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荻上チキ『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか』【評者:海老原豊】


「ダメ出し」をしない、「ポジ出し」をしよう、と荻上はいう。


日本が直面している「どん詰まり感」、先の見えなさをなんとかするための具体的なやり方を考えていくこと。本書の目的はそこにある。一見すると「脱成長」スローガンと似ているように思えるが、そうではない。脱成長時代は「モノはないけど心は豊か」というイメージと異なり、弱肉強食のパイの奪い合い社会になる可能性が極めて高い。それは今の社会をさらに濃縮して、かつ良いところを捨ててしまうようなもの。では脱成長以外の脱出方法とは何だろう。


日本の経済状況は赤字続きの火の車の家計。当然、これまでの依怙贔屓的な再分配は通用しない。「支出を減らし収入を増やす」ために財政(国家の会計)でできることは何があるか。(1)支出を減らす(公的支出の削減)、(2)収入を増やす(増・税収)、(3)借金を増やす(国債・公債を刷る)の3つがまず考えられるが、(4)経済成長、(5)効率化(コスト・パフォーマンスの最適化)の2つも考慮に入れるべきだと荻上はいう。いそいで付け加えるならば、(2)の「増・税収」は「増・税率」から必ずしも導かれるわけではないと注意を促している。


(5)「効率化」には、その政策の背景にある3つの要因「構造要因」「制度要因」「景気要因」を考えることが必要である。生活保護が例としてあがっている。「構造要因」は失業保険、障害者福祉、年金制度が不十分であるから、生活保護受給者が増えているという現状があること。生活保護受給者の9割は「高齢者・障害者・傷病者・母子家庭」である(世の中のイメージとは異なり)。「制度要因」は、はたして現行の生活保護制度が、受給者の「経済的・社会的自立」を促すものかということ。生活保護受給者は、原則的に貯金ができず、貯金がなければ社会参加(就職や修飾のための勉強)へとなかなかつながらない。はっきりいえばこれは制度的な不備だ。だとしたら、法改正で直すことができる。最後の「景気要因」は、景気がよくなれば、失職など経済的な理由から生活保護を受給している人たちの数が減ることは想定されること。


社会を良くしていくための政策を立案・実行・検証するときに、「コスト・パフォーマンス」「副作用」「効果を与える先(国民益になっているか)」の3点を考慮すべきだと荻上は言う。メディアや政治家が官僚批判を繰り返すが、その背景にあるのは「国民益」と「省益」の対立である。


衆議院選挙が近づいてきているが、政党が乱立している状態で、何を選んでよいかわからないという声はよく聞く。荻上は、ざっくりと右=保守=伝統=統治者の発想=個人の道徳/左=確信=理性=弱者の立場=社会環境にわけて、その間をグラデーションのようにさまざまな政治家・論客・メディアがひしめいているのだとする。もちろんこの右/左の配置は、とりあげる話題によって時に入れ替わることもある。この右/左の対立軸は、しかし「低成長時代」に突入した私たちの社会では、両陣営とも「縮退モデル」になる傾向がある。縮んでいく経済を、どうやって支えていくのか、という問題へとずらされて。右からも左からもアイディアは出てくるだろうが、この前提は共有されている。いずれにせよ注意するべきは、ともすれば「頭でっかち」になりがちな個人を視野にいれた対策ではなく、個人がおかれた環境を対象にするべきだ。個人の頑張りには限界がある(当たり前か)。


これからの社会設計を考えるのに、「〜すべき」という倫理的な動機だけではなく、そうした方が合理的であるという功利的な動機もあわせて考えるべきだ。人間の「やる気」は有限である。長く続けるために根性が必要なものは、そもそも長続きしない。それをやったほうが長期的に見て利益を得られるということが説得的に示され、かつ共有されれば、短期的な不利益(にみえるもの)も合理化することができる。効率的なお金の使い方、とはこういうことなのだ。


●欲望のダウンサイジング?


ここまで荻上の主張で面白いと思ったところを拾い上げてみた。いろいろと細かく具体的な方策が展開されているのだが、実は一番、面白かったのは「欲望のダウンサイジング」を私たちは(無意識に?)しているのではないか、という指摘だった。私たちはそれなりの環境適応能力をもっている。20年の不景気という環境にもそれなりに適応できる。「コンサマトリー(自己充足的)」ともいわれるが、「私たちってけっこう、満足しているよね」というこの充足感覚。たしかに社会にモノはあふれているし、世界水準で見れば日本は豊かだ。だが、適応した結果から物事を見ようとする(見る)ことは、問題の本質「そもそも、どうしてそのような適応が必要だったのか」を覆い隠すことになる。適応後の視点からならば、適応という行為そのものも合理化される。この豊かさを維持するための長期的展望を考える、という必要だけれどかなりしんどい作業になかなかリソースが割かれないのは、このあたりに原因があるのではなかろうか。私たちが良かれと思っている「ダメ出し」が、結果として現状肯定にしか繋がっていないこととも関係している気がする。