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バナナ学園純情乙女組『翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)』クロスレビュー【評者:中里昌平】

バナナ学園純情乙女組『翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)』
王子小劇場
構成・演出 二階堂瞳子

評者:中里昌平


「感情移入」を越えられるか?

 入り口で受付を済ませ、地下の劇場につづく通路に差し掛かって、まずは軽く驚く。ビニールが床全面にぴっちりと隙間なく張られ、至るところに着色された液体が飛び散り、小道具がわちゃわちゃと散乱している、そんな光景にいきなり出くわしたからだ。スタッフに誘導されて会場にたどり着いてみれば、こんどは別のスタッフから、おもむろにゴミ袋とレインコートを手渡される。慣れた客はそれを迷いなく受けとり、はやばやと客席に座っている。しばらく迷った末に、僕は思いきって客席最前列に座ってみた。
 まわりを見渡すと、荷物を入れたゴミ袋の口をキツく念入りに結ぶ者、レインコートを前後逆にして着ている者(それが経験者の知恵であったことに後に気づく)、アトラクション気分でさっそく色めき立っている者などが目につく。ゴールデンボンバーももいろクローバーがガンガンに鳴り響き、客席後方にスタンバイしたスタッフが本公演に関連したツイートを読みあげている。気になったのは客席最奥になぜか脚立が存在していることだ。開演直前に振り返って見てみた際、その脚立の上には、「団長」の腕章を左腕につけて厳しいまなざしで舞台を睨んでいる金髪の女性がいた。その女性がバナナ学園純情乙女組の主宰であろうことはなんとなく察しがついた。
 開演してすぐに舞台奥からさまざまな小道具を抱えた役者が客席にどっと押し寄せ、その小道具を付近の客にむりやり持たせてゆく。その様子を嬉々として眺めていると、僕のところにも女の子が来て「二分後に差してください、いいですか、二分後、二分後ですよ!?」と言って傘を持たせていったが、あっけにとられてしまって頷いてみせるほかない。そのあとも舞台上をめまぐるしく役者が行き来し、入れかわり立ちかわりでなにかを喚き散らしていくものの、ほとんど聞きとることはできなかった。そして二分後、頭上から降り注いだバケツ数杯分の水をモロに被ってしまったことは、むろん言うまでもあるまい。
 演劇と呼ぶにはあまりにアナーキーすぎるし、パフォーマンスと呼ぶにはあまりに混沌としすぎていて判然としないものの、すでに若手演劇界のなかに独特の地位を確立しつつある「バナナ学園純情乙女組」(以下、バナ学)。そのバナ学の最新作が本作『翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)』だ。
 ここ数年でバナ学を一躍有名にした、通称「おはぎライブ」と呼ばれるライブパフォーマンスは、ときに五〇名を越える役者が舞台上でアニソンなどをバックに一心不乱にオタ芸をするというものなのだが、じつはその乱痴気騒ぎは、主宰・二階堂瞳子の独自の演出メソッドと規律訓練的な統率力によって管理されており(その管理への意思は上演の最中にさえ及び、上述した脚立の上から拡声器で役者たちにダメだししたり、ときには舞台まで降りてきて役者を叱咤したりするほどである)、ややもすると悪ふざけや馬鹿騒ぎスレスレのそれらとは一線を画しているように思われた。
 そんなバナ学が、前回の公演後に「演劇、やります」と公式ホームページで宣言したことは、ちょっとした話題になった。しかも、「サンプル」や「ままごと」といった実力派の劇団の代表作にドラマトゥルクとしてかかわってきた野村政之を「進路指導教師」として迎えていることから、いささかならずともガチであるようには思えたのだが、さりとて懸念材料がまったくなかったかと言えば、それは嘘になる。後述するように、本作はその懸念材料を白日の下に晒すこととなってしまった。

 ところで、バナ学作品の特徴は、近年のアキバカルチャーやネットカルチャー、はたまたアングラ演劇やSMストリップショー、さらには往年の学生運動を想起させずにはおかないヘルメットやゲバ棒(に見立てられたサイリウム)などのありとあらゆるものを表現のリソースとして貪欲に摂取していることだ。それらはすべて記号化されているがゆえにいっしょくたになって闇鍋のような様相を呈することで、演劇にかぎらない舞台芸術全般の約束事やステレオタイプに唾を吐くがごときアナーキーさを獲得し、それらがもたらす熱量と祝祭性が、さらなるカオティックな劇空間の構築に奉仕していることはよく指摘されている(註1)。
 しかし、それを指摘するだけでは不十分だ。それでは、二階堂の戦略を十分に理解したとはいいがたい。ここで真に問題にすべきは、なぜアナーキーでカオティックな祝祭(劇)空間を構築することに彼女らが全神経を傾注しているか、ということだ。結論から言おう。あくまで私見だが、それは舞台と客席、あるいは役者と観客という二文法ないしは二項対立を徹底的に破壊し尽すためだと考えられる。どういうことか。
 ここではとくにダイナミックな例を紹介しよう。去年のフェスティバル/トーキョーで話題をさらった『バナ学バトル★☆熱血スポ魂秋の大運動会!!!!!』において、二階堂は、女の子が急に抱きついてきてキスしてきたり、上裸のオッサンとコスプレしたイケメンが口に含んだ水を客席にむかって噴き散らしたり、ワカメやキャベツが頭上から降ってくるという未曾有の体験(?)をわれわれ観客に蒙らせた末に、およそ信じがたいラストを用意していた。なんと観客を舞台上に引きずり出し、役者との記念撮影をおこなったのだ。
 たとえば、これらをしてバナ学による舞台芸術のアトラクション化やスペクタクル化だとして非難するのは、いくらギリシア演劇以来の連綿たる歴史が壮大でこそあれ、いささか金科玉条のものとして看做しすぎであろう。とはいえ、このギリシア演劇以来の舞台芸術の歴史がやはり壮大であればあるほど、この一瞬の価値転倒がより十全に効果を発揮しうることは言うまでもない。つまり、二階堂とバナ学は、役者を見る/観客から見られるという演劇史的大前提を根本から転覆しようとしているのだ。
 ここで筆者には、ある疑念が鎌首をもたげてくる。誤解を恐れずに言えば、われわれは観客/役者、客席/舞台という条件をあまりに無邪気に前提として受け入れすぎてはいやしないか? 舞台上の役者を客席という絶対に安全な場所から鑑賞しているなどと思ってはいないか? もっと言えば、われわれ観客が社会生活を営むうえで思っても言えなかったことや押し殺していた感情、それら抑圧していた鬱憤を舞台上の役者がときに頓珍漢なキャラクターを演じることで代弁し、発散してくれることを期待していなかったなどと言いきれるだろうか?
 しかし、このような筆者の疑念はすでに過去において問題視されていて、なんら目新しい問題提議ではないことは附言しておかなければなるまい。たとえば、G・ガルシア=マルケスのそれを下敷きにしながらも、中央の舞台をさらに四方から舞台で囲み、視線をかぎりなく複数化=分裂化させることで観客という主体に揺さぶりをかけた『百年の孤独』や、ついには劇場の薄暗がりを飛び出し、観客や舞台といった演劇における所与の諸条件をかぎりなく無化した『市街劇ノック』などを手がけた寺山修司を思い出せばよい。このことはすなわち、「演劇史的大前提を根本から転覆」させんと試みているバナ学が逆説的に「ギリシア演劇以来の連綿たる歴史」に位置づけうることの証左に他ならない。

 とはいうものの、寺山によって自明のものでないとされたこの問題系にたいして、にもかかわらず、やはり今日の観客は安寧しきっているように思う。あまたある多様な娯楽のなかでも圧倒的にコストパフォーマンスのわるいはずの演劇が、それでもなお人びとを魅了している理由のひとつには、たとえば本谷有希子の舞台がおそらくそうであるように、日常生活ではお目にかかりたくてもかかれない奇人変人のたぐいを客席から余裕をもって鑑賞したいというような心性にいまなお支えられているように思うのだ(それとはまた別に演劇構造を支えている観客/役者の鏡像的関係については、海老原豊氏のレビューも参照されたい)。
 だが、役者は舞台上において「役」という別人格にその身体を明け渡すために自己を再組織し、それをひたすら複製ないしは再生産しつづけるという泥沼のようなルーティンを越えたさきに、究極の一瞬を現前させようという、そんな呪いのようなものに取り憑かれてしまった因果な連中である。そんな彼ら彼女らを、動物園の檻のなかに閉じ込められた珍しい動物を見るかのような態度で芝居に臨むのは、はたしていかがなものか?
 自分がなかなかに青臭いことを言っているのは自覚しているが、とにもかくにも、バナ学のあの異常なまでの観客への干渉を粗悪な観客巻き込み型のものとして早合点するのは待ってほしい。なんとなれば、オタク文化やネットカルチャーを巧みにとりこんで劇場を狂騒的な祝祭(劇)空間に仕立てあげ、舞台と客席のあいだに厳格に存在する「見えない壁」を撹拌してとっぱらい、ノイズさえも孕んで圧倒的な物量感を伴うに至った祝祭(劇)空間を、観客と役者の隔たりなしに渾然一体となって、会場一体となって作りあげるためであるように筆者は思う。「私たちはどんな場合でも、劇を半分しか作ることはできない。あとの半分は観客が作るのだ」と言ったのは、ほかならぬ寺山修司である。

 ただ、文芸評論家の福嶋亮大は、昨今の若い劇作家や演出家たちが「感情移入」を前提にした作品づくりをしていることにいささか懐疑的である旨を述べている一方、バナ学のハチャメチャさはそもそも感情移入する暇さえあたえないと評価している(註2)。
 しかし、本作における二階堂は、明確に感情移入を志向していたように思うし、さらにはより高次の、言うなれば普遍性みたいなものを志向していたようにも思う。すなわち感情移入を越えようとしているのであり、お気づきのことと思われるが、そのためのシェイクスピアなのだ。むろん、シェイクスピア演劇を上演することが普遍性へと至る道とするのはあまりにも安易かつ陳腐な理解だが、その成否を問うまえに、普遍性へと至るためにはまずはその前段階として観客を感情移入させなければならない。はたして、それは本作においてどのように試みられたか?
 筆者が考えるに、たとえば「ロミオとジュリエット」を今日的視点から、つまり言うなれば「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語として再解釈することで感情移入を促そうとしていたように思う。その試み自体は評価したい。けれど、結論から言って、その試みは失敗したと言うほかない。なぜか。それは本作が、バナ学本来のハイスピードかつハイテンションゆえに圧倒的に不可逆的な現前的体験と再=現前的な演劇性のあいだで引き裂かれ、齟齬をきたしてしまっていたからだ。なにかを物語ることへの意思は漲っていたのだが、それは残念なことに困難を窮めており(劇場チラシに印刷されたあらすじによれば「ある夜。ロミオとジュリエットは出逢うや否や瞬殺で愛し合」っていたらしい)、バナ学の魅力であったダイナミズムも損なわれていた感は否めない。
 しかし、なんどでも繰り返すが、この試行錯誤をこそ筆者は熱烈に支持したい。コラージュ、サンプリング、マッシュアップ……まあ言い方はなんでもいいが、AKBやアニソンなどですでに混沌としている闇鍋に、さらにシェイクスピアをブチ込んでおいて、むしろヤケドしない表現のほうがおかしいのだ。俗っぽい言い方をゆるしてもらえば、一〇年でおわるか、はたまた三〇年つづけられるか否かの分水嶺は、まさに「いま、このとき」であるように思われる(二階堂はそれを望んではいないかもしれないが)。たとえ感情移入の調達先がめまぐるしく変わったとしても、確かな演出力と作劇術に裏打ちされていれば、それは普遍的表現になりうるのだ。今回のヤケドをかならずや今後に活かしてくれることを素朴すぎるほどに信じて筆をおきたい。


附記 今回の公演において本劇団の過剰な観客への干渉が、被害者と少なくない人びとにたいして不快な思いをあたえたことについて、筆者としてはことさら取り沙汰するつもりはない。むろん本劇団が渦中の人物に誠心誠意、謝罪すべきであることは確かだ。しかし、今回の件があってなお本劇団を擁護したい筆者としては、誤解を免れえぬことを覚悟しつつ、あえて表現として注目してみたいのだが、これは「ハプニング」の手法と近似値であるように思う。けれど、そのような意図でもって為された行為でないことはあきらかなのだから、繰り返すが、もし被害者が法的措置も辞さないような場合でも本劇団は粛々と応えうるかぎりのことをすべきである。ただ、今回のことで本劇団の今後の活動や表現が萎縮してしまうようなことはおそらく誰も望んでいない。次回公演に期待するとともに、本件についてはとりいそぎ附記というかたちで言及するにとどめる。


(註1)ちなみに今日のメディア環境が「身体性」や「現前性」といったものをふたたび喚起しつつあることも指摘しておきたい。たとえば、ニコニコ動画における「やってみた動画」「踊ってみた動画」などがその典型であろうが、そのようなメディア的現実をこそ表現上のリソースとしているのがバナ学であり、したがって、それらとの親和性の高さは当然と言える。

(註2)福嶋亮大「灼熱の娯楽を目指して」

中里昌平(なかざとしょうへい)
1990年生まれ。日本大学芸術学部映画学科入学、同文芸学科在学中。
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