「制服切り刻まれて、心を刻まれるより、自分が切り刻まれるほうがマシだ!」
この台詞は主人公黒衣マトの友人、神足ユウが最終回で叫んだものだ。そして、この台詞はTVアニメシリーズ『ブラック★ロックシューター』で描かれていること、即ち、現代の若者、特に学生が抱える生きにくさ、人間関係の閉塞感や息苦しさを凝縮したものでもある。
『ブラック★ロックシューター』には二つ世界が存在する。一つは、黒衣マトが過ごしている現実の世界。ここでは、中学校を舞台に、友人の小鳥遊ヨミや神足ユウらと主人公の日常が描かれている。もう一つは、ブラック★ロックシューターやデッドマスターが絶えず争っている、謎めいた異世界。この世界について、第七話において、黒衣マトの友人である神足ユウ、その思念体であるストレングスが、「現実を生きる少女たちの苦しみや悩みが、この世界を、そして私たちを生みだした」と説明している。
実際、『ブラック★ロックシューター』では、現実世界で生きる少女たちの様々な苦しみが描かれている。とりわけ、小鳥遊ヨミのそれは、非常に現代的である。
小鳥遊ヨミは四話において、幼馴染で「私を必要としてくれている」とまで思っている出灰カガリがクラスに馴染んでいくことについて「友達ができたら私なんて」と自棄になり、更に、神足ユウが送ったメールのなかにある、「マトの友達です」という一文に対して、小鳥遊ヨミは激しく動揺する。
社会学者の土井隆義は「最近の若者たちは、互いに「優しい関係」のマネージメントに神経をすり減らし、その関係に少しでも傷がつくと、途端に大変なパニックに陥ってしまいやすい」と述べ「相手との間に生じた軋轢は、たとえそれがささいなものであったとしても、あたかも自分という存在が全否定されたかのように受け取られやすい」と主張する。*1
「マトの友達」と名乗ったことに対し、激しく取り乱す小鳥遊ヨミの姿は、「マトの友達」と名乗った神足ユウによって、黒衣マトとの関係に傷がついたと感じ「自分という存在が全否定」されることに対する危機感を体現している。
また、土井は「優しい関係」を「それぞれの立場に相克があったとしても、むしろ逆にそれを顕在化させないように営まれる繊細な人間関係」と定義しているが、作中においても、神足ユウから「マトの友人」と名乗ったメールが届いた翌日の小鳥遊ヨミは、神足ユウ、黒衣マトの前では「相克を顕在させない」ため、平静を装っている。しかし、そのために、小鳥遊ヨミの振る舞いは「優しい関係」に軋轢が生じたと感じたことによる、存在の全否定に対する危機感を証明している。そのような危機感は、最終回において、神足ユウが「心を刻まれる」よりも「自分が切り刻まれた方がマシ」という主張と合致する。
『ブラック★ロックシューター』には本論で取り上げているアニメ版とは別にOVA版が存在する。そこでは、TVアニメ版と同様、二つの世界を行き来しながら、話が進んでいる。あらすじとしては、進級により小鳥遊ヨミとクラスが離れてしまった黒衣マトは同じバスケ部であり、マネージャーのユウと仲を深める。しかし、それによって疎外感を覚えた小鳥遊ヨミは失踪してしまう、というものだ。しかし、アニメ版にある現代的な『やさしい関係』についてはOVA版では読みとることができない。小鳥遊ユウは、パニックも起こさず、あっさりと失踪してしまうのだ。
また、アニメ版に描き出されている少女たちを取り巻く空気、人間関係に対する息苦しさという観点からすれば、『ブラック★ロックシューター』は『らき☆すた』や『けいおん!』に代表される〈空気系〉に対し批判的な作品と考えられる。だらだらと続く日常や、変化の乏しい人間関係は〈空気系〉とよばれる作品の特徴だが、それらは、人間関係に対する息苦しさや閉塞感を、隠蔽しているものでもある。そのため『ブラック★ロックシューター』の過激な台詞や、戦闘描写は、〈空気系〉作品が隠蔽し続けてきたものを暴いたといえる。
勿論、〈空気系〉作品による閉塞感、息苦しさの隠蔽は、意識的な部分もあると思われるが、だからこそ、現代の若者が抱いている閉塞感や息苦しさを容赦なく描き切ったことこそが、『ブラック★ロックシューター』の最大の魅力である。
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