限界研blog

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白井聡×藤田直哉 トークショー@紀ノ国屋書店新宿本店(2013年6月16日)


「10年代論壇の行方――3・11以降の政治と物語、そして想像力」(1/2)
レポーター:海老原豊


限界研の藤田直哉が単著『虚構内存在』(作品社)を片手に、新刊『永続敗戦論』(太田出版)を刊行したばかりの政治学者・白井聡と対談。一方に筒井康隆というフィクション=文学が、他方に「永続敗戦」というタームで戦後日本のレジームを語るポリティクス=政治がある。6月の日曜日、新宿は紀伊国屋書店本館のイベントスペースで、50人ほどの観客を前にしてこの両者は衝突し、「10年代論壇」を見据え、語り合った。ここでは、トークショーの様子を紹介してみたい。

虚構内存在――筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉

虚構内存在――筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉


まずは藤田も白井も自著の説明をし、互いの著作とその関心ごとが交錯する地点を探る。


藤田によれば、筒井康隆は、戦争、60年代ラディカリズム、ポストモダン、タブー(宗教や政治的正しさ)といった政治的なものとたえず関係しながら自身の文学キャリアを築いてきた作家だ。だから筒井文学を研究することは必然的に政治について考えることになる。また、日本SF第一世代の筒井は、マンガ、アニメ、特撮といった戦後日本のサブカルチャーの想像力の源泉のひとつでもあった。筒井の概念「虚構内存在」はそもそも、フィクションの登場人物について考えるために筒井が作った理論だが、メディア越しに自己イメージが構築される今日であればなおいっそう、この虚構理論は「使える」のではないかと、「虚構内存在」という概念の可能性を藤田は説いた。


白井は「永続敗戦」とはトロツキーの「永続革命論」を踏まえた白井の造語であり、一見すると悲しい「永続」や「敗戦」というこの言葉こそが、真実を突けるのではないかと言った。1945年を「敗戦」とし、戦前/戦後という線引きがなされる。この整理はもちろん嘘ではない。しかし、一面をとらえただけではないのか。権力の構造、システム、人間的なつながり、戦前−戦中−戦後には確実に連続性がある。もともとはA戦犯である岸信介、そしてその孫がいまの総理大臣・安部晋三なのだ。私たちは「負け戦」の処理をしっかりしていないのではないか? 誰が責任をとったのか? 民主主義であり平和主義である社会の表層は豊かだが、ここ10年、たとえば貧困として顕在化した格差問題といった社会問題が生じてきたのは、『永続敗戦論』でもキーワードとしてとりあげられている「否認の構造」が終わりに近づいたことと関係しているのではないかと白井は問いかけた。


そうしていよいよ両者が共演する「舞台」が作られる。


藤田は、3・11以降、オタク・サブカル言論人の「政治化」を指摘。それ以前であれば政治をやらないことがオタクの美学であったのに対して、3・11以降、何人かの指導的言論人が急速に政治に舵を切ったとした。白井から、オタクの美学がそもそも非政治的である理由を尋ねられ、藤田はバブル以降もオタク・サブカルが供給する虚構においては多幸感を感じることができたという意見を紹介した。


オタク・サブカルの想像力と政治のかかわりということで、白井は自身が高校3年生で直面したオウム事件へと話をつなげ、そこに藤田が上祐史浩のツイート「オウムと在特会(在日の特権を許さない市民の会)は似ている」とはさんだことから、トピックは「在特会」へとシフトした。(1/2)