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笠井潔『機械じかけの夢』クロスレビュー


笠井潔『機械じかけの夢 私的SF作家論』書評
  世界中に第二、第三の「私的SF作家論」を

評者:飯田一史

 SFを文学のサブジャンルとして扱うのではなく、SF固有の原理を探求する。
 
 本書のねらいには共感するところが多い。先日刊行した私の本もライトノベルを一般文芸へのステップ(踏み台)としてではなく、ライトノベル固有の魅力を説明しようと試みたものだったからだ。

 とはいえ、この言い方は因果関係が転倒している。ジャンルの自律性を説く笠井のSF評論やミステリ評論から影響を受けていたから、私はそうした発想をしたのかもしれない。
 
■近代批判としてのSF 笠井潔の論理構成

 私の話はさておき、笠井の論理構成について確認しておこう。

 主体と客体、幻想と現実、人間と自然とが分離した近代において、人間が象徴的なものの渇望を埋めんとする表現行為のひとつが本格ミステリであり、群衆蜂起であり、SFである。これらはすべて、笠井にとっては近代的な価値観を批判する試みなのである。
 
 笠井はSFを科学(機械)+文学(夢)と定義し、ここでいう「科学」とは自然科学のみならず社会科学、人間科学を含むとする。SFにおける「科学」とは、相対性理論によってニュートン物理学が書き換えられたことをはじめとして、20世紀初頭に「危機」に陥った(パラダイムシフトが起こった)諸科学の成果、近代科学批判を織り込んだ「科学」なのである。
 
 ゆえにSFを「進化」と「社会」から読む本書は、直線的な「進化」を描くわけでもなければ「社会」に秩序ある姿をみいだすわけでもない。クラークや小松左京に笠井がもとめるのは「管理に対する反抗」というモチーフであり、彼らが描く上位の知性体の「非人間性」、近代理性を超えたある種オカルティックなコミュニケーション方法(精神感応をはじめとする非言語による意思疎通)に関心を示す。
 
 SFとは人類が近代を超克し、近代人が疎外を回復せんとする(分離された世界を統合しようとする)手段としての「聖なるもの」の探求、現代の神話である。
 
 
サイバーパンクと伝奇バイオレンス 横軸の同型性/同時代性と縦軸の一貫性

 聖なるものの探求、という点で、興味深い点がある。
 
 新版(1990年版)で書き下ろされたウィリアム・ギブスン論である。笠井はギブスン作品のプロットやSF的な発想の「古さ」を指摘し、さほど好意的に思っていないふしがあるが、しかし、ギブスンほど飽きもせず毎度毎度「聖杯探求譚」を書いている作家もいないだろう。近親憎悪のようなものかもしれないが、はたから見れば両者は似ているところがある。ギブスンと笠井はともにベビーブーマー、1948年生まれであり、私がかつてある論考で指摘したように(詳細はここでは省くが)、80年代サイバーパンクの日本での対応物は菊地秀行夢枕獏、そして笠井の『ヴァンパイヤー戦争』に代表される伝奇バイオレンス・ムーブメントである。サイバーパンクにおいてテクノロジーとブードゥが混淆しているように、伝奇もまた、近代と反近代の対立/分離を象徴する聖と俗、光と闇、科学と宗教とが戦い、混じり合い、融和する聖杯探求譚である。海を隔ててアメリカと日本で、同じとしごろの作家たちが、似たようなプロットと似たような意図をもった物語を書いていたのが、本書刊行後に訪れた80年代SF/伝奇の世界である(『機械じかけの夢』は82年、ギブスンの『ニューロマンサー』や夢枕獏魔獣狩り』は84年刊行)。
 
 そして、そういった意味で著者のなかでは過去の仕事に属するSF評論も、歴史の縦軸を眺めてみれば、実はのちに続く(表面的には移り気に見えても本質的には)一貫した仕事のひとつであると言える。
 
 
■本書の限界 同時代の80年代日本SFとの距離

 とはいえ、近代批判の試みとしてSFを読む、という著者の姿勢は一貫しているがゆえに、当然ながら近代批判という観点から読めない作品は評価の対象外となる。だからたとえばル・グィンを最後にして70年代SFのほとんどは扱われないし、新版でもギブスン以外の80年代SF作家は論じられない。
 
 もちろん、ある視点から見える風景にはどうしても盲点が生じうる。かといって、あれもこれもと手を伸ばした結果、焦点が定まらない批評に価値はない。
 
 しかし後続の人間が、著者が落とした部分をあえて見ないふりをする理由もない。
 
 たとえばこの本のロジックでは、笠井が『奇想天外』にこの原稿を連載していたころ台頭してきたSF第三世代≒オタク第一世代の試行(DAICON?は81年、本書刊行は82年)はほとんど扱えないだろう。あるいはソノラマ文庫で展開され、10代を熱狂させた高千穂遙クラッシャージョウ』や笹本祐一『ARIEL』のような80年代SF作品、アニメ『超時空要塞マクロス』を論じるにも、ものさしとして不適当のはずだ。
 
 90年代以降のSFやライトノベルに決定的な影響を与えたのは、DAICON FILMガイナックスであり、80年代ソノラマやサイバーパンクであって、クラークや小松左京ではなかったのだし、それらに熱狂していた団塊ジュニアの関心は「近代批判」にはなかった。

 
 私は団塊ジュニアよりさらにひとまわり下の世代である。14歳で『新世紀エヴァンゲリオン』を観て庵野秀明を知り、レンタルビデオ店で『トップをねらえ!』を借りて感動に打ち震えた最終話のタイトル「果てし無き、流れのはてに…」が小松左京からの引用だとあとから知ったクチである。
 
 だから、本当のところ『機械じかけの夢』と交錯するように展開されていった80年代SFで育った団塊ジュニアのきもちはわからない。しかし笹本祐一妖精作戦』創元SF文庫版解説を熱い筆致で綴る小川一水谷川流の文章を読むにつけ、2000年代SFを彩った彼らの世代によって書かれる「私的SF作家論」を読んでみたいという気にかられる。
 
 そしてそのときにこそ、『機械じかけの夢』がSF史において持つ意味が、あらためてくっきりと浮かび上がるはずだ。
 
 カウンターパートがない状態で屹立している本書は、光の存在しか登場しない伝奇のようなものだ。分離と対立、そして融和の過程が描かれることを、『機械じかけの夢』はもう30年も待っている。

飯田一史(いいだいちし)
1982年生まれ。ライター、文芸評論家。著書に『ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略』。「SFマガジン」で新譜レビュー担当(隔月)。
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機械じかけの夢―私的SF作家論 (ちくま学芸文庫)

機械じかけの夢―私的SF作家論 (ちくま学芸文庫)