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『海老原豊評論集』■序文 批評の運動


文学フリマで販売する限界研の新刊『海老原豊評論集』より序文



■序文 批評の運動


 本書を貫く考え方は〈二項対立の運動〉である。


 〈二項対立の運動〉は一昔前の言葉を使うとジャック・デリダという思想家が提唱した脱構築といえる。一見すると対立しているAとBという概念のそれぞれを検証してみると、AがBに依存し、BがAに依存している。このAとBは並列よりも上下に配置されていることが多い。「AはBより偉い!」と思っていたが、実は「そもそもBがないとAは成立しない」。例えば、書き言葉と話し言葉。書き言葉は、話し言葉を文字に書き写したもので、言葉の持ち主がいないところでは誤解される可能性もあるため「話し言葉→書き言葉」というヒエラルキーが成立するように見える。しかし、そもそも言葉というのは、一回きりの声のようなものではなく、誰が何度書いてもびくともしない反復可能なものを基盤としている。自分の「本当の声」だと思っていたものが、どこかに書かれている可能性はつねにある。書き言葉では表現できないと思っていた、生の声は、実は他の誰かの書き言葉を読み直しただけかもしれない。つまり、書き言葉がなければ話し言葉も存在し得ない。このように対立項を破壊するのではなく、対立項を維持しつつ上下関係を転倒させるのが脱構築だ。


 脱構築という思考法によってデリダは西洋形而上学の伝統に終止符をつけた、とたまにいわれるが、思想・哲学の歴史を紐解いてみれば、デリダ脱構築に近い発想をもっているものは、けっこういる。というよりも、後世に読みつがれる思想・哲学は、デリダ的なものなのかもしれない。ある種の二項対立を発見しながら、同時にその二項対立の転倒を指摘する。A対Bという静的なモデルではなくてA対Bの間にあるCという運動を記述すること。すべての思想・哲学は歴史的な出来事であるが、自らのよってたつ歴史性すらも越える普遍性(非歴史性)をもちえる。また、そうしてこそのみ、面白い思想・哲学といえる。
 

本書は前半にSF、後半に演劇をとりあげる。思想・哲学をバックボーンに、SF・演劇の批評を試みる。先に手の内をさらしてしまえば、SFと演劇から二項対立の運動を抽出することが目的だ。その際にどの項目に注目するかは実際の作品次第。


 ただ、結論が分かっているからといって、これらの論考が無駄になるわけでは全くない。スポーツを例にとってみよう。もし、あなたが何かあたらしいスポーツを始めようとしたとき、手始めに入門書やDVDを購入し、まずは学ぶことから始めるだろう。ルールや、基本的な考え方、それに体の動かし方などを、まず学ぶ。当然、それだけでは不十分だ。学んだことを実際にフィールドでやってみる必要がある。学ぶことと実践することは、厳密に分けられるわけではなく、同時進行することが多い。いずれにせよ、学習と実践は二つの要素としてスポーツに埋め込まれている。


 批評もまた一種のスポーツだ。自分が面白いと思った作品を対象に、その面白さを抽出する言語を用いたスポーツ。そのためのテクニックが、この本には納められている。各論は、二項対立の運動に着目した批評の実践となっている。それを一通り読み、この技術を学習した後は、今度は自分自身の手で実践してもらいたい。スポーツを「見る」のと「やる」のが似ているようで違うように、批評も「読む」のと「やる」のは(重なる部分もあるとはいえ)違う。自分自身の抱える問題を言語化し考えること。どんな優れた批評も、読者にとって「役に立つ」ものがなければ意味がない。また、読者にとって役に立ってこそ、真に優れた批評といえる。


 本書が提示する〈二項対立の運動〉は、批評のもっとも基本的で汎用性の広い技だ。ここから入門するのが手っ取り早い。この技法さえ身に着けてしまえば、なにもここで取り上げているようなSFや演劇といった批評だけではなく、職場や日常生活においても役に立てることができる。そして〈二項対立の運動〉は、各人が各人なりのやり方で実践しないと、実は全く意味がない。普遍的で、それゆえに強力な枠組みであるがゆえに、どこを切っても同じ、いわば金太郎飴的なものとなってしまう。味を生むのは、「誰」が「何」をやるのかだ(「どうして」やるのか、も入ってくることがある)。〈二項対立の運動〉は空手の型にように、批評するものを縛る。ただし、縛られた型は組み合わせによって無限の効果を生む。ルールが厳密に定められたスポーツにおいて、縛られているがゆえに選手の個性が光るように、批評においても〈二項対立の運動〉がもっとも輝くのは、論者の姿が型の向こうに見えた瞬間なのだ。


 非歴史的な手法に歴史性を注入するのは、他でもない、自分自身なのだ。