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暴力はコミュニケーションの中に――『アウトレイジ ビヨンド』と『危険なメソッド』

藤田直哉

※『アウトレイジ ビヨンド』と『危険なメソッド』の内容と結末に触れています。


 暴力を“観せる”のが得意な、北野武と、デヴィッド・クローネンバーグという二人の監督がいる。彼らの最新作『アウトレイジ ビヨンド』と『危険なメソッド』は、偶然なのか偶然でないのか分からない奇妙な同期を見せている。それは、「暴力」そのものを映像で観せることよりも、「言葉」にこそ重点を置いたという点においてである。
まずは北野武アウトレイジ ビヨンド』から見ていくことにする。
海に落ちた黒い車が引き上げられ、中に溜まった水が落ちていく印象的なシーンで始まる今作は、意図的に『ソナチネ』へのオマージュを行い、比較参照させるようなフックをあちこちにしている。「利害」の関係で人が人をハメ、騙し、「遊び」や「友情」が破壊されること自体に嫌気が指す、といういテーマを「ヤクザ」に託して描くというテーマ自体は同一だが、その内容は対照的である。『ソナチネ』にあった映像的な「美」や、それと対応するかのような、特攻隊のような「美」という出口すら塞がれているのが、『アウトレイジ ビヨンド』である。であるから、作品はより陰惨で救いがなく、そっけない。それであるがゆえに、不在の「美」を希求してしまうような否定神学的な仕掛けすら、ない。
作品は、北野映画の芸術性を決定付けた「止め絵」がほとんどなく、『座頭市』で実験していた、ふわふわ動くカメラワークが多用されていた。そしてそれが、作品内容そのものと相互作用を起こし、見事な効果を生み出していた。抗争そのもの、暴力そのものは淡白、というか、「結果だけ」という感じでしか描かれない。だが、本作は、その前の、駆け引き(コミュニケーション)や策謀、怒鳴りあいなどを非常に丹念に描く。まるで、そこでの「植え付け」の時点で全ての結果が出ているかのようである。そこではふわふわと動くカメラが、流動的な状況を見事に体感させた。
 以前、『アウトレイジ』について「9・11系ハリウッド映画群の謀略」(『サブカルチャー戦争』所収)という文章で、暴力の描き方がビジネス的に冷たくなっているということを論じたことがあるが、『アウトレイジ ビヨンド』における「暴力」は、『サブカルチャー戦争』という共著を書くに当たって共著者同士で設定したテーマ「戦争の日常化」という内容と相即していた。
 現在の戦争は、爆撃や戦車や機関銃によって“のみ“行われるのではなく、イメージ操作やプロパガンダなどによって、巧妙に、巧みに行われる。その結果、メディアは戦場になり、コミュニケーションは戦争と化した……。海老原豊は「空気の戦場」という論考で、現在における携帯電話などのコミュニケーションと「空気」とが似かよったものとなり、それは時には「コミュニケーション操作系のいじめ」を生むほどの暴力になるとして、その解決法を小説作品の中に模索したが、本作はその過激化と呼んでも良い内容になっている。
本作は明白に「コミュニケーションの暴力」を描いていた。威圧、謀略、空気、などなどで、人を操作する言葉の巧みさで魅せる映画だった。だから、実際の戦闘が起きる後半よりも、前半の方が良い。本作は、悪役が、疑心暗鬼や人望の喪失によって敗北させられるという、北野映画では初めてのパターンが採用されている。「空気」や「コミュニケーション」の次元で戦争が行われており、その人心操作のエグさこそが本作の最大の見所である。
 『アウトレイジ』は、コントロールと謀略でハメられてみんな死ぬという映画であり、『アウトレイジ ビヨンド』コントロールと謀略を仕掛けて勝った人間が反撃されてみんな死ぬという映画であった。
 であるから、「けじめ」とか、「若者の死」とか、その人間が熱くなったり、重きを置いている価値を見抜いて、うまくそこをくすぐるような言葉でたきつけてコントロールする、マル暴である片岡の存在感が、一番強い映画だった。実質、彼が主役であり、最大の悪役であった。彼は人間をただのコマのように使って抗争させ、遊ぶことに単純に快楽を感じているようにも見えるし、「出世」のためにやっているようにも見えるし、世界からヤクザが一人でも減ることが平和に繋がるという信念で手を汚しているようにも見える。意図が分からないが故にぬるぬるした二重三重にわけのわからない無気味な存在であり、ある意味で単純で分かりやすい利害や信念に生きているヤクザたちとは対照的であった。
 
 さて、『ヴィデオドローム』や『ザ・フライ』など、ショッキングでグロテスクな映像で有名なデヴィッド・クローネンバーグ監督であるが、近作はむしろ、「グロさ」を直接見せずに、人間や社会のグロさを、一見平静な画面の裏側に張りめぐらせる作品を多く発表していた。『ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス』や『イースタン・プロミス』はそのような映画だった。
 新作『危険なメソッド』は、監督自ら、ヴィジュアルが優先になりすぎた時代における「言葉」にこだわった映画であると述べているが、驚くほど徹底して「画面」と「言葉」の関係に拘った映画であった。
 アヴァンタイトルは、白い紙の上に、黒い「文字」が現れる。画面は徹底して、白と黒を基調にしており、背広、シャツ、精神病院の壁どころか、町まで「白と黒」で構成する徹底っぷりである(クレジットから確認できる範囲の情報で推測するだけでも、ある程度まではセットで、ある程度まではCG加工であると思われる。よって、かなり意図的に作りこんでいるのだ)
 画面は、あまり動かない。20世紀のスイス、ウィーンなどを舞台にした、落ち着いて美しい画面構成には、息を呑む。
 だが、そこで展開される出来事は、陰惨ですらある。
 ユングのところに転がり込んだ女性患者・ザビーナ。ユングは彼女を治療する過程で性的トラウマを発見し、そして「転移‐逆転移」関係に陥ってしまう。「転移」とは、精神分析治療において、ある対象に向けられるはずの感情が、別の対象に移ってしまうことである。治療者と患者の間にこれは起こりやすい。
 そしてサビーナはユングを誘惑し、不倫関係に誘う。そのために、神話のジークフリード物語(反発する二つの力が神秘的に融合する)などを持ち出したりする。
 この過程において重要なのは、オットー・グロスの存在である。フロイトの弟子であり、ユングが治療を担当することになったこの「医者」は、性的抑圧を開放するべきだと言う論者であり、患者と寝ることも厭わない。オットーとの議論で、ユングは少しずつ信念や倫理を揺らされていく。
 そして「患者と性的な行為を持つ」という「危険な治療法」は、着実に危険な方向に進む。サビーナが匿名の手紙をあちこちに出したり、それがユングの妻の耳に入ったり、フロイトの耳に入ったりする。その結果、ユングフロイトの仲は決裂していく。一般的には「性一辺倒」であったり「抑圧的」なフロイトユングが反発したことになっている(実際に往復書簡を読むとそうなっている)が、そこにはザビーナを巡る恋愛感情交じりの反発心もあったのだと本作は描く。
 フロイトユングは、多くの往復書簡を送り、互いに転移し、そして訣別する。名シーンは、フロイトが「モーセ一神教」を発表した場面であろう。起源の父を子供たちが殺害し、忘却するというフロイトの理論は、まさに「精神分析」の創始者である父=フロイトを殺し、忘却しようとしているものとフロイトは重ねている。それをユングは理解し、理論への議論のように見せかけて、二人の感情をぶつけあう。
 驚くべきは、それを暗黙に仕掛けているのがサビーナであるということであろう。彼女は、ユングの治療と応援により大学を卒業し、医者になり、そしてフロイトの本の出版に際してフロイトの助力を得る。
 ユングは、スイスの湖畔で、世界の終わりを幻視するようになり、重度の神経症にかかるが、サビーナは精神科医として、後に児童心理学の分野を発展させていくことになる……危険な治療は、成功だったのか、失敗だったのか。そのときだけでは分からない。そして多くの転移・逆転移の複雑なネットワークの中で、様々な人々が様々に翻弄される。
 さらに言えば、本作は、後のユングの思想に、ザビーナが示唆を与えているシーンもあることが見逃せない。ユングは後に成功したと描かれている。ザビーナも一応成功はした。だが、映画の終わりは、悲惨な悲劇のような終わりである。
 その「危険な治療法」、暴力なのか贈与なのかの判別も不可能で、真相も真理も分からない世界を描くことで、クローネンバーグは、「狂気」を観察する立場から、「観察するものの狂気」を描くことになる。その結果、自らが単なる観察者でいることも許されなくなる。これは『戦慄の絆』で女性の肉体を観察する「医者」そのものを描いたことと対比し、「精神」を観察する「医者」そのものを観察した作品だと言っていいだろう。
 ここで、ホラー映画を作るにあたって精神分析的な枠組みを採用していたクローネンバーグも、精神分析理論を使っていようといまいと「解釈」をしてしまう「観客」もまた安全な観察者ではいられなくなる。一体誰が病気で、誰が誰を治療し、誰が被害者で加害者で、何が善で悪なのか、この網の目を見せ付けられた観客は、もはやそれが思っているほど単純ではないことを思い知ってしまうだろう。
 善意が時に暴力になり、コミュニケーションの中に悪意が含まれ、転移を相互に利用しあって複雑に動き、そして悪意的な暴力こそが悦楽(=マゾヒズム)を生み出し、治療に成功するどころか一人の医者と学問分野(の支流)を生み出しすらするかもしれないこの世界において、人は自分には理解できない力に振り回されている「悲劇」の役者なのかもしれない。
 しかし、それでもコミュニケーションをやめることはできない。それが暴力かもしれなくても、やめることはできない。コミュニケーションが暴力なのであれば、暴力がコミュニケーションになる場合もある。そしてコミュニケーションこそが救える何かがあるのかもしれない。だが、コミュニケーションこそが人びとを窒息させ、押しつぶすものかもしれない。
 ラストシーンのユングは、愛人にも、妻にも、子供にも背を向け、一人湖を眺めている。コミュニケーションの末に起こった悲劇に苦悩する彼は「コミュニケーション」を一度遮断する。だが、それは後に彼が見出す「集合的無意識」という神話的概念とのコミュニケーションの始まりを意味していたのかもしれない。
 そこに救いがあるかといえば、ない。
 だが、本作を見た後には、一抹の清々しさがある。それは単純に「彼らは生きた」という事実そのものである。
苦悩して、色々して、裏目に出たりしながら、とにかく生きた。その軌跡が文字や書簡として残っているからこそ、こうしてその内奥のドラマが再現できるのだ。
 観客がそのリレーを引き継ぐかどうか。それは、ひとえに、この映画と観客がどのような「対話」を行うかに賭かっている。

 コミュニケーションが暴力になるとしたら、逆に暴力こそがコミュニケーションになり、当人たちも予測がつかない「治療」なり「教育」なりの効果を起こすこともあるのかもしれない。そのような、どちらの可能性もありうる世界の中で、「つながり」のより良いあり方を模索しなければならないということを、この二作は対比的な形で示唆しているようだ。

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