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バナナ学園純情乙女組『翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)』クロスレビュー【評者:海老原豊】

バナナ学園純情乙女組『翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)』
王子小劇場
構成・演出 二階堂瞳子


評者:海老原豊(2012年5月25日観劇)


 問題作にすらなれなかった失敗作。

 ここでは失敗の原因を考えてみたい。大まかに二つの理由がある。一つは、「バナナ学園」という劇団が何を志向しているのか、方向性が曖昧だったこと。もう一つは、演劇が大切にし続けてきた舞台/客席の境界を、あまりにも安易に考えたこと。順に見ていこう。

 まず一つ目の「バナナ学園」の方向性について。数年前、今回と同じ劇場である王子小劇場で公演をやったときには、いちおう芝居がメインだった。劇団「柿喰う客」の脚本家、中屋敷法仁が戯曲を提供し、それをやっていた。内容は、「柿喰う客」風味の超・現代口語的なセリフに満ちた学園モノ。で、毎回というわけではないが終演後に「おはぎライブ」と題されたアニソンやらJPOPやらを大音量で流し、オタ芸のような振り付けで歌い・踊るパフォーマンスをやっていた。ところが、脚本が公演までに仕上がらず、中屋敷の「遺影」を掲げ、「ここまでしか芝居はできていません」と宣言することさえし、だんだんと中心は「おはぎライブ」へと移っていった。昨年度のF/T2011でもやったのは「おはぎライブ」だったようだ(私は未見)。
 今回は、タイトルに「シェイクスピア」とあるように、演劇への回帰を明確に打ち出したもの。おりしも、昨年から「柿喰う客」が〈女体シェイクスピア〉と銘打ってオール・女性キャストによるシェイクスピア劇を上演。それが念頭にあったのかどうかまではわからないが、「バナナ学園」もまた演劇、それも古典を参照することを通じ、劇団の売りであるオタク・サブカル色に何らかのひねりを加えたかったのだろう。シェイクスピアを参照することが間違いだった、といいたいのではない。「バナナ学園」に「まっとうな」シェイクスピア劇を期待していたわけではない。それこそ無理な要求だ。「バナナ学園」のやるシェイクスピアであればよし。シェイクスピアから要素を記号的に抽出し、得意とするリミックス手法で、オタク・サブカルコンテンツとの融合を図る、なんてものだろうとぼんやりと想像していた。シェイクスピア劇は、それぞれの要素(個人の恋愛と家の対立、三人の魔女、いたずら妖精…など)は有名であるにも関らず、ちゃんとやろうとすると現代日本では非常に骨が折れる。舞台上で簡潔に内容を理解するための文脈を補うために、演出家は並々ならぬ努力をする必要がある。だからいっそ記号的に解釈したほうがよい(少なくとも、「手に負える」)。

 ところが、ふたを開けてみれば、出てきたものはそのような記号的処理すらうまくこなせていないものだった。シェイクスピアである必要性すらも全く感じられない。役者がやってきてはマイクの前で大声・早口でまくし立てる。当然、マイクは言葉を言葉として伝えることなどできず、ただの騒音。観客には、それが言葉として共有されず、「何かやっているんだろうけれど、何をやっているのかわからない」というストレスを与えるのみ。これはもう戯曲をどう解釈するかとかそういう話ではない。舞台上のパフォーマンスをきちんと観客にまで届ける、という当たり前の演出が完全に欠如している状態。

 もっと記号的に! もっとリミックスを! いっそ役者からマイクは剥奪し、初音ミクやアニソン、AKBを大音量でBGMとして流し、オタ芸を全力でやりつつ、記号的に抽出したシェイクスピアをちりばめればよかったのではないか。つまりは芝居へ回帰するのではなく、「おはぎライブ」の徹底化だ。このような演劇回帰志向と「おはぎライブ」の間で立ち往生したというのが、失敗の原因の一つ。

 失敗原因のもう一つは舞台/客席の境界をないがしろにしたことにある。「ないがしろ」というのは、舞台/客席の境界を「揺るがす」こととは全く別物である。優れた演劇には、私たちが前提としている舞台/客席の境界を揺るがし、観客に一つの体験を与える力が宿る(この力が必要条件というわけではないが)。しかしそれは、安易な「客席いじり」によってなされるものではない。舞台は、たいてい物理的に客席から隔てられ、別のものとして設定されている。それでは舞台の上から役者が降りて観客に何か働きかけたり、あるいは反対に観客を舞台の上に乗せたりすれば、その境界線は揺らぐのだろうか。一見すると、揺らいでいるように思える。しかし、現実には舞台/客席の間にあるものは物理的な境界のみならず、心理的な境界線も存在している。芝居によっては客席とほとんど地続きの舞台で演劇がおこなわれることもある。このように物理的な境界を取っ払ってしまっても、それでも舞台が成立するのは、役者と観客の間で目には見えない境界線が共有されているからだ。

 演劇は、観客に強いる芸術形式だ。特に小劇場演劇だが、狭く暗い客席にぎちぎちに押し込められ、観劇中は私語・飲食・携帯電話・トイレは禁止、どんなにつまらなくても途中退室は(物理的に)できない。もっとも頑張ればできる、が、あまり、みたことない。私は、2時間の芝居ですら長いと感じることも多い。せめて90分。このような状況で観客が芝居に没入できるのは、このくらいの時間が限度ではないか。というのも「強制」は物理的なものだけではないのだ。演劇は観客に心理的にも負荷をかけている。観客は舞台上でおこなわれる役者の演技からその芝居を作っている「約束事」を構築していく。役者が投げたボールを観客は拾っていくのだが、役者はボールを投げていると自覚的に表現することは、少ない。それは不自然だからだ。だから観客は、何がおこなわれているのか集中し、一つ一つ約束事=演劇世界を構築していく。観客の協力なくしては、演劇世界は成立しない。物理的に観客に強いるだけではなく心理的にも強いている。

 ただ、この「強いる」ことは演劇が終わるとともにカタルシスへと昇華される。いや、演劇の良し悪しとは、上演中に舞台が観客に「強いた」ものが最後に昇華されるか否かにかかっているとさえいえる。演劇が物理的にも心理的にも観客にストレスを与えすぎると、観客はそれ以上その芝居から意味を見出す作業をしなくなり、目の前で展開されるマイムが単に空虚なものとなってしまう。このストレスのさじ加減が演出家の技量の一つだろう。

 本作は、パフォーマンスの見せ方によって最初の失敗を犯し、舞台から心理的に遠ざかっていく(つまりは「引いた」)観客を、何がなんでも舞台へ取り戻そうと、物理的に舞台/客席の境界を破壊しにいった。これが二つ目の失敗。水やワカメを投げつけ、客席をよじ登り、または舞台上に観客を引き上げる。確かに物理的に境界線は破壊されたかもしれない。だが、このような無茶な客席いじりを強行すればするほど、舞台と客席の心理的距離は増え、結果として当初の狙いとは裏腹に、境界線を強固にしてしまう。客席いじりが手法として間違っているというのではない。時には有効に作用することもあるだろう。だが、そこには演出的配慮、すなわち観客のストレス・コントロールが不可欠だ。

 舞台で役者が踊る。役者は「楽しい」かもしれない。だが、それを見ている観客が「楽しい」かどうかは、別の話だ。ひょっとすると、小劇場演劇は「やる人」=「見る人」という業界の構造的鏡像性に依存して、舞台の「楽しさ」を客席の「楽しさ」へと転移させているのかもしれない。演技を通じて自分ではないものになれる可能性を楽しむものであるはずの演劇が、自分とそっくりなものたちだけの慰みものになっているのかもしれない。

 と、いろいろと苦言を呈してきたが、バナナ学園にはこれで終わってほしくない。結局、本作は「問題」を起こし劇団も謝罪という行動をとったようだが、やってしまったことはきちんと清算し、その上でモノを作ってまた挑戦してもらいたい。この次の作品が、正念場。

海老原豊(えびはらゆたか)
1982年東京生まれ。第2回日本SF評論賞優秀作を「グレッグ・イーガンとスパイラルダンスを」で受賞(「S-Fマガジン」2007年6月号掲載)。「週刊読書人」「S-Fマガジン」に書評、「ユリイカ」に評論を寄稿。