限界研blog

限界研の活動や記事を掲載します。

映像圏の射程――渡邉大輔『イメージの進行形』から東京デスロック『東京ノート』へ【評者:海老原豊】

●映像圏の射程


渡邉大輔が『イメージの進行形』で提示した概念・映像圏は、情報環境の変化によってイメージが社会に氾濫した状態をさす。主たる分析は映画である。それまで比喩的にも字義的にも固定されていた観客、監督(作者)という役割、それらを直線的に媒介すると考えられていた物語=映画が、イメージの例外状態によって輪郭を失い、絶えず自己参照しつつ増殖していく。作品はそれだけでは完結できず、観客の身体をコミュニケーションをフックにして作品の一部として取り込み、再提示する。それまで不・可視化されていた観客の身体は、過・可視化される。例えばYouTubeニコニコ動画にあふれる「踊ってみた」動画といった形で。


渡邉は、現代の映像文化、映像的なものの全社会的な浸潤を共時的に切り取って提示しているが、それと同時に映画の歴史をひもときながら通時的な視点も取り入れている。なかでも興味深いのが、初期映画時代の映画館が、今のような作家‐映画‐観客といった固定的で単線的な物語の伝達構造ではなく、もっと混沌としたアトラクション(テーマパーク)のような場所であったという指摘だ。あるいは、カメラ・オブスキュラという近代絵画の遠近法のオルタナティブとなりえたステレオスコープという元祖3D光学装置を紹介している。いずれの場合も、観客が物質的身体をもった生身の人間であるという、当たり前だが往々にして捨象されてしまう事実を私たちに改めて確認している。

イメージの進行形: ソーシャル時代の映画と映像文化

イメージの進行形: ソーシャル時代の映画と映像文化

この映像圏、射程は実に広い。渡邉が「映画」から「映画的なものへ」と繰り返し述べているように、私たちの身の回りにある様々なイメージは当然、映像圏内の要素に含まれるが、従来は映画とは異なるジャンルであり別の言語体系に属していると思われていた演劇すらも、この映像圏へと収めることができるといったら驚くだろうか。



ここでとりあげたいのは東京デスロックが上演した『東京ノート』(駒場アゴラ劇場、2013年1月10日〜20日)である。原作戯曲は平田オリザ。演出は、東京デスロックの多田淳之介。


フェルメールカメラ・オブスキュラから平田オリザの「現代口語演劇」へ


簡単に『東京ノート』のあらすじを確認しよう。舞台は美術館のロビー、時は2024年の東京。ヨーロッパは戦争をしていて、有名な絵画、中でもフェルメールの絵画が一時避難として、その美術館へと運ばれてきた。登場人物は美術館にやってくるものたち/働いているものたち。一応の中心となるのは、5人兄妹(長男・長女・次男・次女・三男)とその配偶者。家族・親戚の集まりなのだが、なかなか全員が集合せず、ぽつぽつと集まったものたちのあいだでなんとなく会話が進行していく。他には、祖父の遺産である絵画を寄付しに来た女性、その弁護士、対応する学芸員。この学芸員がかつて参加していた反戦平和運活動の運動仲間。実は、これら登場人物が演じる大きなドラマというものはない。背景(遠景)には、ヨーロッパの戦争と「平和維持軍」としてそれに参加する日本があり、戦争で家族を亡くしたものの声や、これから戦争へと行こうとするものの決意がぽろぽろと漏れ出てくるが、しかしそれらはあくまで伴奏であり、主旋律とはならない。


それでもこの戯曲が戯曲として優れているのは、作中でのテーマと、戯曲そのもののテーマが二重写しになる瞬間を用意しているからだ。ご存知のように、平田オリザは「現代口語演劇」という方法論で、自身の戯曲を組み立てる。その要素を簡単に要約すれば次のようになる。

1 登場人物しかしゃべらない
2 登場人物は(独白や叫び以外)必ず舞台上にいるほかの登場人物にむかってしゃべる
3 会話は「知っている者」から「知らない者」へ向かう(皆が知っていること、皆が知らないことは話せない)

場面転換(暗転)なし、時間経過は現実どおりに進む、一幕モノ。この「現代口語演劇」という方法論が、『東京ノート』では作中のテーマと連動している。一人の学芸員カメラ・オブスキュラについてとうとうと語るシーンがある。フェルメールが絵を描くときに、フィルムなしのカメラ(オブスキュラ)を使い、一度、三次元を二次元へと落とし込んだうえで絵画にしたというエピソードを紹介する。その瞬間に近代絵画のフェルメールは、現代口語演劇の平田オリザとして舞台に復活する。三次元的な登場人物たちの人生を、二次元的な舞台へと落とし込む。徹底的なリアリズムで、カメラのように切り取った一枚の背景=舞台に、さまざまな人生を重ね合わせる。


●「見えないものが見えて、見えるものが見えなくなる」


以上が、戯曲としての『東京ノート』の特徴である。フェルメール平田オリザをつらぬく近代・遠近法的な思考法は、古典的で、それゆえに安定的な映画概念と近い。東京デスロックの多田淳之介は、フェルメール平田オリザを、完膚なきまでに破壊する。


それでは多田淳之介の演出を見てみよう。まず観客は舞台のつくりに驚かされる。靴を脱いで二階へ上がったはよいが、客席が用意されていないのだ。舞台もない。床と、そこにすえつけられたいくつかのベンチには、白いふわふわのじゅうたんがしきつめられている。スクリーンや薄型テレビがいくつか壁に貼り付けられ、そこには「好きな場所でおくつろぎください」(たしか)というメッセージが表示されている。観客はこの仕掛けに驚きながらも、いわれたとおりに座る。


そして開演。客入れの音楽がやみ、別の音楽が流れ始め、スクリーンに文章がゆっくりと映し出される。床に客とまぎれて座っていた役者たちが突然にたちあがり、客のあいだをぬって歩きながら、スクリーンの言葉に答える。


それでも、まだ物語は始まらない。「2024 TOKYO」という文字が映し出され、演出の多田がマイクを持って登場。2013年から2024年へとタイムスリップしたこと、ここはとある美術館のロビーであることを告げる。この芝居を鑑賞するときのルールも。それは「見る場所を変わってよい」というものだ。そうすると見えないものが見えるし、見えているものが見えなくなる。


舞台上にスクリーンやディスプレイを配置し、観客席からは見えない角度で舞台を写したり、または観客席そのものを写しこんだりする手法は、近年、小劇場演劇では好まれる技法のひとつとなっている(F/Tで宮沢章夫が演出した『トータル・リビング』がまっさきに思い出される)。観客は自身の「観る身体」を含めて芝居を見る。客席の私たちは意識してか無意識にか、スクリーンに映りこんだ「観る身体」としての自分の姿を探してしまう。


先に確認したように、平田はカメラ・オブスキュラ的に、三次元の立体世界を舞台という二次元的平面へと固着させた。この場合、舞台が実は二次元であることに注意しなければならない。客席は固定され、観客の視線は一方通行でしかないからだ。演出家は、平面的に切り取った世界を観客に提示するし、また観客もそれを観ることを強いられる。多田は、この観客の身体へとかせられる強制(矯正)を、「好きなところから見てよい」という態度で破壊する。二次元的なものとして現れていた背景(舞台)が、とたんに三次元的なものへと作り変えられる。


さらには、壁のスクリーンに映し出された客席の様子によって、三次元を二次元へと落とし込むことの欺瞞が積極的に明らかにされる。ある登場人物が、自分と舞台上の小物の位置を計算しながらカメラに映り、三次元的には交わらないが二次元(スクリーン)に交わっているように見えるようにするシーンがある。写真撮影で使われるおなじみの視覚トリックだ。そもそも、フェルメール=平田の発想は、お約束でしかないことが、改めて確認される。そして、カメラ/スクリーンが物理的にいくつも存在していることで観客の視点は文字通り複数化される。


渡邉は言う。

映像圏/ポストモダン映画では、「古典的」と称される静態的・機能的・閉鎖的なシステム(大きな物語)が軒並み解体しており、身体性が剥奪され型に嵌められ、テクストや装置によって統合される、理念的・均質的な「大文字の観客the Spectator」(映画館で身体を席に固定し、黙ってイメージに没入する観客)というありようも破棄されている。(p. 100)

論じられているのは確かに「映画」かもしれないが、この指摘はポストモダン/小劇場演劇にまで当てはまる。多田淳之介が演出した『東京ノート』は極めて「映画的なもの」であり、まさに映像圏の作品であるのだ。『イメージの進行形』の射程は、広い。映像圏という「現代社会そのもの」を分析対象にすることができる。