限界研blog

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演劇論「その後の柴幸男」ーー『わが星』から『わたしの星』へ

1 「リピートからリスタート」だったのか?

本稿は「その後の柴幸男」として、『わたしの星』(2014年、三鷹芸術劇場)を論じたい。「その後」とは「どの後」かといえば、『テトラポッド』(2012年、あうるすぽっと)以降だ。私は、限界blogで書いたレビューで次のように書いた。

リピートからリスタートへ。(…)ゼロ年代を、ベタにループ的な完成がカルチャー/社会に実装された十年だと総括するとき、ままごと『テトラポッド』は、これからの十年を区切る重要な作品だと断言できる。

が、果たして「リピートからリスタートへ」となったのか。柴幸男(ままごと)が高校生キャストとコラボレーションして生み出した、『わが星』ならぬ『わたしの星』をテクストに考えてみた。

2 柴幸男の反復――演出的反復とは?

SFマガジン』連載の山崎健太「現代日本演劇のSF的諸相」、第6回(2014年9月号)はままごとを取り上げている。「反復と連続の演劇」と題して、「反復かつ連続」や「あゆみ」を紹介しつつ、柴の作品の特徴を「時間の捉え方・描き方」、「演劇の(人生の)時間の流れ方に極めて意識的」だとする。繰り返しながら進んでいく。毎日、同じような日常を過ごしつつ、出会いと別れがあって、年をとりやがて死んでいく。柴が宇宙規模の始まりと終わりに関心を寄せつつ、人間が営む些細な日常への気遣いなおざりにしないのは、両者が繋がっているからだ。山崎が柴の作品を「反復と連続の演劇」とするのにも異論はない(というか、そもそも柴自身が自分の作品につけたタイトルなわけだが)。

反復。しかし、柴はいったい何を反復しているのだろう。

柴が反復するものには2つある。1つは演出的反復、もう1つはモチーフ的反復だ。順に見ていこう。

演出的反復は、山崎も分析対象にしている「反復かつ連続」と「あゆみ」(特にショートバージョン)を観ると理解しやすい(両作品ともDVD『四色の色鉛筆があれば』に収録)。

四色の色鉛筆があれば

四色の色鉛筆があれば

両作品は、ともにコンセプチュアルな演出が施されている。あらすじの紹介は、以前、限界blogに書いた拙稿に譲るとして(アーカイブを兼ねて、下記に別エントリで再掲)、演出の核を抽出するとこうなる。

・「あゆみ」は役者の人数を役に必要な数よりも増やす。3人の役者で「あゆみ」と「みき」を演じる。3人が交互に演じるので、誰がどの役と固定されない。
・「反復かつ連続」は役者の人数を役に必要な数よりも減らす。1人の役者が、録音した自分の一人芝居にさらなる一人芝居を重ね5(〜6)人の役を演じ分ける。

「あゆみ」は役者の非連続性/役の連続性を、「反復かつ連続」は役者の連続性/役の非連続性を演出的に浮かび上がらせることに成功している。これによって柴は舞台上で役と役者の間に亀裂を入れる。

演劇は、そもそもが不自然なものである。どんなに即興演劇を目指そうとも、何らかのト書きやセリフが事前に与えられ、役者は入念な練習をして本番に望む。役者に期待されることは、訓練を通じて(不自然に)覚えたせりふを、いかに自然に発するかである。私たちは現実世界を生きていて、誰かに言われたとおりに発言することはめったにない。あったとしても、強制的に言われたという文脈がつく。対して、演劇では基本、全てのセリフはあらかじめ決まっている。それでもなお、舞台外に広がる現実世界に近い自然な芝居を目指すのであれば、決まっているセリフを決まっていない、自発的なものであるかのように言う訓練をしなければならない。

役者に期待されるのは、自分とは異なる人間の役を、自分の身体に固着させ、役/役者のスムーズにつなぐことだ。役と役者の間に亀裂が入ると、「あ、この役者は、この役を演じているのだ」と観客に感じさせてしまい、目指す自然さが遠のく。

だから柴が演出的反復で役と役者の間に亀裂を入れることは、本来、リアリズムを志向する演劇においてはやってはいけない。だが、柴はあえてそれをやる。そして役者の身体から離れたところに役それ自体を出現させる。間身体的な存在としての役。役と役者が一体化しているとき、例えばその役者が死んでしまうと、役も消滅するという事態が起こる。それはあくまで役者の寿命であって、役の命とはなんら関係のないはず。役とは、役者の身体を必要とするが、同時に役者の身体間にも存在している間身体的な存在なのだ。柴は演出的反復によってこれを執拗にあぶりだす。

3 モチーフ的反復とは?

モチーフ的反復とは、「あゆみ」の空間、「反復かつ連続」の時間のような繰り返しではなく、スケールの違いはあれモチーフが繰り返されることだ。『わが星』(2009年、三鷹芸術文化センター)にはっきりと見られる。

わが星「OUR PLANET [DVD]

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わが星

わが星

『わが星』は「最初は無、ビッグバン!」で幕を開ける。文字通りの宇宙の始まりから、地球の寿命までをスケールにとる。壮大な物語。なのだが、感情移入できるように、登場人物は「ちーちゃん(地球)」や「月ちゃん」といったように人格化され、ちーちゃんの家族(お父さん、お母さん、お姉ちゃん、おばあちゃん)らと、ちゃぶ台を囲んでの牧歌的な団欒が中心だ。ちーちゃんと月ちゃんの出会いと別れが一つのクライマックスだが、これは惑星たる地球、その衛星の月が物理的に離れていくこと(モチーフ)と、ちーちゃんと月ちゃんという同じ団地に住む二人の少女が、成長するにつれて別々の人生を歩んでいくこと(モチーフ)が重ねて表現される。これがモチーフ的反復である。

2014年に『わが星』と同じ劇場で上演された柴幸男(ままごと)の新作戯曲『わたしの星』(2014年、三鷹芸術文化センター)。タイトルが示すとおり『わが星』を意識したものだ。物語の発想を、柴は次のように語っている。

かつて僕も高校の演劇部だった。では高校生の僕が『わが星』という作品を部活で上演するとしたら、どうするだろうか。どうやって問題を解決するだろうか。どうやって自分たちの物語に書き換えるだろうか。それが『わたしの星』を生み出すきっかけだったと思います。(活動報告紙『ままごとの新聞』第11号)


『わたしの星』は近未来の地球の話だ。ただし、温暖化のため暑くなりすぎて住めないため、地球から火星への移住は進み、緩やかな滅びを迎えつつある。舞台となる高校にも生徒は9名しか在籍していない。夏休み最終日、新学期にある文化祭のために、出し物「わたしの星」の練習をしようと音楽室にあつまるが、一人の少女が親友の少女に告げる。「わたし、火星に行くの」と。

火星に行くのか行かないのか。行くならいつか。行かないのはなぜか。文化祭公演、どうすればいいのか。登場人物たちが抱える等身大の悩みが、火星から地球にやってきた存在自体が珍しい転校生の前で、少しずつ明らかにされていく。

彼女たちが練習しているダンス+歌「わたしの星」。詳細は明らかにならないが、曲や歌詞、ダンスの一部は『わが星』に基づいている。だから「わたしの星」も始まりと終わり、出会いと別れをモチーフにしている。ここでも「わたしの星」というパフォーマンスと、『わたしの星』という舞台そのものが、モチーフ的反復をしている。さらには、『わたしの星』の舞台となっている温暖化の進んだ地球は、『わが星』が広げた壮大なスケールの中のどこかにあるかもしれない地球だと想像できる。『わたしの星』は『わが星』の中に位置している。

モチーフ的反復とは、普遍化されたテーマを、いま・ここに生きなおすことだ。役は役者の身体を通じてしか表現されないように、普遍的なモチーフは個別的に演じられて、初めて生きてくる。普遍的である限り、何も言っていないに等しい。『わが星』で宇宙規模の時間スケールを、家族団欒や友達との出会い/別れで変奏したのは、普遍性をいま・ここに生きなおすため。『わたしの星』では、『わが星』以上に具体的ないま・ここが描かれる。

柴幸男は、演出的反復によって役を役者の身体から離し、間身体的なものへと抽象化・普遍化した。これは初期のコンセプチュアルで実験的な演出を通じてやろうとしたことだ。しかし、柴はそれだけでは終わらない(それだけにこだわらない)。演出的反復からさらに進み、モチーフ的反復を探求する。2009年の『わが星』、震災後もほとんど変えることなく再演された2011年の『わが星』、そして2014年の『わたしの星』。これらのモチーフ的反復を通じ、普遍性は、いま・ここにいる誰かに演じられ具体化される。『わたしの星』は、そもそも「『わが星』を高校演劇部でやるにはどうしたらよいのか?」という発想に基づいて生まれたということは先にも確認したが、『わが星』は『わたしの星』の誕生によって、現役の高校生たちに演じられることによって、血と肉を得たのだ。

だから柴幸男は今でもリピートの中にいる。ただし、常に同じものを繰り返すリピートではなく、絶えず個別具体的に生きなおされるリピートの中に。(海老原豊