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SFと怪獣の深い関係?――山本弘『MM9』【評者:中里昌平】

SFと怪獣の深い関係?――山本弘『MM9』

  • 絶滅の危機?

いきなりで恐縮だが、みなさんはさきごろ公開された映画『パシフィック・リム』はご覧になっただろうか?


パンズ・ラビリンス』や『ヘルボーイ』シリーズなどで知られる映画監督ギレルモ・デル・トロがメガホンを取ったSF怪獣映画である本作は、『ノルウェイの森』の菊池凜子とあの芦田愛菜ちゃんがハリウッドの俳優陣とともに出演していることや、その映画の内容も大いに手伝って、いささか話題になったことは記憶にあたらしい。


あらすじはこうだ。舞台は近未来。太平洋沖に巨大怪獣が突如として出現し、世界各地の主要都市に甚大な被害をもたらしたことで存亡の危機を迎えるが、人類はパイロットとの神経接続によって動く二人乗りの巨大ロボット「イェーガー」を開発し、反抗に打って出る。それによって一時は形勢を逆転したものの、長きにわたる戦いに疲弊した人類と、怪獣たちがその勢いを徐々に取りもどし始めるなか、かつて怪獣との戦闘中に最愛の兄を喪った元パイロットの男がふたたびイェーガーに乗ることになり……。


劇中において怪獣はなんと「Kaiju」と呼ばれ(!)、さらには怪獣ごとに「ライジュウ」「オオタチ」といった名前まで付けられているのだが、それもそのはず、監督のデル・トロは大のアニメ好き・特撮好きで有名であり、そのことをあらゆる機会において大っぴらに公言しているのだ。彼のインタビューを読んでみれば、「鉄人28号」や「機動警察パトレイバー」、さらには「マグマ大使」なんていう名前まで出てくる始末だ。


ところで、みなさんは「怪獣」といえば、どんなイメージをお持ちだろうか?

ゴジラモスラ、あるいはガメラ、はたまたバルタン星人といったウルトラ怪獣まで、わが国は数々の特撮作品を通じて、たぐいまれなるビジュアル・デザインを有した怪獣たちを優に数百体も生み出してきた。ハリウッドにて制作された『キングコング』や『GODZILLA』を見ても分かるように、それらはもともと存在する動物を巨大化させた印象が否めないなか、日本の特撮作品に出てくる怪獣たちはみな、たとえインスピレーションの源泉として動植物に材を求めることはありこそすれ、じつに豊かで魅力的な造形性を有している。


ところが、そんな怪獣たちがいま、いささか大げさに言えば、絶滅の危機に瀕している。それというのも、たとえば怪獣映画の代名詞である「ゴジラ」シリーズは、『ゴジラ FINAL WARS』(2004)を最後にあらたに続編は作られておらず、ここ数年で国産怪獣映画の制作本数は極端に激減したばかりか、ほとんど皆無といっていいだろう。


他方で海外に目を向けてみれば、J・J・エイブラムスが製作を務め、その新奇な手法が注目されたヒット作『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008)や、またはハリウッド以外でも、たとえばノルウェー発の『トロール・ハンター』(2010)といった作品も一風変わった怪獣映画に数えあげることができるはずだが、いずれにせよ、このように海外ではCG技術などを駆使した質のよい怪獣映画が量産されてきていることで、かつてより国内の怪獣映画が勢いを失い始めている印象がやはり否めない。


そのような状況下で庵野秀明により制作され、樋口真嗣が監督した『巨神兵東京に現わる』も、みなさんの記憶にあたらしいことと思われる(『ヱヴァンゲリオン新劇場版:Q』と併映されていたアレだ)。CG特撮が世界的に全盛の時代において、いわばロストテクノロジーと化しつつあるミニチュア特撮をフルに活用した本作は、むかし懐かしいミニチュア特撮へのオマージュでありながら、なおかつレクイエムでもあるという、じつは物悲しい作品でもあったのだ。


そんな状況下で公開された『パシフィック・リム』であるからこそ、新旧の特撮ファンたちが、文字通り、本作の「襲来」を心待ちにしていたのは言うまでもない。


とはいえ、いま絶滅の危機に瀕しているとされる国産怪獣特撮だが、しかしそんななかで孤軍奮闘している作家と作品がなんと存在する。それこそが山本弘の『MM9』だ。

  • 怪獣特撮としての『MM9』

MM9

MM9

MM9-destruction-

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MM9―invasion―

MM9―invasion―

トワイライト・テールズ

トワイライト・テールズ

『神は沈黙せず』『アイの物語』などで知られる山本弘のいまや代表作にもなりつつある『MM9』シリーズは、現在のところ第三巻まで刊行され、さらには世界観を同じくした番外編『トワイライト・テールズ』も出ているほか、なんと過去にはドラマ化までされている。しかし何より画期的であるのは、本作があくまでも小説として書かれているという点であろう。


たとえばド派手な爆発や戦闘シーンなどは、特撮作品における重要な構成要素のひとつによく数えられるが、それらはあくまでも視覚的ないし聴覚的に知覚され効果を得ることを前提に発達してきたジャンル表現であるために、そもそも文章表現とは根本的に食い合わせが悪いと言える。


もちろん、それでもなお小説というかたちで特撮ジャンルに果敢に取り組んだり(たとえば最近では、有川浩の『空の中』や『海の底』など)、はたまたノベライゼーションというかたちで存在してきたにせよ、文庫版『MM9』の解説を執筆している山岸真も言っているように、それらは特撮小説ないし怪獣小説である以前に、ほかのジャンルを基盤にして書かれたものであると言って差し支えない。


その意味で本作は、先行作品の要素を大いに盛り込みながらもオリジナリティを存分に発揮しつつ、なおかつ高度な完成度を有するに至った稀有な作品だ。たんに怪獣が登場するなどという事実を越えて、『MM9』はまぎれもない怪獣小説、あるいは純然たる特撮作品と言うほかない。


ストーリーを簡単に説明しよう。舞台は日本。ところが、怪獣が頻繁に出現し、そのためいわば一種の災害として理解されているパラレルな世界において(本作の題名にもある「MM」とは、「モンスター・マグニチュード」の略)、政府は怪獣の出現をさまざまな現象から事前に察知し、その被害を未然に防ぐか、または被害を最小限に食い止めるための政府機関を気象庁に設置した。その名も気象庁特異生物対策部、通称「気特対」。この気特対の面々の活躍を描くのが第一巻であり、続く第二巻と第三巻では、平凡な高校生の少年と怪獣サイズに巨大化する美少女(!)との邂逅から始まる物語を描いている。


余談だが、怪獣映画には「東京タワー」がしばしば登場してきた。怪獣の巨大なスケールを視覚的かつ端的に示すのに都合のよい建築物であることから、数々の作品にミニチュアで登場してきた東京タワーは、もはや国産怪獣映画の定型表現のひとつと言ってもいいだろう。


やはり代表的なのは『モスラ』における幼虫から成虫に羽化するために巨大な繭を東京タワーに作るシーンであろうが、それはともかく、じつは『MM9』にも、東京タワーではないにせよ、それに類する現代を代表する建築物が登場する(全長において東京タワーを抜いたアレだ)。これから読まれる方の楽しみを奪わないためにも詳述は避けるが、この建築物の登場が手に汗握る物語展開に大きく貢献していることからも、本作が怪獣特撮の伝統にしっかり連なっていることを読者に印象づける。


ただ、ここまでの内容であれば、たんなるよくできた怪獣小説という印象しか覚えない方が多いかもしれない。しかし他方で本作は、ハードSF的な設定を導入することで、作品世界をより豊かにしている事実をここで急いで強調しておかねばなるまい。


本作のなかで貴重な役割を果たしているSF的設定に「人間原理」というものがある。あの「涼宮ハルヒの憂鬱」のなかでも言及されているこの人間原理は、たとえばグレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』やスティーヴン・バクスター『時間的無限大』、そしてグレッグ・イーガンの『宇宙消失』『万物理論』でも用いられた設定であることは、SFファンの方々にとっては有名であろう。


そんな方々にとってはいまさらだろうが、賛否両論あるものの、この広大かつ深淵な宇宙についての思索を誘わずには於かない人間原理を、ここであらためて説明させてほしい。なぜなら、あらゆる怪獣特撮の重要なテーマのひとつでもある「なぜ怪獣たちは襲ってくるのか?」という疑問にたいして、本作は、人間原理を用いてじつに魅力的な回答を示しているからだ。

二十世紀のなかばに宇宙論の分野で提唱されはじめた人間原理は、およそ次のような主張を引っさげて登場した。

「宇宙がなぜこのような宇宙であるのかを理解するためには、われわれ人間が現に存在しているという事実を考慮に入れなければならない」


人間原理は、「この宇宙はなぜこの宇宙なのか」という物理学者たちの積年の疑問への回答のひとつでもある(有効かどうかはともかく)。以下、『フェルマーの最終定理』などで有名なサイモン・シンの一連の著作や、最近ではマンジット・クマール『量子革命』を翻訳された青木薫さんによる初の著書『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』を参考にしてごく簡単に見ていきたい。


あたりまえだが、私たち人間が今こうやって生きているためには、私たちにとって数多くの特別に好都合な条件(温度、化学的環境など)に恵まれなければならない。私たち人間は高温すぎる水星でも、もしくは低温すぎる火星でも生きてはいけず、したがって地球環境は私たち人間にとって、じつに「数多くの特別に好都合な条件」に恵まれていることになる。


もちろん、私たちはたまたま存在できるところに存在した、というだけのことかもしれない。しかし、そう考えないのが物理学者であり、彼らにとってはこれらの事実は、「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」という深い問いに直結しているからこそ、重要性を持ちうるのだ。


さて、「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」という疑問を、もうすこしそれっぽく言い換えるとこうなる。

「この宇宙の物理定数は、なぜこの物理定数なのか」
「あれこれの物理定数は、なぜ今のような値になっているのだろうか」

ここで言われている「物理定数」とは、簡単に言えば、だれが測定・観測しても同じ値を示す物理量、たとえば基本粒子の電荷や質量の値などのことを指す。ここでは例として、私たちもよく知る「重力」について考えてみよう。


じつは重力は、電磁力などと比較した場合、非常に弱い力なのだが、宇宙においては正負の電荷が結合して中性になってしまう電磁力とは異なって、重力は、質量がつねに正の値であるために、まさに宇宙を支配する力になりえる。それゆえに、もし重力が今よりも強かったとしたら、太陽をはじめとする恒星は押し潰されて小さくなっていただろうし、また、天体中心部の核融合反応が急速に進んだ結果、速やかに燃え尽きてしまう。これが地球やその他の惑星だった場合、そのサイズは縮小し、表面での重力が強くなることで、たとえば人間は自重で潰れてしまう。


その反対に、もしも重力が今より弱かったとすれば、天体のサイズは大きくなり、ゆるやかな核融合反応によってその寿命は延びるだろうが、いずれにせよ、重力定数が現在の値ではなく、今より強かったとしても、あるいは弱かったとしても、宇宙の光景はすっかり変わっていたであろうし、なにより私たち人間は地球上に存在しなかったはずなのだ。


これにかぎらず、あらゆる物理定数が絶妙の値を取ったことで今の宇宙は存在している。そうであるがゆえに、私たちが生きるこの地球、ひいてはこの宇宙は、じつに人間に都合よく構成されており、したがって、この宇宙が存在することを説明するためには、私たちは人間の存在を考慮しなければならない、と考えるのが人間原理なのだ。


ともあれ、この人間原理は、その意味でじつに人間中心主義的であり、なおかつ目的論的であるために、あまたの物理学者たちの猛反発を喰らった。いわば人間を特別視する人間原理は、「神が人間を作られた」というような宗教的世界観をふたたび世界にもたらすものだとして猛烈に批判されもした。


なぜなら、物理学者をふくむ科学者たちが血道を上げて目指してきたこととは、ひらたく言えば、「この世界は神によって設計された」とする従来の宗教的世界観にたいして見直しを迫り、神の御業とされてきた数々の事象を科学の名のもとに解明するとともに、それらをもって、いわば神をこの世から追放することに他ならなかったからだ。この傾向がキリスト教文化圏に属する科学者たちにこそ特に顕著であったことは察しが付くであろう。


繰り返せば、「物理定数は、われわれ人間をこの宇宙に登場させるという目的で、今のような値に高い精度で設定されている」とする人間原理。さきほどの重力の例で見たように、今よりもっと強かったとすれば、この宇宙はブラックホールだらけになっていただろうし、逆にもっと弱かったとすれば、今の宇宙に見られるさまざまな構造はできあがっていなかっただろうから、どちらにせよ宇宙の姿はがらりと変わっていたことになる。


しかし、ここで問われるべき真の問題は、物理定数が「人間にファイン・チューニング(微調整)されているかどうか」ではなく、「なぜ今の値を取っているのか?」ということであるべきだ。人間が人間を問題にしてしまうのはあくまで人間が考えているからであって、物理定数は、たとえば人間にもゴキブリにも等しく作用しているのだから、それらを(少なくとも物理学の観点からすれば)区別してはならないはずではないか。


ともかく結論から言えば、一九八〇年代のはじめに登場した宇宙論モデルである「インフレーション・モデル」が、それまでの「ビッグバン・モデル」の欠点を補い、今日では「インフレーション+ビッグバン・モデル」となって宇宙論の標準モデルとされているらしいのだが、このインフレーション・モデルは一瞬のうちに爆発的な宇宙の膨張があると考えるために、本書によれば、そこから「多宇宙ヴィジョン」という仮説がおのずと導き出されるのだとか。

さらに、詳しい説明は省略するが、ミクロなスケールの物理理論として登場し、素粒子物理学が考える標準モデルの難点を克服する、いわば「究極理論」の有力候補と目された「ひも理論」からもまた、その研究が進むうちに、宇宙には別のありようもあるのかもしれないという可能性、すなわちここにも多宇宙ヴィジョンという考え方が導き出された。


今日の宇宙理論においてデフォルト化している多宇宙ヴィジョンを前提にして、「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」という問いに答えるとすればこうなる。

「われわれは存在可能な宇宙に存在しているだけであって、この宇宙がこのような宇宙なのはたまたまである」

物理学者たちは、「起こりうることはかならず起こる、何度でも起こる」と考える。古典物理学決定論的世界観(「決まってしまったことは、なるようにしかならない」)とは異なって、今日の量子的な世界観では、たとえばビッグバンが一度でも起きたという事実は、二度とビッグバンは起こらないということを意味しない。青木さんはそれを「ビッグバンへの道は、にぎわいはどうであれ、人が通り続ける道だと考えられるのである」というふうに説明している。


この多宇宙ヴィジョンは、むろん人間原理にとって大きな転換点となった。もしも宇宙が無数にあるのなら、人間中心主義的な目的論は意味を成さず、あくまでも「たまたま」私たちはこの宇宙に存在していることになる。したがって、人間原理はたんなる観測選択効果、つまり、この宇宙というかぎられた条件から観測して得られただけの結果でしかない、ということになってしまう。


しかし、かといって、これでもう人間原理は用済みか、といえば、そんなことはありえない。人間原理は「宇宙はこのような宇宙でしかありえない」という暗黙の前提を疑う逆説的な指導原理の役割をいまだ果たしているし、そもそも観測できない多宇宙ヴィジョンは科学なのか、という疑問もある。そして前述したように、「たまたま」を認めない物理学者たちとしては、この多宇宙ヴィジョンという結論に不服であることは言うまでもないだろう。


ともあれ、ずいぶん長々と書いてきてしまったが、これでようやく『MM9』に話を戻すことができる。山本弘はこの大胆な仮説を用いて、「なぜ怪獣たちは襲ってくるのか?」という疑問に、じつに魅力的な回答を提示しているのだ。

それは、「怪獣たちにも怪獣たちの物理法則が存在する」ということである。


さきほど、今よりも地球の重力が強かった場合には人間は自重で押し潰されてしまうという話をしたが、このことはむろん怪獣たちにも言えることだ。野暮を承知で厳密に考えるならば、怪獣たちはそもそも地球上に存在することすらできないのではないか。なぜなら、みずからのその自重によってペシャンコになってしまうはずだからだ。


なぜ怪獣たちは自重によってペシャンコにならないのか。そんな批判をしようものなら、「野暮だ」「フィクションだから」「面白ければいいじゃないか」といった反論が寄せられることは必至だ(筆者自身、そう思う)。ところが山本は、あくまでも厳密さを求めた結果、「多重人間原理」という本作オリジナルの設定を生み出すことによって、その矛盾を見事に解消してみせることに成功したのだ。


すなわち、私たちの宇宙とは異なる物理法則に支配された宇宙が存在するとし(多宇宙ヴィジョン?)、そして怪獣たちがそのような別宇宙の住人なのだとすれば、それゆえに、私たちの宇宙の物理法則からは逃れており、だからこそ自重でペシャンコにならない、ということになる。ちなみに本作では私たちの宇宙を「ビッグバン宇宙」、怪獣たちが属する宇宙に「神話宇宙」という名称をあたえている。


本作ではこの設定を用いて、怪獣たちが襲ってくることにも合理的な説明をあたえようとしている。つまり、本来は異なる物理法則がひしめきあっているはずの多宇宙において、人類がいわば絶対の真実だと信じているビッグバン宇宙の物理法則によって宇宙を広く遍く観測・認識していくことで、このままでは怪獣たちの物理法則が掻き消されてしまい、そうなれば自分たちの死や絶滅は避けられないから、ことほどさように怪獣たちはビッグバン宇宙の物理法則から逃れるために、物理的に地球を破壊しようと襲いに来るのだ。


怪獣たちにとって生きるか死ぬかという切実さを盛り込んだこれらの作中設定は、じつは山本がオリジナルというわけではない。


みなさんご存知の「ウルトラマン」だが、その最初期のシリーズ作品には、たとえば、宇宙飛行士として別惑星に不時着し救助を待っていたのに裏切られ、それを恨んで醜い姿となって地球に復讐するために帰ってきたジャミラ(『ウルトラマン』)や、かつて人類によって海底へと追いやられたものの、ふたたび開発によって彼らの平和を脅かそうとする人類に対抗するために襲ってくるノンマルト(『ウルトラセブン』)など、いわば襲ってくるものたちにも彼らなりの理由があって襲ってくること、あるいは襲わざるをえない事情などを、手を替え品を替え描いてきていた。


ここに善悪二元論的な構図や(人類・ウルトラマン=善、怪獣=悪)、科学的合理主義の傲慢さにたいする批判を見て取ることは容易だが、たとえばシリーズ作品の演出をいくつも手がけた実相寺昭雄などはその著書のなかで、怪獣たちにたいする共感やシンパシーを表明していたことは特筆に値するだろう。


とにもかくにも、人間原理や多宇宙ヴィジョンという理論を長々と紹介してきたのは、それが怪獣特撮モノの源流に息づく思想となぜか地続きであるように思えたからだ。

  • SFと怪獣特撮は出会ったか?


人間原理という奇想のもとからさらに生まれた数々の物理理論やイマジネーションは、この地球とこの宇宙の反=唯一性にかんする思索を深めてきたとともに、そのことによって豊かなSF作品群をも生み出してきた。


それと同時に、怪獣特撮は元来、時に人類の高邁な進歩による傲慢さを戒めてもきたが、『MM9』の多重人間原理という設定は、私たちのほかにもいわば別の《私たち》がいるという、意外と忘れてしまいがちな事実を私たちにあらためて思い起こさせる。つまり、私たち人類と、怪獣や地球外生命体との邂逅(未知との遭遇!)などを通じて時に育まれる他者への想像力、すなわち、ほかの《私たち》への寛容さをしばしば描く点で、一部のSFと怪獣特撮には同一性が見られると言えるのではないか。


そして、その意味で本作の「多重人間原理」という設定はきわめてSF的発想に基づきながら、しかし怪獣特撮の源流にあった思想をモノの見事に結晶化している。別の言い方をすれば、日本の怪獣特撮にそもそもあった思想が多重人間原理という設定によってあらためて理論化されたとも言えるだろう。また、SFと怪獣特撮にはもともと親和性が見られたとはいえ、人間原理という本来きわめてハードであるはずの物理理論を咀嚼し経由させた怪獣特撮が、じつに完成度の高いSF小説としても読みうることを示した点で、やはり山本弘と『MM9』の功績は計り知れないのだ。


いずれにせよ、私たちは『MM9』に、いわば怪獣特撮と本格SFの遭遇あるいは融合を看取するより以前に、それらはすでに同じ起源を共有しあっていたのかもしれない。だからこそ、SFが「夏の時代」と呼ばれる昨今、怪獣たちが長きにわたる眠りから目覚め、私たちの前にふたたび姿をあらわす日は、じつはそう遠くないのかもしれない。