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【再録】柴幸男の演劇のリアル――分離した心と身体、反復し続ける一回性

芸術諸ジャンルはそれぞれのリアリズム(写実主義)を持つ。絵画においても、文学においても、演劇においても、時代と場所を問わず「ほんもの」を追求しようとするプラントン主義的な行為は、必然的に特定の技法と連動し作品という結晶を生み出してきた。二十一世紀に入って約十年が経過し、自己言及性やメタ・フィクション性を特徴である芸術運動としてのポストモダニズムの興奮が過ぎ去った今、ポストモダニズムが私たちにいったい何を残していったのか。リアリズムの相対化・複数化もその一つだろう。

近代の単一にして巨大なイデオロギー=ナラティブの効力が薄れたポスト近代社会において、人々は、いくつかの自閉=充足しつつも外部を失った島宇宙に属し、それぞれの島宇宙における言葉と振る舞いのコードを洗練することに専心してきた。その結果、島独自のリアリズムを結実させた。マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルといったサブカルチャーに注目すればそれは大塚英志『定本 物語消費論』(角川文庫)から東浩紀動物化するポストモダン2 ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)へと橋渡しされたマンガ・アニメ/ゲーム的なリアリズムであるし、近年話題になったケータイ小説という文学現象を東京/地方と絡めて『ケータイ小説的。 再ヤンキー化時代の少女たち』(原書房)で読み解く速水健朗によれば、そこにはケータイ小説的リアリズムがある。あるいは宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』(早川書房)で、平成『仮面ライダー』シリーズと『野ブタ。をプロデュース』や『木更津キャッツアイ』というTVドラマが、ゼロ年代の殺伐とした「戦場」を生き抜くためのサヴァイヴァル術を描き出しているという点においてゼロ年代のリアリズムだという。もちろん宇野は自著を『ゼロ年代の想像力』と名付けているが、この「想像力」には現実に影響を受け敏感に反応する人々の振る舞いを指しているわけであり、東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』において使った「リアリズム」と通じ合っている。

いずれにせよここで簡単に触れたこれら複数のリアリズムは、モダン的大きな世界であれ、ポストモダン島宇宙であれ、その世界の中で考えられる「ほんもの」を追求する姿勢のことを意味している。ただ急いで注意を喚起しておくが、プラトンの伝統を引継ぐならば、この「ほんもの」に私たちはリアリズムという技法を通じても――いや、まさにそれゆえに――達することができない。私たちができることは、せいぜい「ほんもの」の「ほんもの性」とでもいうべきものを、美学的表象/代理(リ・プレゼテンテーション)を通じて擬似的に体験することであり、ほんものであると錯覚できればその表象はリアルであると感じこの芸術はリアリティがあるというのだ。

いささか長くなった前口上はこの程度に、本題である演劇のリアリズムについて考えていこう。二〇〇九年、岸田國士戯曲賞を『わが星』にて受賞した劇作家・演出家の柴幸男の諸作品をテクストに、現代において演劇がどのようなリアル/リアリティ/リアリズムを志向しているのかをラフスケッチすることが本稿の目的である。といっても、柴幸男にたどり着くまで、少し寄り道をする必要がある。柴幸男が何をしたかを理解するには、そもそも彼がどんな舞台の上に立っているかを理解する必要があるからだ。

「リアルな演劇」と私がいうとき、それは舞台の上に生身の人間が立ち、言葉を発し、笑い泣き、何かに怒り喜びしたからといって、それだけを根拠に、演劇は私たちの世界をリアルに表象しているなどといっているわけではない。かつてはどうであったか分からないが――おそらく過去においても、人間が出ているからという根拠だけでは不可能であったと推察されるが――少なくとも現代において、人間が出ているがゆえに人間の「ほんもの」にたどり着けるだろうという信念/錯覚を観るものに与えることは不可能だ。小説やマンガには原理的に生身の身体は登場できない、しかし演劇にはそれができる、だから演劇はリアルだ、とならないのは、生身の身体がそこにあるために可能なことになったものがあるのと同時に不可能になってしまったこともあるからに他ならない。暴力や死といった身体に及ぶ物理的にして一回的なものは、舞台上において表現不可能である。正確にいうならば、表現することは可能でも、再現することは不可能であり、この再現不可能性がそもそも舞台と観客席を分け隔てていた演劇的約束事(コンヴェンション)を完膚なきまでに破壊してしまう。ほんものを志向しつつも断念し、いかにほんもの性を担保するかがリアリズム/ズの倒錯的目標であるならば、いかに演劇独自のリアルを現出させるかに専念するべきだろう。

演劇のリアルを考える一つのモデルは、柴幸男が所属している青年団の主催・平田オリザの演劇論が与えてくれる。平田は彼独自の演劇のリアリズムを「現代口語演劇」と呼んでいるが、自身の『演劇入門』(講談社新書)によると、次の三点に基づいて書かれた戯曲はリアリティをもつという。

一、登場人物しかしゃべらない
二、独白、叫び以外、他人に向かってしゃべる
三、互いが知っていることは話せない、互いが知らないことは話せない

「人生に暗転はない」という平田の芝居は、一幕もので、観客に向かって状況や人物を説明する狂言回し的な登場人物は不在であり、登場人物同士の情報格差を埋めるためだけになされた会話から観客は目の前の舞台がいつ・どこで登場人物がだれなのかを理解しなければならない。美術館が舞台であるとき、登場人物は「ここが美術館かあ」というセリフは慎まなければならない。現実の世界に美術館に入ってきた瞬間に「ここが美術館かあ」と発話する人間は(特殊な事例をのぞいて)存在しないからだ。平田の芝居を観に劇場に入ると、上演時刻前であるにも関わらず既に役者たちが登場人物として舞台の上を往復したり、たわいもない雑談をしている様子に観客は出くわす。「人生に暗転がない」以上、「これから始まります」という合図もないのだ。ここまで徹底するのが平田オリザの目指す演劇のリアリズムなのだが、しかし当然のように彼の手法にも限界はある。日常世界と地続きにはじまった一幕の芝居は、物語のような物語でないようなエピソードを連ね一人また一人、役者は退出していく。全ての役者が舞台上から消え、終幕となる。もちろん、暗転することも幕が下りることもないのだが、舞台袖に一度下がった役者たちは律儀にも再び現れ観客の前で頭を下げる。カーテンコールが終幕の合図となっているわけだが、平田の先の発言を踏まえていえば「人生にカーテンコールはない」のだから、リアリズムを徹底していない以上、これは片手落ちというほかない。

平田オリザの演劇はリアリズムを志向している。演劇の中に現実の一回性(「暗転はない」や狂言回しの不在)を積極的に導入することで演劇のわざとらしさを抹消するその手法は、しかし突き詰めていけば演劇の(あるいは広義の芸術がもつ)反復可能性までも崩してしまう。反復可能性とは、何かを切り取って提示するときの「はさみ」のような役割を担保するもので、作品のはじまり-おわりと表裏一体であり、日常と芸術の断絶を示す標識でもある。どんなに日常性を自然に描き出したものであっても、それが作品として成立する以上ははじまり-おわりの標識タグを埋め込むほかなく、またこの標識タグゆえに作品に作家性が宿る。平田オリザがどんなに一回性を志向しようとも、それが作品である限り反復可能性は排除できない。これはリアリズムの失敗を意味しない。なぜならアリズム/ズの現代には、平田とは異なるリアリズムもありえるからだ。

さて、ようやく柴幸男である。先にも述べたが柴幸男は平田オリザ青年団演出部に所属し、自身の劇団ままごとの主催でもある。代表的な作・演出作品は、「あゆみ」「ハイパーリンくん」「反復かつ連続」「純粋記憶再生装置」の四短劇からなる『四色の色鉛筆があれば』(〇九年一月シアタートラム)、『少年B』(〇九年四-五月駒場アゴラ劇場)、カニクラ『73&88』(〇九年七月アトリエヘリコプター)、ままごと『わが星』(〇九年一〇月三鷹市芸術文化センター)、ままごと『スイングバイ』(一〇年三月駒場アゴラ劇場)。平田オリザ作『チャイニーズ・スープ』を駒場アゴラ劇場で演出していることもあり、平田の現代口語演劇的リアリズムの影響を受けていることは確かだ。その証左に、平田同様に上演時刻前に舞台上に役者を配置している(『少年B』『チャイニーズ・スープ』)。ただし、平田が作品の枠を決めるはさみをできるだけふるわない方へと向かっていったのに対し、柴は積極的にはさみをふるう。「あゆみ」(シアタートラム)では、三人の女優が観客には意味の分からない楽屋的雑談をしながら舞台に登場、舞台のはじにある靴箱で靴を履き替える。その間ずっとおしゃべりは続き、まだ楽屋であることを観客に印象付けるのだが、ふと気がつきと芝居が始まっている。それは靴紐がほどけてしまったので立ち止まり結わえなおす演技からはじまる。ここでは役者の身体と登場人物の振る舞いがつなぎ目なくつながっている。カニクラ『73&88』においても、役者から登場人物へとなだらかに変化する。例えば四人の俳優のうちの一人である玉置玲央は一個人として自己紹介し、この芝居に出るにいたったきっかけなど、楽屋的な話を始める。しかし「もし」という言葉を挟むことで、ゆっくりと確実に観客を役者としての玉置ではなく登場人物の玉置へと誘導していく。柴がふるったはさみは、しかし、入念に隠されるのだ。

役者と登場人物の間には、薄いが本質的で必然的な皮膜が一枚、挟まっている。演劇的約束事が担保するこの皮膜を、極力見せないように、役者がそれを身にまとう瞬間を分からないようにすることが平田オリザのリアリズムであるとするとき、柴幸男のリアリズムはそれとは逆に、皮膜を最大限に引き伸ばす。自覚的に演じると無自覚である外部がどうしてもどこかに存在してしまうのであれば、無自覚に演じ続ければよいという逆転の発想がここにはある。それを可能にするのが、柴幸男が繰り返し導入する身体から人格=心を分離するという演出である。

例えば「あゆみ」。「あゆみ」と「みき」という二人の女の子は幼馴染で、くだらないことで喧嘩をしたり仲直りをしたり、家出をしたりちょっといじわるをしたり、金魚の糞みたいにくっついてまわったりそれをうっとうしいと思ったり、とにかくどこにでもいそうな女の子。あゆみはぐんぐん歩き続ける、後ろから半べそでみきが追いかけてくるのもかまわずに、どんどん歩き続ける。小さい頃の記憶と大人になったあゆみの姿が交互に描かれるこの戯曲には、しかし三人の女優が必要だ。舞台上に太い一本の道が照明で照らされ、その上を一方通行に役者は歩く。右端からスタートし、左端まで着くと急いで右端まで戻りそこからまた光の道を歩く。光の道の上に立っている間のみ役者たちは登場人物となり、誰かどの役を演じるかもその場の配置によって適宜、入れ替わる。この演出上のルールを観客に共有してもらうため、先に述べた靴紐を結びなおすシーンからはじまって、前を行くあゆみをなんとかして止めようとするみきの様子が数回、同じセリフで繰り返される。ただし、誰があゆみで誰かみきかはその場面による。

当たり前のことだが、役者は役を演じることで登場人物になる。そして、この役者と登場人物の間の薄いが本質的な皮膜の扱いに平田と柴のリアリズムの差異があると先に述べた。柴は役者が役を演じること、(自分の)身体に(別の誰かの)心を付着させることの不自然さに気がついているが、平田のようにそれをどこかにおいやるのではなく、徹底的に不自然さを繰り返すこと、反復することを通じて、自然さへいたる回路を開こうとしている。あゆみを演じるのは誰でもいい。誰でも演じられるあゆみは、不思議なことに観たものすべての中に、あゆみにしか演じられないあゆみ、つまり皮膜を被った役者ではない「ほんもの」のあゆみが浮かび上がってくる。もちろん、それは錯覚なのだろう。ただ、この錯覚は錯覚にしては「ほんもの」過ぎるのだ。柴幸男が作る演劇のリアリティが光る。

「あゆみ」のあゆみ、「ほんもの」のあゆみはどこに宿るのか。声、あるいは舞台上を漂う意識であると思われるかもしれない。声こそがあゆみである、と。しかし「反復かつ連続」を見てみると、ことはそう単純ではないことがわかる。タイトルが示すように本作品は反復を通じて一回性、私たちの生きる「ほんもの」を彫りだす。ある家族の朝、わずか数分程度のシーン。目覚まし時計の音で幕が開く。小学生の女の子が目覚めて、顔を洗い、ご飯を食べ、家を出るまでを一人の女優が演じる。その場にいない家族に向かって話しかけ、返事をし、身振りをする彼女の姿はまさに一人芝居である。玄関の呼び出しチャイムが鳴って外に出ると、数秒後に再び目覚まし時計の音が鳴る。そしてついさっき演じ終わった女の子の演技が音声として再生される中、それにあわせて二人目の女の子――一人目の女の子の姉で、部活の練習があるということから中学生と思われる――を同じ女優が演じる。このときになって観ているものは、これがどうやら従来の意味での一人芝居ではない、ということに気がつく。この芝居のルールが分かったところで、三人目の女の子=二人の姉で不登校ぎみの高校生、四人目の女の子=三人の姉で会社の同僚の彼氏を紹介すると約束する社会人、そして最後に五人目の女性=四姉妹の母親が、それぞれ前に演じられた声に自分の声を重ね朝のシーンを完成させる。五度目の母親のシーンにはバッハのフーガの一節が、先に進むことなくずっと反復され、その後、六度目は今までの五人の女性の声が重ね合わされる。今度はゆっくりとフーガが進行し、それにあわせて舞台中央に今まで五人の女性を演じ分けた女優が進み座る。遠くを見ながらお茶をすすり、やがて静かに寝入る女性に「おかあさん、ご飯できましたよ」というおそらく嫁の声が重ねられ、今再生されている重ね合わせ=反復の朝のシーンが、年を重ねた女性の記憶であることが示唆される。嫁の呼びかけに「いってきます」というまた別の声が重ねられ、フーガが終わり、芝居も終わる。

一人目の女の子が演じられたとき、そこには身体と声の一致があった。しかし、二人目の女の子が演じられたとき、そこには一人目の女の子の意識が声に変換されてのこり、そこに二人目の身体と声の一致が重ねられた。三人目以降も同じ過程を経ている。ここでも柴はまず身体から声という意識を引き剥がすことから始めている。しかしそこで終わることはしない。ここで終わってしまうと、人間の意識はすなわち声であるとした、ポスト構造主義者が完膚なきまでに脱構築したいわゆる「西欧形而上学の伝統」を「反復」していることになる。柴の野心はもっとラディカルだ。ジャック・デリダが示した意識=声の絶対的な遅延性を、柴は最後のシーン、六人目の老婆の思い出に五人の声=意識を重ねることで視覚化している。最初に、身体から声をはがし、かつそれを反復、重ね合わせることで身体はなくても声だけあれば「そこに誰かがいる」という現前性を観るものに感じさせるのだが、最後にはその声の重ね合わせも、別の誰かの想起であることが明らかにされることで声=意識の遅延性が示される。

「あゆみ」のあゆみにしろ「反復かつ連続」の家族にしろ、役者(たち)によって集合的に演じられる声が意識の正体ではない。身体から心を引き離し、その中間地点、絶妙なポイントにふわふわと漂っている。平田オリザ的なリアリズムから発想する限り、柴幸男の戯曲はあまりに概念的(コンセプチュアル)でリアリティを欠いていると批判されてもしかたがないかもしれない(平田オリザ自身は柴幸男に批判的だと思わないが)。ただ、冒頭に述べたように、現在、リアリズムはリアリズム/ズとなっている。柴の演劇のリアルは、平田とはまた別に存在している。身体から心を離すこと。反復すること。私たちがリアルを感じるその前提を積極的に不自然にすることで、改変しえない、つまり薄い皮膜を取り去った、演じ得ない「ほんもの」を私たちに垣間見せるのが柴幸男の演劇である。(海老原豊

(初出 2010年4月 旧限界研ブログ