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ままごと『テトラポッド』

ままごと『テトラポッド』@あうるすぽっと
作・演出 柴幸男

評者:海老原豊


『わが星』で2010年(第54回)岸田國士戯曲賞を受賞した、柴幸男の新作『テトラポッド』は ゼロ年代の終わり、10年代の始まりを予感させる芝居だ。

 あの日、時間、あの災害、あの出来事。あの・前後の・物語。舞台は、打ち捨てられた教室と、海の底が重ねあわされた空間。時計は止まったまま。針が示しているのは2時46分。何が、いつ、どこで起こったのか。そういうはっきりとした具体的なものは一切、捨象されている。ゆいいつはっきりしているのは2時46分という時間だけ。あの・時間・だけ。

 物語の筋は、非常にシンプルだ。死にかけたものが三途の川で知り合いや親族に「お前はまだこっちに来るな、まだ早い」といって追い払われ、意識を取り戻す臨死体験を想像すれば、理解が早い。(九州)方言のある海辺の街。中心人物は、街に東京から帰ってきた四人男兄弟の三男。母親、兄弟、親戚、友達に迎えられるも、「お前だけいない」といわれる。最初は、彼だけが死んでしまったのだろうと思うのだが、物語が進むにつれ、彼だけが生きているのだと明らかになる。死ななかったことは、幸せであると同時に、このうえなく不幸だ。生き残ってしまった/死に損なったのだから。この物語は、繰り返すが、非常にシンプルで、かつ伝統的(ベタ)なものだ。描かれるスキットは、おもに四人兄弟の話。妻となる女性との出会いから離婚まで。恋人を妊娠させてしまった高校生の動揺。親の葬式と海への散骨。ありそうな話が、ありそうなタッチで丁寧に紡がれる。

 現在という瞬間が、過去と未来の間に挟まれてしか存在しないように、舞台では2時46分のあの瞬間をひたすらに前後するスキットが変奏される。断片をリピート/シャッフル/ミックスさせることで、全体像を徐々に明らかにしていく。

 クライマックスは、一人が一つ楽器を持ち、客入れ時にも流していた「ボレロ」を大合奏する。楽器をもっていない指揮者たる彼のみぶりてぶりは、海でおぼれる姿へと重ねあわされる。登場人物にはみな海の生き物の名前がつけられ(サザエさん? あるいは竜宮城?)、彼ら彼女らの大合奏は、「死に損なった」彼を、もう一度、陸へと押し戻す。かつて海に生まれた生命が、陸へと進み、哺乳類、そして人類を産んだように。柴は、家族の話と、とある海の街を襲った2時46分の災害(大きな波)と、それだけではなく地球における生命の進化の過程(海から陸へ)を「ボレロ」を使って調和させる。一つ一つの楽器が音をかなで合わせるように。

 コンセプチュアルな演出を好む柴の舞台は、たいてい四方を客席に囲まれている。演出の自由度が、そのほうが高いからだろう。今回は、いわゆる伝統的な舞台と観客が対面する配置になっている。柴自身も語っていたが(DULL COLORED POPのPPTで)、あえてそのような配置へと回帰したのは、ラップ的繰り返しを得意とする柴の演出に、変化を加えたいからだろう。リピートからリスタートへ。神経症的に2時46分に囚われた「彼」を進化が先へと押し出す。あの瞬間を瞬間から解き放つ。ゼロ年代を、ベタにループ的な完成がカルチャー/社会に実装された十年だと総括するとき、ままごと『テトラポッド』は、これからの十年を区切る重要な作品だと断言できる。

ウェブサイト: ままごと

海老原豊(えびはらゆたか)
1982年東京生まれ。第2回日本SF評論賞優秀作を「グレッグ・イーガンとスパイラルダンスを」で受賞(「S-Fマガジン」2007年6月号掲載)。「週刊読書人」「S-Fマガジン」に書評、「ユリイカ」に評論を寄稿。