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映画『けいおん!』海老原豊レビュー【評者:海老原豊】

日常の空気に瀰漫した終わり 『けいおん!』から『氷菓』へ 
映画『けいおん!


評者:海老原豊

――でもね、会えたよ 素敵な天使に
卒業は終わりじゃない これからも仲間だから

 これは、映画『けいおん!』で、唯たち卒業を迎える軽音部の3年生たちが、たったひとりの後輩である梓に向けてつくったサプライズ・ソングの歌詞のサビだ。(1)ドラマチックな展開の不在、(2)登場人物のコミュニケーションの焦点化の2点を特徴とする「空気系」作品に分類される『けいおん!』のエッセンスを凝縮したような歌詞といえる。

 一見すると、「卒業」を「終わり」としない態度は、宮台真司がかつて提唱していた「終わりなき日常を生きろ!」というスローガンと共鳴しているように思える。あるいは、女子高生たちの日常的なコミュニケーションを主題として切り取った「空気系」作品は、宮台真司オウム真理教への解毒剤として処方した「コミュニケーション・スキル」を作品表象の水準に落としこんだものとも映るかもしれない。しかし、本当にそうなのだろうか? 代表的空気系作品(『あずまんが大王』、『らき☆すた』それに『生徒会の一存』など)のなかには、日常的コミュニケーションを中心にすえながらも、登場人物たちは年をとり、場合によっては仲間たちとの別れ(=卒業)を経験するものがある。「空気系」に描かれる「終わりなき日常」は、決して『サザエさん』のような無時間的なものではない。微視的に観察しドラマを発見できなくとも、巨視的に観れば時は流れている。

 つまり、空気系は「終わりなき日常」ではない。それに『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のような無限ループ的な無時間性でもない。普段と変わらない空気がそこにありながらも、その空気その場その仲間たちは時間の流れの中にある。「空気」に「終わり」が浸潤してきているのが、昨今の空気系作品が描く日常だといえる。
考えてみれば『けいおん!』には、日常的コミュニケーションの前景化と、単線的な時間経過の後景化がセットとして描き込まれている。例えば、高校3年になった唯たちが、高校2年の梓の後輩となる高校1年生の新入部員の獲得に励みながらも、断念し、ペットとしてスッポンモドキの「トンちゃん」を飼う決意をしたとき。軽音部の部室へと続く階段の手すりにもオブジェとして鎮座しているが、カメ(スッポンモドキ)は遅延した時の象徴だ。軽音部の日常的コミュニケーションは継続していくものの、彼女たちの進級・進学・卒業を阻むものはどこにもない。劇場版『けいおん!』で、唯たちは卒業旅行先のロンドンでさまざまな「ぐるぐると回るもの」(空港で荷物を載せるベルトコンベアー、回転寿司、ロンドンの観覧車)に出会う。これらは循環的な時間の象徴ともいえるが、もちろんこれらのアイテムに彼女たちの卒業を遅延する力などない。

 日常の空気には、時の経過という終わりが瀰漫している。「日常=空気/終わり」という等式で表現できるこの事態は、なにも漫画・アニメ・ライトノベルの「空気系」作品だけに限ったことではない。ミステリのサブジャンル「日常の謎」の「日常」にも、この等式はあてはまる。具体的には米澤穂信の『氷菓』から続く〈古典部〉 シリーズ、『春期限定いちごタルト事件』で幕を開けた〈小市民〉シリーズに、しっかりと観察される。『氷菓』が、『けいおん!』を制作した京都アニメーションによってアニメ化されているのは、単なる偶然にしては出来すぎだろう。米澤は「日常の謎」ミステリの形式を借りながら、『けいおん!』に前景/後景の重ねあわせとして結晶した「空気/終わり」へのひとつの応答をしているのではないか。『けいおん!』から『氷菓』への流れを、そう考えられないだろうか。

……この議論の続きは、限界研編『21世紀探偵小説』(南雲堂)収録の「終わりなき「日常の謎」」で。

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海老原豊(えびはらゆたか)
1982年東京生まれ。第2回日本SF評論賞優秀作を「グレッグ・イーガンとスパイラルダンスを」で受賞(「S-Fマガジン」2007年6月号掲載)。「週刊読書人」「S-Fマガジン」に書評、「ユリイカ」に評論を寄稿。