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岡崎京子原作・蜷川実花監督作『ヘルタースケルター』【評者:中里昌平】

岡崎京子はまだ、死んでない」
岡崎京子原作・蜷川実花監督作『ヘルタースケルター


評者:中里昌平


あたしは絶対しあわせになってやる

じゃなかったらみんな一蓮托生で地獄行きよ

ちくしょう さもなくば犬のようにくたばってやる
岡崎京子ヘルタースケルター』)

 いきなり私事で恐縮だが、筆者が物心付いたときにはすでに岡崎は交通事故に遭っており、彼女の存在を安野モヨコから遡って知ったときには、大塚英志椹木野衣を始めとする様々な人々の懐古的な文章によって夥しい言説が大がかりに組織されたあとだった。

 岡崎の漫画を求めて書店の漫画コーナーに行ってみれば、そこには大塚英志の言っていた「彼女(岡崎京子――引用者註)より後からやって来たまんが家たちは当り前のように「岡崎京子っぽい」まんがを描き、岡崎京子のような装丁の単行本を岡崎京子の隣りに平積みにしてもら」っている光景が目の前に広がっていた(『「おたく」の精神史』)。

 岡崎の漫画のはたして何が、一部の人々を饒舌に語らせ、漫画家たちに模倣させるのか。

 本稿は、蜷川実花によって映画化された本作を見てみることで、ひとえにそのプライベートな戸惑いの内実を少しばかりあきらかにしたいという個人的な動機に衝き動かされつつも、ひいては岡崎京子という漫画家をあくまで私たちと同時代の漫画家として読み替えていきたいとも考えている。なぜなら、彼女はまだ死んではおらず、現にいま映画化される作品を有する漫画家を同時代的に読んではいけない理由はないはずだからだ。

 写真や映像といった表現領域を問わず、ときにグロテスクな印象をあたえもする極彩色の花弁に象徴される少女趣味を作風としてきた写真家・蜷川実花が、高度消費社会を謳歌した一九八〇年代以降の日本に動物的に適応することで出現したかのような少女たちを見事に捉えてきた漫画家・岡崎京子の代表作である、ショウビズ界の裏側を描いた『ヘルタースケルター』を映画化する……。

 そのような事態に処するにあたって、ゴシップやスキャンダルの絶えない沢尻エリカを主演にキャスティングしたことは、言うまでもなく、本作の主人公りりことの、ともすると下世話な同一視と感情移入をわれわれ観客に促したかったのであろうし、そして蜷川と岡崎の作風や想像力を、いわば沢尻の肉体に結晶化させるようなかたちで映画化は為されるであろうことは、もちろん見るまえから容易に想像できたし、そうでしかなかった。

 それゆえ、出来云々も含めて、じつは映画自体はどこまでも想像の域を越えぬ印象しかもたらさなかったが、それでも今回の映画は、原作が十全に展開しきれていなかったテーマやモチーフを映像的ないしは図像的にハッキリと示すことで、原作の持つ批評性や問題意識を最大限に引き出そうと試みていたように思う。どういうことか。

 おそらく本作を見た者はみな「美とは何か?」という古典的かつ普遍的な問いに多少なりとも直面せずにはいられなかったはずだ。全身を整形したトップモデル・りりこの栄華と凋落を描く本作だが、彼女は強迫的なまでに「美しくあること」、そして、その結果として「売れつづけること(ちやほやされつづけること)」に拘泥する。

 では、その「美しくある」とは、どのような状態を指すのか。

 むろん古今東西、優れた知性の持ち主たちが美をめぐって頭を悩ませてきたわけだが、それらのあまねくすべてを把握するのはおよそ容易ではない。だから、ここではあくまで基本的な事実を確認するにとどめるが、私見では、美をめぐる問題はそのじつ次の一点にかかっているように思われる。

 それは、美とは絶対的であるのか、それとも相対的であるのか、ということである。すなわち、美的価値とはそもそも事物に先天的かつ内在的で、何ものにも依拠することなしに唯一的に独立した価値を有しうるのか、はたまた事物の美醜を判断しうるには、その判断材料となりうる比較対象を必要とし、ほかとの差別化によってはじめて生起しうる価値なのか、ということだ。

 多くの場合、後者の考え方でもって美は認識されるわけだが、本作において沢尻演じるりりこが、メイクする際をはじめとして、ふとした拍子に鏡でみずからの顔を見つめるショットがじつに多く、それゆえ印象的であることは示唆的だ。すなわち、みずからの顔を鏡に映して自身の美を再=確認しつづけないことには(つまり差異化させつづけないことには)、りりこは自分の美を認識できないからだ。

 ここから少し自由な連想を試みてみよう。りりこが鏡に映った自身の鏡像にたいして「鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのはだあれ?」という、あまりに使い古された文句を問うシーンが劇中には存在するが、ゆえに鏡は、みずからの美醜を逐一確かめる手段として、そして容易には欠くべからざるものとして存在する。それは、家を出かけるまえに、または公共トイレで、あるいは入浴した際に、そして寝るまえなど、かならずと言っていいほど、鏡で自身の姿を再=確認しつづける私たちにも(彼女ほど強迫的ではないにしろ)素朴な実感として理解できるはずだ。

 しかし、このとき、りりこにとって「鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのはだあれ?」と問うことは、私たちのようにみずからの美醜の判断をあくまで現実的な範疇に措定し、ある時点との比較や差別化によって相対的に評価することではないはずだ。

 おそらく彼女には、「この世でいちばん美しいのはあなたです」と優しく囁いてくれる絶対的な他者、言うなれば、自身の美を無条件に特権付ける神のような存在が必要とされているのであり、その眼前に召喚されなければならないのではないか。

 けれど、むろん(少なくとも劇中には)そんなものは存在しない。したがって、彼女にとって鏡を見ることは、鏡に映った己の姿をどこまでも己の似姿として、あくまでも一応の自己として認識することでしかない。もちろん私たちにとっても鏡を見るという行為は本来そうであるはずなのだが、私たちは、そんな果てしのない差異化の過程に「これは私の顔である」という留保を挿みこんでいる。ひらたく言えば、日常生活を送るためにどこかで折り合いをつけているのだ。

 が、りりこは「鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのはだあれ?」と問うてしまったことで、絶対的な他者の存在をどこかに存在すると措定してしまい、みずからの美の無条件な特権付けを求めてしまっている。しかし、それがないものねだりであり、どこまでも虚しく空転し続ける試みでしかないことは言うまでもあるまい。

 他方で、物言わぬ他者でしかない鏡像は自身の美を価値付けてはくれないのだから、それゆえに鏡に映っている自身の顔が、真に私自身の顔であるということをどうやっても自明視できず、「今は美しくないから本当の私ではない」「美しくなければ私ではない」という不断の留保と言って差し支えない倒錯行為に淫するほかないのである。

 このように今回の映画化は、美にたいする強迫観念を「鏡像」「鏡を見つめるりりこ(沢尻エリカ)」という図像を利用することで端的に示そうという試みであるわけだが、それと同時に、じつはここで岡崎の漫画が重要な意味を持ってくる。どういうことか。

 夏目房之介によれば、岡崎や桜沢エリカの漫画に特徴的なスクリーントーンをズラして切り貼りする手法は、岡崎にかぎって言えば、社会とのズレ、他人とのズレ、そして自分自身とのズレを象徴している(『マンガはなぜ面白いのか』)。つまり、岡崎の漫画に出てくるキャラクターたちはみな、自分の存在をいわば固着・同定することに失敗しているのだ。

 ここで映画版の「鏡を見つめるりりこ(沢尻エリカ)」というショットの意味が、よりあきらかになってくる。すなわち、鏡を見ることでズレを修正し、みずからとみずからの美を必死に固着・同定してゆく試みに他ならない。しかし、前述したように、自身の鏡像はつねにみずからを差異化してしまうし、「鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのはだあれ?」と問うても鏡の中の自分は答えてくれないのだから、差異化と固着・同定のあいだで彼女は引き裂かれ続けるしかなく、それは彼女のアイデンティティに亀裂が入ることを意味すると言ってもよい。このとき、監督である蜷川をして「現場での彼女(沢尻)はりりこそのものでした」と言わしめるほどであった沢尻が、芸能活動を一時休止してしまうのもひとえにアイデンティティ不安によるものである、とするのはあまりに穿った見方だろうか。

 さて、みずからとみずからの鏡像はそのまま「見る私」と「見られる私」に言い換えうるが、それを消費社会的な文脈に置き換えてみれば、そこでは、雑誌の表紙を飾る「私」やコマーシャルに出演した「私」といった自身の複製イメージが大量に流通しており、それは「見られる私」の拡散した世界だと言える。りりこはここでもまた、自身の鏡像に苦しめられたように、社会に流通する自身の複製イメージに怯え、翻弄されることとなる。

 少なくとも、りりこにとって、みずからの複製イメージを操作することも統御することも叶わないが、この、いわば「増殖する自己」とでも言うべき自身の複製イメージの氾濫は、すぐれて消費社会的な事態であり、映画もその点にかんしてはていねいに描写していた。このとき、自身の複製イメージが氾濫しきった末にみずからに戸惑いを惹起し、叛乱を起こす、というのは、これまたすぐれて複製メディアである映画らしい事態だ。

 複製イメージの氾濫=叛乱というモチーフを図像的に扱った作品にダーレン・アロノフスキーの『ブラック・スワン』があるが(くわしくは藤田直哉氏の「無限に拡散する自己「像」を肯定できるのか?」http://www.flowerwild.net/2011/05/2011-05-19_102707.phpを参照されたい)、それに比して映画版の『ヘルタースケルター』は、上記のモチーフはあくまでも物語のレヴェルにとどまる。したがって、映像表現的にはスリリングさにいささか欠ける(註1)。

 だが、繰り返せば、『ヘルタースケルター』における複製イメージの氾濫は、消費社会的な事態として描かれる。上述した雑誌の表紙やコマーシャルをはじめ、街頭のポスターや広告看板など街中の至るところに、りりこは、みずからの氾濫した複製イメージを見つけださずにはいられないはずだ。

 藤田氏によれば、『ブラック・スワン』は、複製イメージの氾濫=叛乱というモチーフを扱いながらも、プリマドンナの大役を果たしたのちに舞台上で潔く散るという特権的な死ゆえの生の唯一性という結末にモチーフを収束させていってしまうために、あまりに安易かつ陳腐だとしているが、それでは『ヘルタースケルター』では、上記のモチーフをどう収束させていったか。

 じつは本作のクライマックスは、映画オリジナルである。それまで、ほぼ原作に忠実であった本作が、なぜかここに来てとつぜん脱線するのだ。原作では、りりこは記者会見には臨まず、控え室で事におよぶことで、いわば密室の出来事となり、真実かどうかもわからぬ噂だけが世間に流布していくことになるわけだが、映画版のラストでは、りりこは記者会見に臨み、報道陣のカメラによる凄まじいシャッター音とフラッシュのなか、みずからの右目をナイフで突き刺してみせる。

 このシーンのりりこには、「みなさんはいつもとても飽きっぽい」けど、それでも「見たいものを見せてあげる」とばかりに、りりこのライバルとして登場するこずえ(水原希子)の言うような「欲望処理装置」として振る舞いつつも、それでもなお自身の複製イメージを操作し、統御することへの圧倒的な意思が感じられる。それは、言うなれば「イメージの固着・同定」に挑んでいるといったところか。

 自分の眼をナイフで突き刺す「瞬間」を描かなかったことで、あらゆるイメージを喚起する余地が原作にはあるのにたいし、その瞬間を捉えてしまうこと、すなわち、そのイメージを占有してしまうことは、逆説的にそれ以外のイメージが発生する余地を認めない。イメージを固着・同定することで、その複製化を防ぎ、コントロールする。コントロールされた「みずからの右目をナイフで突き刺してみせる」というイメージだけが、巷間を伝播してゆくのだ。

 岡崎の原作では高度消費社会の速度でもってゴシップやスキャンダルをひたすらに加速させ、消費者たちの飽くなき欲望を充足させる様を描いていたが、ほんの微かながらも映画版は、消費社会あるいは今日の情報社会におけるイメージの操作と統御を通じて、いわば波乗りしてみせるような力強さを感じさせてくれたと言える。

 そして、そのことは私たちにとっても決して例外ではない。ソーシャル・メディアという情報環境の登場によって、アンディ・ウォーホルが「人は誰しも生涯のうちに15分間だけ有名になれる」と言った社会が訪れつつある今日では、いまや私たちはみな、りりこ化するか、あるいはりりこのような振る舞いが求められている。このとき、りりこは私たちに問うているように思う。おまえらに「欲望処理装置」になる覚悟はあるのか、と。

 本作の映画化にあたって数多くの関連書籍が出版されたが、じつに多くの人びとが「岡崎京子は八〇年代の漫画家」という認識を共有していた。なるほど、たしかにそうかもしれない。思えば岡崎は、バブル景気を背景にして登場した文化や消費者たちとほとんどセックスするかのようにしてそれらを漫画に描いていたのだから、九〇年代以降の若者が彼女の漫画をいま読み直すとなれば、それはもしかしたら国語の教科書に載った小説を読むのと感覚的には違わないかものしれない。だが、ここでの数々の議論は、岡崎京子はちっとも古びていないという確信に基づいて、すべて2012年という現在から試みたつもりだ。本稿をきっかけにして、少しでも多くの方々が岡崎京子を「現代的」に読んでくれたら、筆者としては望外の喜びである。

(註1)ところで、じつは『ヘルタースケルター』と『ブラック・スワン』には、驚くほどの共通項と類似性が散見される。そもそも両作は、一方はモデル業界の栄光や確執を描き、もう一方は有名バレエ団のトップゆえの葛藤を描くというちがいはあるものの、ショウビズ界の裏側や暗部を描いている点でなかなか似通っていると思うのだが、それらすべてを検証する余裕はないので、ひとつだけ見ておこう。

 それは、両作ともに見いだすことのできる、過剰に密着した「母娘」関係だ。かつて成功を夢見ながらも為しえなかったのであろう母親が、娘を傀儡として利用することで自分の願望を実現させるという物語類型は、『ブラック・スワン』では、じつの親子である母娘の努力と苦難の物語と要約するにはあまりに神経症的であった。そして『ヘルタースケルター』においては、桃井かおり演じる芸能事務所の社長(ママ)の若かりしころの写真を見た、りりこのマネージャー(寺島しのぶ)が「りりこはママの「反復」もしくはレプリカントだったのである」と言うが、ここにもまた擬似的とはいえ、みずからの娘の人生を操り人形のごとく左右する母の姿を看取することはいささかも困難ではないはずだ。

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