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SF論争史にみる二項対立の運動−−巽孝之編『日本SF論争史』(勁草書房)

これまでのあらすじ☆


第15回 文学フリマに出店します!!
http://bunfree.net/


日時 11月18日(日) 11:00〜17:00
場所 東京流通センター
ブース 限界研 (エ-32)


新刊『genkai vol.2』は『渡邉大輔評論集』と『海老原豊評論集』の2本立て。そのうちの『海老原豊評論集』での鍵概念「二項対立の運動」を、巽孝之編『日本SF論争史』をテキストに展開しているのが本稿。

日本SF論争史

日本SF論争史

 本書には日本における「SFとは何か」論争が収録されている。本書を通読したからといって、「SFとは何か」という問いへの共通見解にたどり着けるわけではない。SFの起源/定義をめぐる言説は膨大、普遍的かつ妥当なSFの定義をすることは困難極まりないのだ。論争史から見えてくるのは、スペクトラム上に広がるSFの定義群と、群雄割拠と呼ぶにふさわしい互いのぶつかりあい。SF論がSFを立体的に捉えなおすように、SF論争史はSF論をさらに立体化しようと試みる。


 SF論のスペクトラムの両端を、ファンダムで古くから使われてきた用語で名づけると、S派とF派になる。Sとはサイエンス、つまり現代社会は科学がその根本にあり、科学を的確に描くことこそが何より現代社会、ひいては人間の姿に肉薄するという発想。私たちの生活・思考・行動にも科学の影響があり、科学と人間をいかに接続するのかを追及することがSFの使命だとするこの立場は、「本当の人間を描きうる」と考えればある意味で純粋な文学だともいえる(もっとも、何が「本当の人間」なのかは自明ではないが)。一方Fとはファンタジーのことで、これは科学的要素よりも、物語的要素を重要視し、娯楽(エンターテイメント)性に重きおく立場。もちろん科学も大切だと考えるが、それはあくまで「それなりに」であり、論者にとっては例えば「科学的発想法」といったものへと抽象化される。SFのSをサイエンスではなくスペキュレイティブと積極的に読み替える様子にも見て取れる。まとめると、Sはリアリズムとしての科学、Fはロマンティシズムとしての科学となる。ロマンティシズムとは、抽象化・理念化された科学で、現実の対応物の有無とは関係なく、柔軟な思考法・発想法の中に結晶化する。


 繰り返すがこのSとFは、S−Fスペクトラムの両端に位置している。『論争史』に登場する論者たちは、主にF派が多いが、論争が成立する背景には、このスペクトラム上における立場のズレがある。論争は、各論者の定義するSFがスペクトラム上でズレていて、それぞれ衝突した結果、生まれる。「だから」(順接を使う理由は、理由がまったく同じだからだ)、永遠に議論はかみ合わない。そして時にはさらなる論争をするために、意図的に相手を極限に押し込めるといった作戦も取られる。


 『日本SF論争史』が、過去の論争を再録しているだけ(序文や資料も加えられているが)にも関わらず、脱歴史的で強力な批評性を持ちうるのは、ひとえに論争の再配置を通じて脱構築的とも形容しうるSとFの動的な係わり合いを鮮やかに照射しているからにほかならない。