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【日本SFサイシン部08】超時間×超種族=二次創作的コミュニケーション――小川一水『コロロギ岳から木星トロヤへ』(ハヤカワ文庫JA)

最新の日本SF(出版されて、せいぜい半年以内)の最深部に迫る! 書評コーナー。

今回も「せいぜい半年以内」の縛りを逸脱。先月、筑波で行われた日本SF大会「なつこん」で発表された第45回星雲賞で2014年日本長篇部門に輝いた小川一水『コロロギ岳から木星トロヤへ』をとりあげる。



この小説はどんな小説か?


電話は離れたところにいるもの同士のコミュニケーションを成立させる。では、離れているのが距離ではなく、時間であったらどうだろう。本書に出てくるのは、未来から過去へとメッセージを伝えることができる時間電話のような生物。その生き物は、電話線よろしく、蛇やら大根やら一本の太い筒状のものとして描写される。


一方の端には2014年の日本、北アルプスのコロロギ岳山頂観測所。もう一方の端には、2231年、木星のトロヤ小惑星群、惑星アキレスにある宇宙戦艦。約2世紀の時をつなぐのが巨大な時空蛇、カイアク。人間とは「宇宙における在り方が根本的に異なる」生き物(?)。頭をコロロギに、しっぽをトロヤに挟まれてしまい、身動きができなくなってしまった。このままだと惑星規模の良くないことが起こるので、カイアクは頭としっぽのところにいる人間に協力を呼びかける。


2231年、カイアクのしっぽにいるのはリュセージとワランキという2人の少年。小惑星アキレスは、同じ小惑星のヴェスタによって支配されている。かつてあったヴェスタとの戦争で急造された宇宙戦艦アキレス号は、敗北と占領のモニュメントとして現在は展示。戦艦を指揮した祖父の不名誉をそそぐために、リュセージは友達のワランキとともに戦艦に忍び込む。そこで「あるもの」を見せたはいいが、何者かによって入り口は閉ざされ、二人は艦内に閉じ込められる。水も酸素もあるが、場所によっては放射線量が高く、いつまでもとどまることができない。外部との連絡が取れない二人は途方にくれるが、艦内に埋め込まれている巨大な筒が、とある宗教団体の教義にある過去と繋がる「ケイアックの蛇」であると気がつき、コミュニケーションをとり始める。217年前の日本、コロロギ観測所にいる所員・岳樺百葉たちと。


ルールはこうだ。2231年の少年達は、カイアクのしっぽにモールス信号を打電する。2014年のカイアクの頭はその信号を百葉たちに伝える。カイアクの頭はコミュニケーションができるほど十分に複雑だが、しっぽはそうではない。だから百葉たちが、リュセージたちにメッセージを伝えるには、2世紀にわたって伝わる(残る)「手紙」を書かなければならない。もちろん手紙はどんな形でも良い。文字でも、モノでも、宗教団体の教義でも。


このSFの見所は?


未来からメッセージが送られてくるという発想は、実はSFではよくある。J・P・ホーガンの『未来からのホットライン』なんてそのものずばりのものもある。反対に未来へメッセージを送ることは何もSFに限った話ではなく、「タイムカプセル」のようなものの形で私たちの日常にもころがっている。そういえば楳図かずお漂流教室』で、未来世界に飛ばされてしまった主人公の危機を、母の執念としか形容できない第六感で感じ取った母親が、未来に向けてナイフを送るというシーンがあった。ホテルの壁にドリルで穴を開けて、布でぐるぐる巻きに包んだナイフを入れる。未来世界で窮地に陥った主人公が、ふと手を伸ばすとそこには時を経てぼろぼろになったナイフが! 『漂流教室』がTVドラマ化されたとき、「ロング・ラブレター」というタイトルになっていたが、この「ロング」は手紙の分量が「長い」のではなく、手紙が届くまでにかかる時間が「長い」ことを指している。

漂流教室 文庫版 コミック 全6巻完結セット (小学館文庫)

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だから超時間コミュニケーションがアイディアとなるのはSFでは決して珍しくない。本作品のユニークなところは2つある。1つは、コミュニケーションを可能にするのが謎の生命体=カイアクであるところ。つまりファースト・コンタクトものでもある。2014年と2231年の間の人間同士の超時間コミュニケーションだけではなく、人間と、全く異なる生命体との超種族コミュニケーションでもある。コミュニケーションは、手持ちの知識を単に伝え合うことでもあるが、時としてその結果、そのコミュニケーションにかかわる者たちに変化を引き起こす。そして本作でも、それは例外ではないのだ。


そしてもう1つ、超時間コミュニケーションの結果、生じてくるパラドックスへの対処法だ。未来からの情報を受け取った時点で過去は変化し、そして未来も変化する。メッセージの応酬のたびに、様々な可能世界が重ねあわされ収束し、ひとつの可能世界が選び取られていく。この可能世界へのまなざしは、2014年にいるBL好きのとある登場人物が、2231年の二人の少年を攻め/受けと勝手に読み直す姿勢とパラレルだ。過去/現在/未来が変化しても記憶(の一部)を保つことができるのも、異なる世界に配置しても人格や関係性(の一部)を保持している二次創作のキャラクターと似ている。


以上2点が、本書のユニークなところなのだが、時間制限ある中で制限されたコミュニケーション手段で難題に挑むというそもそものプロットが熱い!のは間違いない。(海老原豊

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