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『生者の行進』レビュー【評者:蔓葉信博】

石野晶『生者の行進』


評者:蔓葉信博


 石野晶『生者の行進』が刊行されたとき、そのなかにはさまれていた投げ込みチラシには次のような紹介文が添えられていた。「SFでも、本格ミステリでも、ハードボイルドでもたぶんない新しいハヤカワ文庫JA」。そして、本書を含めた4冊のラインナップが紹介されていた。そのラインナップこそが、新しいハヤカワ文庫JAのすがたなのであろう。その後しばらくたって発売された「ハヤカワミステリマガジン」2012年8月号には、その4冊の特別紹介コーナーがあり、そのリードコピーであげられるジャンルイメージとは異なった傾向の作品を刊行していきたいということのようだ。確かに『生者の行進』は、これまでのハヤカワ文庫JAのイメージにはない新たな風を起こす作品であることは間違いない。表紙のイラストからも想像できるような爽やかな高校生たちの姿を、痛ましくも繊細に描いた青春ミステリであった。

 本書は、男子高校生の島田隼人が、入院中の友人を見舞う場面からはじまる。ただ、見舞うといったものの、その友人の亮介は病室にやってきた隼人を一貫して無視し続け、隼人は隼人でそれにもかかわらず学校での出来事を彼に話し続けるというやり取りに終始する、そんな奇妙な見舞いだった。
 二人の友情をここまでもつれた状況に追い込んだのは、隼人の一つ下のいとこである藤原冬子が原因だった。幼い頃から、隼人と親しいつきあいを続けてきた彼女はまるでビスクドールのような美貌の持ち主だった。そんな彼女は、幼稚園のころから同性の友達を作らず、男の子のなかで女王蜂のように振る舞っていた。そして、小学校のある時期から隼人の大切なものを奪うようになり、その対象はやがて隼人の男友達へと変化していった。

 冬子はその美貌を使い、隼人の男友達を次々と恋愛ゲームをけしかけ、自分に夢中にさせては振るということを繰り返してきた。亮介もその恋愛ゲームの被害者のひとりだった。おかげで隼人には男友達がいない。冬子は隼人の大切なものをどうしても奪いたいのである。彼女は、いとこであるはずの隼人のことが好きなのだ。隼人は冬子のその気持ちを知りつつも、彼女を好きにはなれなかった。どうやらふたりが抱え込んでいる共通の秘密が、このような関係を成立させているようなのだ。

 そんな歪なふたりの関係も、冬子の連れてきた親友、細山美鳥によって変わろうとしていた。美鳥は冬子と違い、おっとりとしたかわいらしい少女だった。隼人が見舞いに訪れていた病院で、隼人と美鳥は冬子も予期せぬ出会いをとげる。階段の踊り場から落ちてくる美鳥を、隼人か間一髪庇って助けたのだ。隼人もあとで知ることになるのだが、美鳥はどうやら自分とそっくりなドッペルゲンガーに驚いて気を失い、階段から転落したらしい。この出会いから、やがて隼人たち少年少女は、みずからが犯した罪と向き合うことになるのであった。

 当初、青春ミステリという言葉が持つ爽快さをどこか予期しつつ本書を読み進めていくことだろうが、すぐにこの作品は爽快な青春の輝きをそのまま映したような作品ではないのだとわかってくる。登場人物たちのその言葉のやり取りに、当人たちも割り切れない毒が見え隠れするのだ。個人的には、倉数茂『黒揚羽の夏』が持つ作品の手触りに似ていると思えるが、主要な登場人物の配置も含め一番近しいのは、やはり恩田陸六番目の小夜子』なのではなかろうか。

 『生者の行進』も『六番目の小夜子』も、作中に明るく楽しそうな高校生活の一場面が描かれる。だが、その青春期の輝かしい一瞬一瞬を見せていくなかで、不意にその場面から一転、本書は冬子たちの胸の奥底に潜ませている仄暗い沼地に読者を巧みに誘う。『六番目の小夜子』は、登場人物たちを惑わせるサヨコゲームの魅力も当然のこと、そのゲームに負けるとも劣らない小夜子の謎めいた行動にも、人々を惹きつけるものがあったはずだ。

 『生者の行進』でいえば、その魅力の大きな部分を占めるのは、冬子の存在である。わかりあっているはずの隼人と、どうして歪な関係を築くことになったのか。それは次第に明らかになる。あたかも『六番目の小夜子』ではぼかされたままだった小夜子の真意を説明するようなことにも繋がるかのような展開に至る。読者にとって冬子は小夜子ほど高校生離れした存在ではなくなっていくのである。

 かといって、冬子の魅力がなくなるのかといえば、そうではない。氷のように冷酷に振る舞っていた冬子だが、実は胸の内に秘めていた彼女の揺れ動く心を知ることで、読者は冬子の新たな魅力に気付かされることとなろう。だが、にもかかわらず、冬子は自らが持っていた悪意を手放しはしないのである。というよりも、冬子も自らが放ち育てた悪意に縛られた一人なのだ。彼女は人を苦しめ、そして自らも傷つきながらも、その悪意と袂を分かつことができない。それが、小夜子とは違った冬子の魅力に繋がるのだ。

 登場人物から転じて、作中に表れるその不意の転換の魅力だけを取り出してみれば、ひょっとすると連城三紀彦の作風と評した方がいいかも知れない。ドッペルゲンガーの仕掛け自体は、さほど読者を驚かせるようなものではなく、その意味ではミステリとしてのどんでん返しの技巧性が高いわけではない。ただ、かといって油断をしていると、冬子や隼人の企みに、読者は翻弄されることだろう。

 おそらくその不意の転換が見せる裏切りの鮮やかさは、場面場面の台詞使いの巧みさもあるが、ノートや手紙といった登場人物の気持ちを表現する道具の使い方によるところが大きいのではなかろうか。気持ちを表現するという表現からは離れるが、絵画やはさみなどの使い方も実に印象的なものであった。人はしばしば、何かを媒介にすることで、直接伝えたとき以上の感慨をその媒介越しに見いだしてしまうものである。その意味では、むしろ地の文では登場人物たちの悪意を説明しがちにも思えたが、それは個人的な好みの範疇を出るものではない。むしろ、そうした比較をしたくなるほど、道具の使い方は巧みだと思えるのだ。

 ミステリは、かつてもそうだし、今もそうであると個人的には信じているが、畢竟、悪意をかたちにしたものである。たとえ、互いの誤解から生じた不幸な事件であっても、その誤解を納得してしまう登場人物たちの心理の背景に、相手の悪意を見て取ってしまう人の心の作用があるかぎり、悪意は常に人のとなりに寄り添う。もちろん、その悪意が諫められる場合もあれば、薄っぺらな悪意として流されることもあろう。その一方で、悪意が決して浄化されず、かたちをかえて残り続けることもありうる。そうした悪意の変容を青春ミステリのなかで見事描いた作品として、本書は今後も語り継がれるべき一冊といえるはずだ。


生者の行進 (ハヤカワ文庫JA)

生者の行進 (ハヤカワ文庫JA)

六番目の小夜子 (新潮文庫)

六番目の小夜子 (新潮文庫)

蔓葉信博(つるばのぶひろ)
1975年生まれ。ミステリ評論家。2003年商業誌デビュー。『ジャーロ』『ユリイカ』などに評論を寄稿。『ミステリマガジン』のライトノベル評担当(隔月)。書評サイト「BookJapan」にてビジネス書のレビュー連載。
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