の「政治」という特殊な磁場に置かれた大衆蜂起の経験を、独自の領域として捉えることができない。
 文化的アナキズムの一般論を超え、事実として大衆蜂起は祝祭として体験された。東大全共闘や日大全共闘をはじめとする大学のバリケードは祝祭空間だったし、街頭闘争でもそれは変わらない。たとえば1969年1月の佐世保闘争は、佐世保の市街全体を一種の祝祭空間に変えた。この点は、体験者である村上龍の『69 sixty nine』(集英社文庫、1990年)で説得的に描かれている。五野井が否定する68年10・21の新宿でさえ、祝祭的な体験として語る者はいくらもいる。
 佐世保闘争も新宿闘争も、角材や投石などの点で「暴力」的だったといえなくはない。しかし、こうした実力闘争の要素を含めて市民の多くは好意的だったし、街頭署名や募金という点でも大衆的支持は実感された。
 そもそも暴力と祝祭を対立させる発想に、いかなる根拠もない。日常の時間に挟まれた祝祭の時間では、前者では抑圧されている暴力とエロスが一時的に解放される。今日の祭でさえ、しばしば暴力的であることは、死者が出ることも稀ではない諏訪大社御柱祭などに示されている。六年に一度の御柱祭だけでなく、負傷者を出す祭は全国各地でいまも毎年のように行われているし、近代以前はさらに暴力的だったろう。半裸の踊り子が乱舞するリオのカーニヴァルでさえ、観光化され頽落してはいても、日常的に抑圧されたエロスの解放という祝祭性は歴然としている。
 祝祭の.暴力性にかんしては、モース、バタイユジラールなどが詳細に論じているし、ここで詳説するまでもない。祝祭と暴力を機械的に対立させ、六八年と現在の大衆蜂起を「暴力から祝祭へ」と要約する五野井の発想は、歴史的事実としても原理の問題としても的を外れている。
 ただし、血のメーデー事件から〝68年〟にいたる一連の闘争が「デモと直接行動というごく当たり前の民主主義のレパートリーに、暴力というネガティブなイメージをある種の観念連合として結びつけることになってしまった」結果、「そのツケを、今デモに参加している若い世代は払わされており、イメージ自体を塗りかえる努力を余儀なくされている」という五野井の実感が、まったくの被害妄想であるともいえない。日大闘争までは心中で共感していたが、学生運動の暴力化には「危機管理」で応じざるをえなかったと語る佐々淳行連合赤軍あさま山荘」事件』(文春文庫、1999年)の公安史観や、それに棹さしたマスコミの宣伝を鵜呑みにしているきらいはあるとしても。
 大衆蜂起の常である〝68年〟の祝祭的暴力や大衆実力闘争が、陰惨でグロテスクな暴力に転落していった事実もまた否定できない。連合赤軍事件を転機として、大衆蜂起への大衆的共感は急激に失われた。
 とはいえ連合赤軍事件でも、浅間山荘銃撃戦が流れを一挙に変えたわけではない。決定的だったのは、銃撃戦に続いた山岳アジトでの「総括」殺人の発覚である。連合赤軍の仲間殺し、同じ時期から全面化していく革共同両派と革労協による内ゲバ殺人は、〝68年〟の祝祭的暴力が異質なものに変貌し終えたことを示した。
 大衆的共感が断たれた理由の第一は、連合赤軍事件から革共同内ゲバ戦争にいたる腐敗した暴力の連鎖だった。第二は、東アジア反日武装戦線三菱重工本社爆破だろう。無差別テロの思想的背景には倒錯した倫理主義があった。たとえば、次のように小熊英二は書いている。

日本での社会運動嫌悪の典型は、「倫理的すぎる」だった。革命、正義、責任などの絶対的な抽象理念や、否定しようのない弱者を持ち出して、「あなたはどうするのか」を迫る。それが押し付けがましい、抑圧的だ、自己陶酔だ、行き着く先は連合赤軍だ、といったところだろうか。
(「『分岐点』をむかえて」、「一冊の本」2012年2月号、朝日新聞出版)

 この文脈では、連合赤軍より「行き着く先は東アジア反日武装戦線だ」のほうが的確だろうが、いわんとするところは変わらない。血債主義という倒錯した倫理主義は、ノンセクト活動家による三菱重工爆破事件のあとも生き延び、ほとんどの新左翼党派のあいだで旺盛に繁茂していく。
 1990年代の日本では、アメリカの文化左翼やカルスタ・ポスコロ派を後追いするように、党派的な血債主義の微温的な水増し形態が流行した。アメリカのPC(ポリティカル・コレクト)というより、フランスやドイツの歴史修正主義論争やアウシュヴィッツの表象不可能性をめぐる議論に触発された高橋哲哉も、微温的血債主義者に分類できる。
 1970年代以降に大衆が社会運動から離れたのは、全共闘時代に学生が暴れすぎたからだという、五野井や小熊が多かれ少なかれ共有している第二の「常識」。しかし、全共闘運動を含む新左翼運動が大衆的共感を失ったのは、第一に内ゲバ、第二に血債主義の結果で、第二の「常識」は公安史観を流布したマスコミの捏造の産物にすぎない。
〝68年〟の大衆蜂起と、その後の内ゲバや血債主義の横行はまったく無関係ではないが、完全に連続的ともいえない。内ゲバにしても、日比谷公園で対立党派が竹竿で突きあう程度と、密室でのリンチ殺人や殺害を目的とした襲撃のあいだには決定的な断絶がある。
 学生が暴れすぎて日本から社会運動は消滅したという公安史観を、当時の体験のない研究者や新世代の活動家の少なからぬ部分が信じこんでいるようだ。このような錯覚を生じさせた思想的責任は、主として〝68年〟体験者の側にある。解放的な大衆蜂起と陰惨な内ゲバや血債主義を、マルクス主義テロリズムという最深の根拠にまで遡って切断する思想作業を放棄した体験者の大勢が、結果として公安史観を蔓延させた。
 また五野井は、「二〇一〇年代になってもロンドンやアテネでは暴動となり、オュパイ・ウォールストーリトですら、しばしば警官隊との衝突がみうけられた。ひるがえって日本では暴力沙汰にはならずに、老若男女が平和のうちにデモをすることができる」とまでいう。大衆蜂起の暴力と軍事を混同し、大衆実力闘争と戦争(都市ゲリラ闘争)を連続的なものと見なしたのは、反論の余地ない理論的な錯誤だった。しかしデモと大衆蜂起を切断し、デモから「暴力」を完全脱色しようとする五野井のような主張は、かつての錯誤の単純な裏返しにすぎない。
 大衆がデモを敬遠するようになったのは、全共闘時代に学生が暴れたからだという第二の「常識」は、日本でだけ通用する俗論にすぎない。フランスの新左翼は都市ゲリラ的な軍事闘争を回避したが、イタリアと西ドイツでは事情が違った。アメリカではBPP(ブラック・パンサー党)など黒人解放闘争の急進派が都市ゲリラ戦に突入した反面、SDSなどの学生運動は軍事闘争に踏みきっていない。
 西ドイツ赤軍(バーダー・マインホフ・コンプレックス)やイタリア赤い旅団の軍事闘争は、その徹底性と苛酷性という点で連合赤軍とは比較にならない。浅間山荘銃撃戦など、西ドイツ赤軍や赤い旅団が展開した都市ゲリラ作戦と比較すれば子供の火遊びにすぎない。極左派が暴れた点では、西ドイツやイタリアのほうがはるかに徹底的だったが、にもかかわらず両国では、70年代以降の日本のようにデモの伝統が消えたような事実はない。とりわけイタリアは、「鉛の時代」という大弾圧時代を経過したにもかかわらず。
 学生が暴れたから云々という第二の「常識」が普及したのには、〝六八年〟体験者の思考放棄に加えて、大衆蜂起を根絶したいと望んだ勢力の宣伝活動が大きい。しかし宣伝を受けいれて信じこむ、信じこみたいと潜在的に望んでいた大衆が存在しなければ、それも実現されたわけがない。ここで、第二の常識は第一の常識に接続する。
 1970年代に三里塚闘争、80年代後半に反原発運動、1991年に湾岸戦争反対闘争が闘われたように、日本でもデモが根絶されたわけではない。ただし根絶できないまでも、蜂起としてのデモを不可視の領域に押しこんでしまう決定的な条件が、西ドイツやイタリアとは違って70年代以降の日本社会には強力だった。
『例外社会』でも検証したように、バブル崩壊以降の1990年代、2000年代の「失われた二十年」に先行して、日本には「(繁栄を)与えられ二十年」が存在した。第二次大戦後の高度経済成長は、アメリカを含めて西側先進諸国に共通する現象である。本国が戦火に見舞われていないアメリカと比較して、戦争で壊滅的打撃を蒙った西欧諸国と日本では、さらに著しいものとして戦後の高度成長は経験された。
 イギリス、フランス、ドイツなどの西欧諸国は、70年代初頭のオイルショックを転回点として戦後の高度成長時代は終わる。低成長、スタグフレーション、失業率の増大に悩まされはじめたのは、ヴェトナム戦争の戦費負担に喘いでいたアメリカも同じだった。しかし日本のみ例外的に、オイルショックを乗り切って安定成長に移行していく。
 70年代と80年代は欧米諸国の「失われた二十年」だったが、同時期の日本は「与えられた二十年」を謳歌することになる。この趨勢が逆転するのは90年代以降で、アメリカ資本主義は情報・金融産業を基軸として新たな繁栄の局面に入る。バブル崩壊の後遺症から逃れられないまま、それまで一人勝ち状態だった自動車・家電も新興国に追いあげられた日本は、デフレと低成長の「失われた二十年」に突入した。
 アメリカと西欧諸国が経済的に落ちこんでいた1970年代と80年代の二十年間、日本は未曽有の繁栄を謳歌し続けた。バブル崩壊のあとも、この不況は景気循環による一時的な局面にすぎないと、政府もエコノミストの大半も信じこんでいた。バブル時代の蓄積や景気刺激の財政政策もあって、90年代の日本は「失われた二十年」に入っている事実から目を塞ぎ続けることができた。時代の変貌は、阪神大震災地下鉄サリン事件の1995年になって、ようやく社会的に自覚されはじめる。長引く不況は景気循環の一局面ではなく、戦後日本経済の構造的な問題ではないかという社会意識が定着するのは、1997年の金融危機を通過して以降だった。
 赤字の増大のため財政出動は限界に達した。小泉改革による規制緩和や企業のリストラと雇用形態の変質は、戦後社会の空洞化と内的崩壊をもたらし、2000年代には格差化と貧困化が急速に進行していく。しかし復活したアメリカ経済も、2008年のリーマンショックで大打撃を蒙った。金融危機はEUに波及し、ギリシアをはじめとする南欧諸国は泥沼のような不況と大量失業に喘ぎはじめる。
 第一次オイルショック以降の過程を簡単にまとめてみたが、このように2012年現在では、アメリカ、日本、EU諸国のいずれもが経済危機の渦中にある。しかし70年代と80年代は違っていた。70年代の安定成長から80年代後半のバブル経済にいたる繁栄を、日本だけが謳歌しえたのだから。西側先進諸国では他に類例のない「与えられた二十年」こそが、日本から蜂起としてのデモを消滅させた最大の根拠である。繁栄の余韻は九〇年代まで続き、戦後社会の内的解体と格差化や貧困化が可視化される2000年代にようやく、反貧困運動として社会運動の復活が模索されはじめ、福島原発事故をきっかけとして新たな脱原発運動がはじまる。
 この点について小熊英二は、「就職が決まって髪を切った元学生活動家が、『もう若くないさ』と言い訳する」荒井由実作詞作曲の「『いちご白書』をもう一度」を引用し、日本の〝68年〟活動家とは違って「同時代のアメリカや西欧の若者たちは、髪を切っても就職できない不況に苦しんでい」(『社会を変えるには』)たと指摘している。
『1968』では見落とされていた、日本に固有の「与えられた二十年」に新たに注目した点は評価できる。ただし、1970年を前後する時期からポスト工業化社会に入った欧米とは違って、同時期の日本は「農林水産業がまだまだ多い初期工業化の時代から、製造業中心の後期工業化社会」に入ったところに、「与えられた二十年」の根拠を見てしまうのは一面的といわざるをえない。
「もし日本で、1990年ごろに学生叛乱がおき、その活動家の一部が、2000年代以降の非正規雇用労働者運動や脱原発運動の中核にいたりしていたら、まったく違うイメージになったかもしれません」と(『社会を変えるには』)と小熊は書いている。
『例外社会』でも検証したように、20世紀前半まで日本資本主義の後進性と見なされていた経済の二重構造、とりわけ前近代的・半封建的な農村の存在が、世紀後半の爆発的な高度成長を可能にした。農村部に膨大に蓄積されていた過剰労働力を都市部に移転することで、戦後の日本資本主義は労賃の高騰と利潤率の低下をまぬがれえたのである。小熊のように産業構成の変化だけに注目していては、労働力の供給をめぐる戦後資本主義のダイナミズムを捉えそこねてしまう。
 この点は西欧諸国の戦後成長が、日本と違って移民労働力に支えられた事実にも関係がある。ドイツやフランスと違って移民労働者という「危険な階級」を抱えこんでいない日本だから、製造業のポスト・フォーディズム的な多品種少量生産とトヨティズム的な発展も可能だった。それが「与えられた二十年」の繁栄を支えたという観点が小熊にはない。
 さらに重要なのは、小熊も共有しているマルクス主義的な「後追い発展史観」だろう。マルクスによれば「明日のドイツは今日のイギリス」である。しかし今日では、ウォーラーステインのようなマルクス主義者でさえ、後発国は先発国を後追いして進歩するという後追い発展史観を放棄している。
 レーニン日露戦争の旅順陥落を論じた短い文章で、「新興日本資本主義の熱病のような発展」に注目した。後発国が先発国に追いつこうとするとき、先発国を越える「熱病のような」先進性や現代性が局所的に生じる。だから「明日の中国は今日の日本」とはいえない。たとえば韓国や中国の沿岸部では、すでに「今日の日本」を超えるような先進性と現代性が達成されている。日本はフォーディズム的、ボスト・フォーディズム的な製造業で韓国や中国に追い越されると同時に、ポスト工業化社会的なIT関連でも追い越されようとしている。
 こうした先発と後発のダイナミズムに無自覚である結果として、小熊のような〝68年〟論が生じてしまう。初期工業化社会と後期工業化社会の移行期に起きた日本の〝68年〟には、後進国型の質と同時代の欧米に通じる質とが二重化していたと小熊は強調する。しかも後進国型とはいえない新たな質にしても、前近代的な農業社会が近代的な工業社会に移行する際に、しばしば若者や学生に集中的に生じるアンデンティティの不安として説明される。
 先発国の後を追う後発国は、部分的に先発国よりも突出して先進的・現代的な様相を呈する事実を見ようとしない。だから日本の〝68年〟は、当時の韓国のような後進国型と、フランスのような先進国型の中間形態として位置づけられてしまう。日本でバブル時代に頂点に達する「与えられた二十年」の高度消費社会は、生産的基礎が後期産業社会的な製造業であるにもかかわらず、その段階を超えたはずの欧米を圧倒していた。こうした特殊性がまた、日本からデモを消滅させる力として機能していく。
 第一の「常識」である「学生運動に失敗、すぐ企業戦士に転向した」という批判を、当人の倫理や決意性の問題に向けるのは的外れだ。実のところ、逮捕歴・起訴歴がある活動家は大企業に就職することなど困難だった。全共闘運動や新左翼運動の中軸を担った数千の活動家は、前歴からして「企業戦士に転向」できたわけがない。転向できたのは、デモの尻尾にくっついていた程度の行動的大衆だろう。ただし、こうした万単位の支持層が存在しなければ、社会を揺るがすほどの大規模なデモ/蜂起は実現されなかったわけで、第二の「常識」による転向批判は運動全体が受けとめなければならない問題だ。
 日本の〝68年〟を主導的した活動家の多くは、「与えられた二十年」を日本社会の底辺で非正規・不安定労働者として生きてきたはずだ。前掲の「主体性と死と再生」で長崎浩は、すでに全共闘の時代から将来を的確に予見していた。

闘いののちに物理的バリケードを追放されたときも、人は、ふたたび帰還し帰属すべき日常世界が、もはや実のところ失われていることに気づかざるをえない。闘いによって自らの退路を断った者が、しかもなお物理的バリケード空間の生でもなくまた死でもなく、ただ白々しい生活世界を生きる以外にないとき、彼は自分(たち)の主体の規定不可能の漠然さ、その広がりの気味悪い客観性に思いいたる。いま、闘いの創造が、なおこうした状況の成熟をすすめる結果にしかならぬとしても、闘いを繰り返す以外にない。

「闘いによって自らの退路を断った者」たちは、どのように以降の40年を生きてきたのか。空疎な繁栄のただなかで、「自分(たち)の主体の規定不可能の漠然さ、その広がりの薄気味悪い客観性」に、「自由」であり続けることに自覚的に耐え続けたろうか。40年前に「自らの退路を断っ」て制度的アイデンティティの外に出た元活動家が、固定化されたアイデンティティを最初から奪われている非正規・不安定労働者の「自由」な若者たちと充分に共鳴しえていない点に、検証しなければならない思想的課題がある。これと比較すれば、第一の「常識」による転向批判など皮相な問題にすぎない。
 全共闘世代が大量転向したように見える光景の背後には、日本資本主義に固有の「与えられた二十年」が存在した。「与えられた二十年」の空疎な繁栄に迎合したのは、「おいしい生活。」の糸井重里や無数の企業戦士などの転向活動家だけではない。「与えられた二十年」のイデオロギーである日本型ポストモダニズムに浮かれた新人類世代も、それ以降の世代も転向活動家と同罪といわなければならない。
 そもそも連合赤軍を山岳アジトに追いあげたのは、「与えられた二十年」がはじまろうとする時期の高度消費社会だった。この強大な引力に倫理主義的に抵抗しようとして、連合赤軍は暴力的過激化を強制された面がある。だから、第一の「常識」が攻撃する全共闘活動家の大量転向と、第二のそれが非難する運動の暴力的過激化は、メビウスの環のように連続している。この複雑なねじれを、二つの「常識」は単純化することで解消する。
 求められているのは、「与えられた二十年」のあいだも執拗に持続された、〝68年〟にはじまる系譜を洗いだし、それを継承することではないか。小熊が強調する後進国学生運動の理念が19世紀的な啓蒙主義だとすれば、20世紀的な行動的ニヒリズムという点で日本の〝68年〟の感性は突出していた。こうした感性的突出が、「与えられた二十年」の繁栄の波間に泡と消えたとはいえない。闘争が継続されたのは、諸条件からして社会運動ではなく文化運動の場面が主だったとしても。
 しばしば語られるように、インターネットとネット文化の有力な源流のひとつはアメリカの〝68年〟である。アメリカがスティーヴ・ジョブズを生んだとすれば、日本は「攻殻機動隊」の押井守を生んだ事実がある。押井に象徴されるアニメ文化や、しばしばオタク文化と称されてきた現代日本のユースカルチャーを。
「それぞれ自分で作成したプラカードを手にしたり、気ままな恰好の人もいれば、浴衣やコスプレや着ぐるみを着ている人もいた。ドラムやトランペットを演奏する人も見受けられた」と五野井は語っている。脱原発デモの祝祭的な感性が、現代日本のユースカルチャーを土壌としていることは疑いえない。小熊は頑強に「否認」するが、押井守全共闘時代の高校生活動家だった事実にも示されるように、その起源は〝68年〟にある。


3 民主主義国家とセキュリティの権力

 60年安保当時の丸山眞男の発言「院内と院外のずれをなくしていかなければ議会政治は健全にならない。国会の中と外の風通しをよくしろということ」(「議会政治を築くには」、『丸山眞男集 八巻』、岩波書店、1996年)を参照しながら、市民の直接行動であるデモと代表制民主主義の関係を、『「デモ」とは何か』で五野井郁夫は次のように語る。

いま、わたしたちが持っている政治の幅は、議会制民主主義というルールの幅だ。その「院内」の政治の幅と、わたしたちの生活の幅が一致しない場合、かつ「院内主義」からくるところの、いわゆる「院外」の力の軽視が看守される場合は、わたしたちは自分たちの未来と将来世代のために何をなすべきか。端的にいえば、デモをすることだ。それが「院外」の政治たる直接民主主義の表現となるのだ。

 議会が「『院外』の力」を充分に反映していないと思われるとき、「わたしたち」はデモによって意志を表明し、それを「院内」に伝えなければならない。議会が順調に機能していればデモなど必要ないとすれば、デモ(直接民主主義)は間接民主主義の賦活剤にすぎない。しかし、「いま、わたしたちが持っている政治の幅」、「議会制民主主義というルールの幅」を五野井のように自明視しうるだろうか。
 たとえば、フランス大革命の発端もまたデモにある。ヴェルサイユの三部会が旧体制の支配層(第一、第二身分)と第三身分の代表者の対立で膠着状態に陥ったとき、情勢を打開したのは1789年7月14日のパリの下層市民よるデモだった。貧民プロレタリアの大群が自然発生的に労働者街の街路を占拠し、軍隊との衝突から、バスティーユ監獄を標的とした武装蜂起にいたる。その後も10月5日のヴェルサイユ行進のように、下層市民の大規模デモが三部会や国民議会の政治過程に圧力をかけ続けた。
 イギリスの清教徒革命やアメリカの独立革命でも、集会やデモなどの民衆運動が絶対主義王政打倒の内戦に先行していた。フランス型と英米型の相違は根本的ではなく、与えられた条件の相違から生じるにすぎない。「アラブの春」でも、チュニジアとエジプトはフランス型、リビアとシリアは英米型の進行過程を辿った。いずれにしても近代の民主主義国家がデモから誕生したこと、民主主義国家の原点にデモが存在した事実は疑いえない。
 日本でも、明治憲法体制の前には西南戦争自由民権運動があった。ようするに、明治憲法体制には内戦とデモが先行している。欽定憲法によって立憲国家の体裁を整えた日本だが、表現の自由(集会結社の自由や言論出版の自由)は極度に制限され、デモの合法性が保障されるにはいたらない。足尾鉱毒反対闘争での押出しが非合法とされ、官憲によって弾圧されたように。
 こうした制限を一応のところ解除した戦後憲法体制もまた、第二次大戦と大戦直後の民主化運動や皇居前広場の大集会(食糧メーデー)などのデモを背景に成立している。ただし占領軍権力から与えられた点で、デモが憲法を作ったとまではいえない。表現の自由憲法で保障されたにしても、この不徹底性に戦後民主主義の限界があった。
 デモという直接行動は議会政治の賦活剤にすぎないという、五野井も踏襲している通説は、立憲国家の議会制民主主義それ自体がデモから生じた歴史的事実を見ようとしない。しかし民主義国家もまた、絶対主義国家が歴史的に形成した統治権力という本質を継承している。民主主義国家であろうと、領域内の暴力を独占し、構成員を支配する最高権力である点は絶対主義国家と少しも変わらない。
 前体制を破壊するデモから生じた国家もまた、暴力を独占した統治権力である限り、おのれが破壊されることを許容するわけがない。とはいえ民主主義国家は表現の自由を、ようするにデモを否定しさることもできない。この自己矛盾を糊塗するために要請されるのが、国家体制の番人としての公安権力(セキュリテ・ピュブリック)、ようするにパブリックなセキュリティの権力である。
 革命直後のフランス共和国やロシアのボリシェヴィキ国家が典型的だが、公安権力は革命を防衛すると称して暴走し、革命をその反対物に転化させる。旧体制を破壊した「われわれ」のデモは正当だったが、デモによって樹立された新体制へのデモは徹底的に弾圧しなければならない。これがフランス革命時の公安委員会やロシア革命時の秘密警察(チェーカー)の役割だった。
 リビアやシリアのような権威主義体制とは違って、民主主義国家では通常、軍隊を動員しやみくもにデモを弾圧することはない。「院外」の直接行動など存在しないことが望ましいにしても、憲法上の建前から表現の自由は否定できない。だから民主主義国家の公安権力は、デモを議会制民主主義の補完物、その賦活剤という水準に押しとどめようとする。道交法をはじめとするデモ規制の法律が制定されたのは、そのためだ。
 道交法の建前は、表現の自由と他の人権を調和させる点にある。国家はデモの権利を尊重する同時に、それが公共の福祉と両立するように調整しなければならない。しかし真の目的は、デモを合法と違法に分割し、抵抗権や革命権として理念化された蜂起としてのデモを、違法として弾圧するところにある。
 苦痛と流血をともなう生誕の瞬間を忘れ去り、はじめから理性的な主体だったと信憑し、大人としての「健全」な暮らしを営んでいる日常人が、比喩的にいえば民主主義国家である。いや、本当は忘れていない。暴力と血を流す権利を独占し続けなければならないのだから。
 おのれの出自を忘却した、あるいは隠蔽しようとする民主主義国家は、出生の現場で体験した苦痛や流血という外傷に呪われている。トラウマは神経症的な症状として反復されるだろう。民主主義国家にとってデモとは、症状として反復されるトラウマである。禍々しい部分は公安権力という不可視の領域に集中し、無意識化することで、民主主義国家はおのれを民主的・平和的であると主張しうる。
 しかし、どのように小規模で地域的なデモであろうと、デモには自由を求める大衆蜂起の質が多かれ少なかれ含まれている。21世紀のコントロール的な公安権力は、1905年ロシア革命血の日曜日事件のように、大衆デモを銃剣で弾圧するようなことは、とりあえずしない。その代わりに、デモ参加者を端からビデオ撮影し、膨大にデータ化し、銃剣の弾圧よりも陰湿で効果的な切り崩しをはかるだろう。
 先にも述べたように、デモの経験とは古い主体性の自己破壊による新たな再生である。現代の公安権力は、自由を求めて飛散するデモの集合的主体性を、電子テクノロジーとデータベースを駆使して特定の個人に引き戻そうとする。この主体/個人は、能産的で充実した近代的なそれではない。自己責任論で縁どられた無限に貧しく空虚な、電子的に識別される無数の属性の塊であるような主体/個人にすぎない。
 しかし、このように貧しく空虚な主体/個人こそ、蜂起としてのデモの今日的な主体と隣接する。本年六月からの脱原発デモが示しているのは、コントロール的な公安権力と、その周密な監視の網からさえ逃れてしまう新しい主体=個人がせめぎあう光景ではないだろうか。このところデモの現場で対立を生じさせている、デモの合法性や非暴力性の問題、旗の持ちこみに象徴される団体参加や組織動員の問題、シングルイシューをめぐる問題などは、以上のような観点から根本的に再検討したほうがいい。対立が凡庸な世代間対立に回収されることは公安権力、パブリックなセキュリティ権力が望むところだから。
 蜂起としてのデモには、公安権力の阻止線を超えていく必然性がある。阻止線を超えれば「違法」であり、暴力を独占した国家は違法行為を暴力的に制圧する。公安権力の弾圧に実力で抵抗すれば、デモもまた暴力的にならざるをえない。ただしデモ側の暴力は、公安権力の暴力には屈しないという象徴的・例示的な暴力にすぎない。
 第一の「常識」は〝68年〟の暴力的に過激化したデモに、合法的・平和的なデモを対置する。しかし、合法的と平和的を等号で結ぶことはできない。アメリカの公民権運動で再発見された市民的不服従とは、いまここでの抵抗権の行使である。国家の法が間違っているなら、それに従うべきではないという市民的不服従の行動は、当然のことながら合法の範囲を超えざるをえない。公安権力が期待するような絶対化された合法主義と、市民的不服従は原理として対極的である。
 では、非暴力直接行動はどうか。公民権運動の活動家には宗教的な絶対的非暴力主義者も含まれていたろうが、それが大勢だったとはいえない。抵抗権の行使としての市民的不服従による非暴力直接行動は、国家の暴力を引きだし国家の暴力に身をさらすという点で、やはり暴力的な行動である。公安権力の抑止に実力で抵抗する結果、「違法な暴力」として弾圧されるデモと、市民的不服従による非暴力直接行動を原理的に対立させることはできない。当面する情勢や力関係のもとで、どのような戦術が有効なのかを判断するのはデモ/蜂起の政治意識であり、ある場合には非暴力(という暴力)が、ある場合には公安権力の抑圧にたいする実力抵抗が戦術として選択されるにすぎない。
 デモを議会政治の賦活剤、補完物と位置づける五野井は、「ただデモだけを行ったり、アナルコ・サンディカリズムのようなゼネストによる『院外闘争』の結果としての社会革命をめざすような労働組合至上主義だけではだめなのである」という結論にいたる。こうした主張は、社会主義の崩壊から二十数年のあいだ社会思想の主流だった公共性論や熟議民主主義論の流れに棹さしたものだ。公共性を先験化する立場は、原理的に公安権力を否定しえない。公安権力とはパブリックなセキュリティ権力だからだ。
 もろもろの公共性論が、特権的な先行者として評価するのがハンナ・アレントだ。しかし公共性論者のほとんどは、ローザ・ルクセンブルクに憧れた少女時代から、1956年のハンガリー革命を目撃した時期まで、あるいは『暴力について』(邦訳、みすず書房、2000年)を書いた晩年まで、アレントが一貫して非妥協的な評議会主義者だった事実に目を塞いでいる。フランスではコミューン、ロシアではソヴィエト、ドイツではレーテと呼ばれた、自然発生的な民衆の自律/自治/自己権力の組織である評議会。加盟性の固定的な組織ではなく、むしろ運動そのものであるような開かれた組織としての評議会。19世紀末のフランスで頂点に達したアナルコ・サンディカリズムの「サンディカ」もまた、パリ・コミューンを継承し、ロシアのソヴィエトやスペインのCNA/FAI(全国労働連合/イベリア・アナーキスト連盟)の運動に先行する評議会運動の流れに位置づけられる。
 フランス大革命は二重構造をなしていた。バスティーユ蜂起やヴェルサイユ行進を現場で闘った大衆の蜂起と、三部会や国民議会を舞台に「代表者=選ばれた者」の諸党派が演じた政治過程と。いうまでもなく、革命の原動力は前者にある。バスティーユ蜂起がなければ、第三身分の代表者によるテニスコートの誓約も無に帰したろう。
 しかし、バリケードに血の最後の一滴までを捧げたプロレタリア貧民の闘争は、議会内の政治過程に回収され、ジャコバン派に主導されたフランス共和国が樹立される。2011年のエジプト革命にも見られたように、同じことは今日も繰り返されている。ムバラク政権を打倒したタハリール広場占拠とデモの主役だった青年たちを排除したところで、「代表者=選ばれた者」によって新体制が確立されていく。
 イスラム同胞団にデモの成果を簒奪された程度なら、まだ幸運なほうだといわなければならない。大衆蜂起の自己組織化であるソヴィエト運動を、ツアーリ国家打倒の「物理的打撃力」として利用し中央権力を奪取したレーニンの党は、同じ「物理的打撃力」がボリシェヴィキ権力に向けられることを恐怖し、そのために創設した公安権力でソヴィエトそれ自体を暴力的に押し潰したのだから。
 現場で闘う大衆自身の自律/自治/自己権力という評議会運動の思想は、こうした二重構造の打破をめざしてきた。パリ・コミューンアナルコ・サンディカリズムゼネスト構想、あるいはロシアのソヴィエト運動とドイツのレーテ運動など、19世紀と20世紀前半までの評議会運動は、圧倒的だが短い高揚と結果的な挫折に終始した。アレントが支持したハンガリーの評議会運動は、ソ連の戦車に挽き潰されたし、西側先進諸国で世界同時的だった〝68年〟の評議会運動もまた、日本の全共闘運動を含めて無に帰したように見える。
 五野井や小熊のような論者は、だからパリ・コミューン以来の評議会運動など無意味だったというのだろうが、しかし違う。代表制による民主主義国家は、原理的な不安定性を抱えこんでいるからだ。デモ/蜂起によって作られた体制でありながら、新たなデモ/蜂起によって体制が破壊されることは阻止しなければならない。デモを禁止することはできないから、公安権力によってデモを合法/違法に分断し、デモが蜂起という本来性に目覚めることを抑止しようとする。
 いかなるデモも蜂起である。どんなに小さなデモであろうとデモがデモである限り、そこには例外状態(カール・シュミット)のかけらが宿されている。たとえ合法的で平和的なデモとして開始されようと、デモ参加者の自由な行動は公安権力の阻止線を超えていくだろう。
 大衆蜂起の政治とは、自然発生的に芽吹いた大衆蜂起が順調に育つよう適度に水をやり、陽当たりを加減する農民の仕事に似ている。大衆蜂起には、状況と無関係に爆発しかねないアナーキーなエネルギーが宿っている。エネルギーが有限である以上、もっとも効果的な時間と場所を選んで爆発するのでなければ、蜂起は潜在的可能性を残したまま中断を余儀なくされるだろう。
 デモ/蜂起の自己組織化である自律/自治/自己権力の評議会運動は、必然的に国家として構成されなければならないのだろうか。ロシア革命の過程が示すように、国家にならなければデモ/蜂起は、外側からの圧力のため敗北するかもしれない。しかし国家になってしまえば、デモ/蜂起は内側から腐蝕され死滅する。ボリシェヴィズム国家のように露骨な形であろうと、西側の民主主義国家のように曖昧な形であろうと結果は同じだ。
 フランス語のピュブリックとコミューンは、どちらも「公共(の)」と訳される。この場合のコミューンは自治体の基礎単位に通じ、かならずしも革命的コミューンを意味しないにしても。
 フランス大革命では、流動する多様性の共存としてのコミューン的「共」は、憲法制定権力に一元化されパブリック的「公」に固定化されていく。共有地(コモンズ)は共有という所有形態が問題なのではない。誰でも立ち入ることができる、フリーな空間であるところに注目しなければならない。
 パブリック的「公」が大衆蜂起のコミューン的「共」を簒奪し、フランス共和国の樹立にいたる。しかし樹立された共和国(パブリックな国家)は、絶対主義の遺産である主権国家を最終的に完成したにすぎない。虚構的な主体でしかない国民に君主から主権が移ろうと移るまいと、いずれにしても国家主権とコミューン的「共」は原理的に対立せざるをえない。
 国民議会に設置された公安委員会、パブリックなセキュリティ権力はギロチン政治の温床になる。公安委員会の継承者であるボリシェヴィキの秘密警察は、ギロチン政治のテロリズム体制をも超える絶滅収容所帝国を築きあげた。ソ連崩壊後の公共性論が、ボリシェヴィズムの総体的テロリズムにたいする批判意識から生じたことは疑いない。しかし公共性論が公共性論である限り、主権国家とパブリックなセキュリティ権力の罠から逃れることは不可能だろう。
 パブリックなセキュリティ権力の基礎を築いたのは、フランス共和国に先行する絶対主義の主権国家だった。絶対主義国家が公共の安全、パブリックなセキュリティをさまざまに模索した点にかんしては、フーコー『生権力の誕生』などに詳しい。パブリックなセキュリティの実現をめざした絶対主義国家の、社会の管理術としてのポリツァイは、警察国家福祉国家の高度化を同時に追求するものだった。
 フランス大革命時の公安委員会は、絶対主義的な主権国家によるパブリックなセキュリティ権力のうち、警察国家の側面を肥大化させたにすぎない。パブリックなセキュリティ権力には福祉国家の側面があり、これは社会的共和制/社会的国家として語られてきた。ボリシェヴィズムの警察国家や収容所国家を否定しても、主権国家が必然的に随伴する公安権力から逃れることはできない。社会主義の崩壊以降に流行しはじめた公共性論の無自覚性が、ここにある。
 公共性論者の代表格と見なされてきたハーバーマスが、NATOコソボ空爆を支持したのも当然だろう。国家主権を超えてパブリックなセキュリティの範囲を実効化しようとすれば、NATOの「人道的介入」を擁護し、空爆を支持する立場にいたらざるをえない。
 デモ/蜂起が主権国家の樹立に帰結することなく、パブリックなセキュリティ権力を拒否して、自律/自治/自己権力のネットワークに自己組織化する現実形態を、いまだ人類は見出しえていない。しかし、めざさなければならない方向がここにあることは歴然としている。
 パリ・コミューンからアナルコ・サンディカリズムを経由し、ロシアやドイツやハンガリーの評議会運動にいたる、あるいは〝68年〟のスチューデント・パワーにいたる経験は、敗北したとはいえ貴重なのである。先行する経験を学び教訓化することで、われわれは前に進むことができる。でなければ五野井のように、あるいはもろもろの公共性論者のように、デモ/蜂起を議会政治の補完物や潤滑剤に押しこめる結果に終わる。
 ところで東浩紀は、フーコーの生権力論を参照して「国民国家の統治は膨大な量のデータ(無意識の可視化)がなければ立ち行かない。(略)しかし総記録社会の誕生は、そのデータの質と精度を決定的に変えてしまったように思われる。分析医が病者の無意識を丸裸にするように、情報技術はいま国民の無意識を丸裸にしつつある」(『一般意志2.0』講談社、2011年)という。
 しかし、精神分析は「病者の無意識を丸裸に」しうるのだろうか。もろもろの徴候をアナリストは、たんに「解釈」するにすぎない。あるいは、クライアントの自己解釈を手助けするに。アナリストとクライアントの協力で紡ぎあげられた解釈の真偽は、結果的にしかわからない。もしも症状が消えれば、それは正しかったと見なされる。
 あくまでも、見なしうるにすぎない点に注意しよう。服の下に裸があるように、意識の下に無意識が実体的に存在するわけではない。服を脱がせれば裸になるとしても、同じようにアナリストが「病者の無意識を丸裸に」することなどできるわけがない。そもそも精神分析の目的はクライアントの症状を緩和、できれば解消するところにある。クライアントの「無意識の真実」を究明するのが目的ではない。以上は精神分析の大前提である。
 ルソーの「一般意志1.0」に、総記録社会が膨大に蓄積したデータベースという「一般意志2.0」を、東は対置する。しかし一般意志1.0と一般意志2.0には共通するところがある。精神分析と同様に、その正否は事後的にしか明らかにならない点だ。
 ルソーの一般意志論は、歴史的には抵抗権や革命権を正当化する理論として活用されてきた。すでに存在する国家にたいし、それを認めない少数派が蜂起する。初発の時点で量的には少数派でしかない蜂起者は、蜂起の正当性をどのように主張しうるのか。たったいまは少数派でも、実は多数派、いや社会全体の普遍的意志を体現しているのだといわざるをえない。それは事後的に、かならず明らかになると。
 こうした少数派の主張を理論化すれば、一般意志になる。たとえ全体意志に反していても、われわれが一般意志を体現しているのだと語ることで、抵抗権や革命権は実効化されうる。本当にそうなのかどうかは、事後的にしかわからない。少数派の主張する一般意志が、事後的に社会の普遍的な意志だったとされる例は、むしろ少数だろう。オウム真理教が蜂起に際して掲げた正当性は、関係者の思いこみにすぎないことが事後的に明らかとなったように。アメリカ革命やフランス革命は、事後的に正当化されたといえるかもしれない。とはいえ、この革命は普遍的なものだと信じなければ、すでにある法を踏み破ることなどできない。フランス革命でルソーの一般意志論が支持されたのには、こうした背景がある。
 データベースに宿されているという、一般意志2.0の場合はどうだろう。たとえば社会学的な調査で集積されたデータは、それ自体で有意とはいえない。ある方向からの解釈を加えることで、はじめて有意な結論が導かれる。ネット上での発言や検索履歴、行動記録や購買記録などなど、膨大に集積された諸個人の言動をめぐるデータに集合的無意識が宿されているとしよう。としても個人的無意識と同じで、なんらかの解釈が加えられなければ意味は生じえない。「形態素解析やネットワーク分析などの手法を用いて」も、社会学者が使う重回帰分析と同じことで解釈は解釈にすぎないし、正否は事後的にしかわからない。たとえ正しかったと事後的に判断できても、数学的あるいは物理学的な「真」だと証明されたわけではない。精神分析療法が成功して、クライアントの症状が消えたという程度のことだ。
 ルソーの一言半句から、一般意志は数学的存在である、あるいはモノであると東は強調する。しかし、諸個人の言動をめぐるデータがいかに膨大に蓄積されようと、それを物体のように客観的に計測するわけにはいかない。データから意味を引きだすのは解釈者であり、どのような解釈であろうと数学的・物理学的な「真」には原理的に達しえない。一般意志2.0は1.0と、あるいは精神分析と同様に解釈の産物でしかないだろう。集合的無意識の欲望なるものもまた、ある特定の観点から解釈されることで導かれる。仮に、モノのように実在するとしても、われわれは集合的無意識それ自体には触れることができない。
 一般意志2.0を前提として、東が提起する「政府2.0」のほうはどうだろう。「政府1.0は一般意志の代行機関だった。しかし政府2.0は、意識と無意識、熟議とデータベース、複数の『小さな公共』と可視化した一般意志が衝突し、抗争する場として抗争される」。

それは、あえて社会思想の言葉で(略)整理するならば、未来の社会が、大衆の利己的な欲望が市場を介して自動的に調整される「動物的」でリバタリアン的な社会でもなければ(「アナーキズム」)、大衆の即時的な欲望が熟議によって弁証法的に国家理性へと昇華されるような人間的でリベラルな社会でもなく(それがヘーゲルからハーバーマスまでの哲学者たちの夢想だった)、むしろ、市民ひとりひとりのなかの動物的な部分と人間的な部分が、ネットワークを介して集積され、あちこちでじかにぶつかりあうようなダイナミックな社会になることを意味している。そこでは「政治」とは、その衝突する場すべての謂いとなるだろう。

 間接民主主義に直接民主主義を対置するような発想と、東は無縁のように見える。デモのような形をとる直接民主主義より、もっと直接的な大衆の「行動」から民主主義を再構成しようというのが、東の基本的な発想のようだ。デモより直接的な「行動」とは、ようするに大衆の動物的行動であり、その無数の痕跡は膨大にデータベース化されている。東は「ポピュリズムでも選良主義でもない、ワイドショーでも密談でもない、その両者が組み合わされた新たな政治的コミュニケーション」を展望する。
 とはいえ一般意志2.0論は、院内(熟議)と院外(データベース)を分割し、両者のダイナミックな「衝突」に新たな政治を展望する点で、論理構成としては丸山眞男を引用した五野井郁夫の見解と基本的に変わらない。
 院内と院外を一般化していえば、国家と市民社会の二重化ということになる。大衆的なデモ/蜂起が「代表者=選ばれた者」による諸党派の議会内抗争に還元され、旧体制に代わる主権国家の樹立に集約されたフランス革命は、未完の革命だった。フランス革命の挫折を批判したアレントが、別の可能性を見ようとしたアメリカ革命にしても。
 市民革命は絶対主義国家の主権に挑戦しながら、その主権を引き継いだ共和国、パブリックな主権国家の樹立に終わる。結果として生じたのは、国家と市民社会が二重化する体制だ。『一般意志2.0』を構想したのは、2010年代に入って歴然としてきた「民主主義の危機」だったと、序文では語られている。「民主主義の危機」の最深の根拠は国家と市民社会の分裂にある。院外をデモからデータベースに置き換えても同じことで、この分裂を「政府2.0」構想は原理的に解消しえない。
 もろもろの評議会運動は、国家と市民社会の抑圧的な二重化を克服するための試行錯誤だった。あらゆるデモ/蜂起には、革命を主権の樹立で終わらせない意志が宿されている。院内と院外の対立に象徴される国家と市民社会の分裂を、最終的に克服するまでデモ/蜂起は永続するだろう。本年六月からの、国会や首相官邸前の脱原発デモであろうとも。

「デモ」とは何か 変貌する直接民主主義 (NHKブックス)

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社会を変えるには (講談社現代新書)

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例外社会

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一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

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