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座談会 東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(前)

座談会 
東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(前)

参加者:笠井潔×杉田俊介×冨塚亮平×藤井義允×藤田直哉


3月10日(木)に限界研編『東日本大震災後文学論』が発売されました。震災とフィクションについて東日本大震災から6年経った今、再び考え直すような論集になっています。
その刊行を記念して新メンバーを加えた限界研会員で座談会を行いました。6万字を超える大ボリュームの議論を前後半に分けて掲載します。3月11日の今回は座談会メンバーの『東日本大震災後文学論』それぞれの論考の話を中心にお送りいたします。

* 限界研『東日本大震災後文学論』と二〇一六年のサブカルチャー

杉田 さて、限界小説研究会(以下「限界研」)の次の論集は『東日本大震災後文学論』になります。今日の場は、その宣伝を兼ねた座談会ということで、限界研の創始者である笠井潔さんにも参加して頂いています。まず、藤田さんから、そもそも限界研とはどんな組織なのか。そしてなぜ次のテーマが震災後文学になったのか。その辺の説明を、簡単にお願いします。

藤田 限界研はもともと、鶴見俊輔の『限界芸術論』から名前が取られています。大衆文化の変化に注目しながら、かつ、それが政治的なものにいかに関わっているかを分析する。そういう鶴見俊輔的なスタンスを受け継いだ会である、と僕は理解しています。サブカルチャー研究が中心の限界研と、もう一つ、震災後の大衆運動(反原連やしばき隊、SEALDsなど)についての研究会があって、笠井さんや僕はそちらにも参加しています。それらの二つを通して、文化現象と政治的社会的運動が分かちもつ大衆的無意識のゆくえを探ってきました。
今回、震災後文学論をテーマにしたのは、純文学の領域でも震災による様々な変化が見られたということが最初の理由です。僕自身が二〇一五年に「文學界」の新人小説月評を一年間担当して、大きな変化を感じました。フリーター・ニート格差社会を主題としていたゼロ年代の純文学とは明らかに変化があると思い、それが時代精神と連動しているように感じました。僕が昨年編集した『地域アート』もいわば「震災後」のアートの本だし、今回僕が一冊の評論を書いた『シン・ゴジラ』も明らかに「震災後」の作品であると考えています。僕の視点だけから言えば、震災後に文化や社会で起こった変化を総体的に捉えるための総合的な布置の中に、純文学編である『東日本大震災後文学論』が位置づけられます。
東日本大震災後の文学作品の変化を――ただし僕の考える文学はたとえばゲームも入っていて、狭義の純文学に限りませんが――調べることで、今の社会の変化が見えてきたり、文学者たちが何を考えてきたかを広く読者とシェアできれば、それがフィードバックして、何か良いことに繋がるかもしれないし、それが批評の役割の一つだろう、と考えています。まずはそんなところで。

杉田 僕は昨年から限界研に参加した「新人」なのですが、約一年間、震災後文学を共同研究としてずいぶん読みまくりました。僕が覚えているのは、最初に、メンバーの中から企画自体に反対の意見があったことです。そもそも震災文学なんて扱うこと自体が倫理的に問題がある。あるいは逆に、「震災なんてもうオワコン」とはっきり突き放した人もいた。おそらくその言葉は、殺伐とした現代の若者の生の中で、なぜ震災ばかりが特権化するのか、という問いをはらんでいたと僕は受け止めました。ともかく、そのような企画自体に対する違和感からこの企画はじまったのを、よく覚えています。
 その後一年間やってきて、最初に企画自体に反対していた人も、各々の真剣さのあらわれだったとわかったんですね。各人に向き合いかたの違いがあって、それぞれみんな真剣だった。一年間の共同作業を通して、各人の原稿もぐっと強度があがった。結構ギリギリまで、相互批評的にお互いを追い込んだ。それはよかったのではないか。実際に、原稿の中身もねじれや分裂をはらんだものが多い。たんに震災の記憶を風化させないとか、現実に対して無力な文学だからこそできることをやろう、みたいな口当たりのいい話ではない。生々しい傷跡が結果的に刻まれた。実際に、災害の映像や小説にあまり多く接すると、トラウマやPTSDを抱えるという話もあって……。

藤田 実際に僕ら、脱稿の前後は、そうなってましたよ。

杉田 震災から六年目の三月一一日に『東日本大震災後文学論』は刊行予定ですけれども、ある種の過酷なトラウマを分かちあった点も含めて、正統派の文学論集になりました。かなり重厚な一冊になったのではないか。そういう自負が、少なくとも僕にはあります。できるだけ多くの人に読んでほしいですね。
 ところで笠井さんは、今は限界研の名誉会員ということで……現在は定例会には参加していませんが、『東日本大震災後文学論』の原稿は事前にお送りして、いくつか読んでもらいました。率直なところ、いかがでしたか?

笠井 まず一つ印象に残ったのは、冨塚さんが坂口恭平村田沙耶香を論じた原稿の、冒頭のところ。震災直後に何か書くこと自体に納得できないものがある、と書かれていますね。そして今年の『シン・ゴジラ』と『君の名は。』で、五年経って、ようやく納得できる表現に出会ったんだと。それがまずなるほどな、と思ったんですね。とはいえ、僕の考えは冨塚さんとは逆で、いったん大きな出来事の直後に発言し、ものを書いてしまった人間は、その後もずっと持続的に書き続けるべきだと思う。やめてしまったら、その程度のものだったのか、と周りから判断されてしまうから。
昨年の一二月に僕が刊行した『テロルとゴジラ』という評論集の最初に、表題作にもなった「テロルとゴジラ」という文章があります。もともとは君たちからの依頼で、限界研の論集に載せるつもりだったんだけど、時間的に間に合わなかった。枚数もだいぶ長くなったしね。それで単著の『テロルとゴジラ』の冒頭にそれを収めることにした。その「テロルとゴジラ」の中でも、いまだに僕は、しつこく、68年革命や連合赤軍事件のことを延々と書いているわけです。だから、微温的にリベラル化し、68年について書くのも考えるのもやめてしまった同世代、たとえば高橋源一郎坂本龍一のような人たちとは根本的に違うと自負しています(笑)。杉田さんの高橋源一郎論については、後で議論したい。

杉田 ところで、『シン・ゴジラ』とともに二〇一六年の話題作だった『君の名は。』はご覧になられましたか。『テロルとゴジラ』では直接的には論じられていませんが。

笠井 観ました。そもそも僕は『君の名は。』がブロックバスター的な大ヒットになったこと、その理由がよく分からない。誰かうまく説明できる人がいたら、ぜひ教えて欲しい(笑)。絵がきれいだとみんな言うけど、絵の美しさ、特に緑の使い方の美しさは『言の葉の庭』のほうが上だと思う。作品としても『言の葉の庭』のほうが『君の名は。』よりもいいんじゃないかな。
もともと近年のアニメでは、SF的なネタを使った少年少女の恋愛漫画がすごく多いわけだよね。最近だと『orange』(原作漫画・高野苺)というタイムスリップや過去改変を扱った作品があったし、未来の声が聞ける少年が出てくる『グラスリップ』というテレビアニメもそうです。つまり『君の名は。』は、SF的な物語としては、よくあるものだと思う。それがこんなに大ヒットしてしまったのは、僕の想像を超えている。

藤田 僕らは今回、東日本大震災についての文学や映像作品を大量に見て、むちゃくちゃ精神にダメージがきたんですよ。鬱っぽくなったし、感情的な言い合いや喧嘩もずいぶんあった。それはそれで刺激的でもあったんですが、正直、疲れたことも事実で。
そんなときに『シン・ゴジラ』と『君の名は』が出てきた。そりゃスッキリするじゃないですか。『シン・ゴジラ』は東京を爽快にぶっ壊してくれて、『君の名は』は歴史改変的に震災をなかったことにしてくれた。世間の人たちは、震災や犠牲者を忘れさせてくれる、こういう感動充足型のエンターテインメントを待ち望んでいた面もあるのではないかと思いましたよ。願望充足や現実逃避は、問題だと思うけど、必要と思う気持ちも分かってしまう部分もあり。フィクションの存在意義を、考えさせられましたよ。

杉田 限界研の中でも、震災後文学に本物の傑作はないのではないか、という消極的な空気が支配的だったところに、『シン・ゴジラ』が公開されて、まさに隕石が落ちてきたようなディープインパクトがあったんですよね。それもまた生々しく覚えています。

藤田 特に飯田一史さんは、ずっと重松清論を書いていたのに、『シン・ゴジラ』を観た途端、『シン・ゴジラ』論へ大きく吹っ切っちゃった。それくらいの破壊力があった。

杉田 飯田さんの論は、論考自体が終盤でぽっきりとへし折れているみたいな、不思議ないびつさがあるよね。それ自体が、現在の震災と文学やエンタメのねじれた関係を象徴していると思う。笠井さんや藤田さんの単著もあわせて、ゴジラの存在は、今回の論集全体に大きな影を落としている。
 さらに『君の名は。』『聲の形』『この世界の片隅に』が公開されて、二〇一六年はアニメ系のエンタメ映画(『シン・ゴジラ』は特撮ですが)にとって、確実に歴史に名を刻むだろう一年になった。震災の影響を受けて、五年かけてそれを物語として昇華してきたわけですね。逆にいえば、いまだに決定打がない純文学と、豊饒な達成を残したエンタメの違いは、どこにあるんだろうか。もっと時間が必要なのか。

藤田 やっとエンターテイメントに震災の経験が昇華できたんでしょうね……。文学作品の場合、構造や語りの技法の面白さはあるんだけど、「おお、これは大傑作だ、歴史を変えた」と言えるほどのものには出会えなかった。限界研の中でもみんなちょっと無理をして傑作を探している、という感じがあった。そこに『シン・ゴジラ』と『君の名は』が来て、何かフェーズが一気に変わってしまった。個人的には、地味で暗くて爽快感のない「文学」の必要性を擁護したい気持ちが今は強いです。

杉田 今回の震災後文学論がもう一年遅かったら、ずいぶん内容も変わっていたでしょう。そもそも純文学中心の論集にはならなかったかもしれない。しかし僕の印象では、『シン・ゴジラ』や『君の名は』は、確かにすごく面白いんだけど、マジョリティとしての日本人・東京人を慰撫し、自分たちはこれでいいんだ、日本人はまだやれるんだ、という前向きな気持ちにさせてくれる。つまり、鬱屈を消し飛ばすような歴史修正的な物語でもあると思う。それがいいことなのか悪いことなのか、批評や解釈を重ねながら、歴史の審判を待つしかない。

* 坂口恭平村田沙耶香をめぐって

藤田 冨塚君はなぜ坂口恭平村田沙耶香を選んだのかを聞きたい。君は最初、この企画にすごく反対していたよね。

冨塚 そうですね。震災を題材としたフィクション化を早いタイミングで行うことには、個人的に強い違和感がありました。震災後の映像作品やアート作品は色々見ていたんですけど、やはりドキュメンタリー志向の作品に光るものがあった。現場を実際に撮影するわけですからね。けれども小説だと、ある個人が頭で考えて物語を書くわけです。しかも多くの場合、直接の被災者ではなく、想像によって書いている。いま現実に起きていることに対して、そういうことをしてしまっていいのか。それが最初の疑問としてあった。そういうものを読みたくない、という強い気持ちがあった。
しかし企画がスタートしたことで、幾つかの代表的作品には読書会を通じて触れることになりました。たとえばいとうせいこうの『想像ラジオ』では、「起きて間もない震災について、文学作品を書いてもよいのか」という書き手自身の逡巡そのものがテキストの中に書き込まれている。それは「俺の考えた震災文学」みたいなものを堂々と出されるよりは全然いい。でも一方でそれは「悩んでいるから書いてもいいんだ」という話なのか。フィクションについては、震災を直接描くのではなく、象徴化の要素や、事実に対するある程度の距離感を持ったものでなければ、なかなか上手く受け止められないという感覚がありました。その点、『シン・ゴジラ』や『君の名は』はエンタメとして十分に見られるレベルのものであって、それぞれゴジラや隕石という象徴によって震災に触れているわけですね。震災を直接描いたり、作者個人の深刻な逡巡や悩みを書くタイプの作品よりも、それらの象徴化されたフィクションの方が私としてはずっと受け入れやすかったです。

杉田 なるほど。

冨塚 最初の『ゴジラ』は一九五四年公開。戦後九年目です。敗戦から十年弱であれが出てきた。そして菊田一夫原作、大場秀雄監督の『君の名は』の三部作映画が完結したのも一九五四年でしたよね。それを早いとみるか遅いとみるかはよくわかりません。今回も二〇一六年に『シン・ゴジラ』と『君の名は。』という二つの作品がたまたま同じ年に大ヒットしたわけですけど、今回はまだ五〜六年目です。最初の『ゴジラ』『君の名は』に比べると、ちょっと早い。きっと、東日本大震災については五〜六年目でそれがエンタメに昇華される準備が整ったんだ、というふうに後々振り返られるのでしょう。
そういう前提がありつつ、私は震災後の作家として坂口恭平さんと村田沙耶香さんについて書きました。坂口さんは震災には深く関わっているけれども、震災についてのフィクションを直接書いているわけではない。震災そのものから考えるというより、彼自分の生活の延長としてそれに触れている。そこがまず私には面白かった。村田さんの方は、震災については直接的には何も書いていない。しかしじつは震災の影響によって、作品にちょっと切断線があったのではないか。それが私の仮説です。つまり、二人とも、まず震災ありき、というダイレクトな関心ではなく、もっと広く、一段階抽象化された形で震災の影響を表現した作家である。ゆえに坂口・村田という二人を選びました。ただ、坂口さんの最新刊の『現実宿り』はおそらくはじめて震災について踏み込んだことも書いています。

藤田 もう少し、震災後文学としてこの二人のどこが重要だと感じたのか、聞いてもいいですか。

冨塚 『ユリイカ』の坂口恭平特集で、杉田さんと篠原雅武さんが江藤淳の『成熟と喪失』に言及していた。ただ、その方向性は異なるものでした。一方で、杉田さんは『成熟と喪失』の成熟モデルを完全に無視して、坂口さんの『家族の哲学』をジャッジすることはできない、という立場を示されているように読みましたが、他方で、篠原さんは『成熟と喪失』のモデルでは捉えられないことを坂口恭平はやろうとしている、そのことを評価している。自分としては今回、篠原さんのラインを敷衍する形で議論を組み立てました。
その上で、原稿のタイトルを「喪失なき成熟」としました。やはり「喪失」はもうあり得ない。もう「喪失」はありえないけど、つまり「喪失から成熟へ」ではない形で、新しいタイプの成熟へ向かっている。そういう作家として坂口さんと村田さんを並べて、つなげてみた。つまり彼らは、震災後の現実の中で新しい家族や集団のあり方を模索している、という認識です。分かりやすい近代家族のモデルにはおさまらない生き方を描いている。

藤田 具体的には坂口モデルと村田モデルはどんな感じで、どこが重なり、どこが異なりますか?

冨塚 坂口さんについては、古い言葉だけどコミューンに近いですね。家族の範囲を拡大して拡張していく。村田さんはよりポストヒューマン的と言いますか、人間としての家族関係はもうほとんどない。赤の他人たちと、ドライに、ただたんに同じ空間にたまたま共存している。そういう関係が繰り返し描かれています。

藤田 村田さんには、情緒や愛情や性愛も関係もないような、種の再生産をしないようなビジョンがありますよね。

冨塚 性愛は描かれているんだけど、互いに理解し合おうという要素はほとんどない。主人公は大体女性ですが、相手の男性については細かく書かれることがなく、人物としての深みもない。

藤田 震災後に日本が揺らされて、集団なり共同体が新しく再編成されようとしている。そういう問題意識の先鋭的な現われなんだと僕は解釈しています。たぶん、しばき隊やSEALDsのような社会運動の集団・組織にも似たような背景があると思う。それは笠井さんの「生存のためのサンディカ」という問題系ともちょっと重なっていのではないでしょうか。新しい集団を創造し、生きかたを革命する、という部分には、一九六八年的なものの反復を感じる部分もあります。

冨塚 いや、私の考えでは、六八年的とか革命という話とは、彼らの試みは根本的に切れていると思う。つまり、彼らには、現実を変えよう、という意識がそもそも見受けられないから。坂口さんが主張したのは「現実を脱出する」という話です。現実は現実である。それはもうどうしようもない。村田さんの『コンビニ人間』に至っては、もうコンビニでずっと働いていればそれでいい。そういう話ですよ。非正規雇用でお金がなくて貧困だから闘争しようとか、そういうことは一切考えない。

藤田 ロスジェネや『フリーターズフリー』的立場から見て、『コンビニ人間』のような人生はアリなんだろうか、理想なんだろうか……

杉田 うーん。どうだろうね。あれが理想かは分からないけど、確かに震災後には、「自己啓発系の社会運動」がリアルに感じられた印象はありますね。坂口恭平さんもそうだし、荒木優太さんの『これからのエリック・ホッファーのために』とか。社会と闘争し変革するのではなく、自分たちのライフスタイルを変えて、オルタナティブな生き方現実をサバイブしていく。かつての格差論壇や反貧困運動には、現実の困難を社会変革によって改善し改良する、という志向があった。震災以降の、二〇一〇年代の自己啓発系のサバイブ論だと、そういう考え方は完全に放棄されていますよね。若松英輔さんの文学論もそうかもしれない。ただし、資本主義を肯定する自己啓発成功哲学)ではなく、非資本主義的なタイプの、社会派でオルタナティヴな自己啓発。そういう意味で僕はSEALDsやしばき隊と、坂口さん・村田さんたちの路線は少し違うイメージがありますね。

笠井 最近の坂口・村田路線と、たとえば「素人の乱」みたいなものは、どういう違いがあると思う?

杉田 「素人の乱」は昔からあるアナーキズムの系譜というか、集団生活を大事にしますよね。だけど村田さんや坂口さんは、個人主義が強い。坂口さんも個人ベースで、あくまでも家族の拡張の話にとどまる。社会的な連帯とかまではいかない。坂口さんはラディカルな面と同時に極めて保守的な面があって、一貫して、九州男児的な家父長への憧れがありますよね。
僕は必ずしも江藤淳の成熟モデルによって坂口さんを裁いてはいません。江藤淳的な「喪失から成熟へ」というモデルとは異質なものを見ようとしています。つまり拡張家族であり、オルタナティブ家族ですよね。ある種の融通無碍で群体的な家族イメージを描くんだけど、それがそのまま、妙に家父長的な権力性を強化もしていて、そういう矛盾が坂口さんの面白いところ。家族を拡張し群れを生きることの困難を体で生きてしまっているのではないか。彼は無償や贈与を言うけど、承認欲求や資本主義的な欲望もすごくあるでしょう。そういう両極がすごく人間くさいよね。

冨塚 そうですね。ただ、従来のいわゆる、統一的な一つの人格の内部に矛盾する要素が共存している、というモデルと、坂口さんや村田さんの作品で描かれる人物像には微妙な差異があるという気もしています。では逆に、場面ごとに分裂した自己が共存する、解離的な、最近の平野啓一郎の用語でいえば「分人」的モデルに相当するか、といえばそうとも言えない。そんな彼らの描く人格モデルを、論考では主にイギリスの対象関係論、特にウィニコットの母子関係をめぐる議論と突き合わせて検討しました。坂口さんにおいては、単なるバラバラな自己の併存ではなく、その重ね合わせが、村田さんにおいては複数の自己を棲み分け、切り離そうとする際に出会う抵抗、暴力の問題などがとりわけ重要であると考えています。

* 中村文則をめぐって

藤田 3・11以後の運動や集団を見ていると、集団形成のレベルで互いの関係性や空気を読むことへのシフトが起きていて、基本単位がかつての個人ではなくなっていると感じる。SEALDsの本や笠井さんとしばき隊の野間易通さんの対談本『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』(2016年)を読んでいても、そう思う。

藤井 僕は今回、中村文則を論じましたが、最後は『私の消滅』を取り上げています。感覚的にも「今、人間のあり方が変わっている」という印象がある。ポストヒューマン的と呼んだらそれまでですけれど。現在は物事の土台がころころ変わっていく世の中だと感じます。男性と女性の性差も消えていくし、レズビアンバイセクシャルへの偏見も少なくなっている。そして、それに対する違和感もあまりなく、表面上ではそんな社会に対する順応性が高まっている。僕は職業柄、若者たちを日頃から見ていますが、とにかく環境に対する順応性が早い。いろいろなものをすごく受け入れていく。
ただ、彼らが「多様性を受け入れよう」などといった考え方や、確固たる自分を持っているかというと、そうではない気がする。その場その場で何でも受け入れて生きていく。そのことを僕はアイデンティティの分裂や崩壊の問題として、中村作品に即した形で論じました。中村作品の中には崩壊や分裂の感覚が震災以前からあったけど、震災後により強くなったと思います。

藤田 社会の流動化やインターネットによって、個が分裂したり流動化しやすくなったのはあるでしょうね。そこへ震災が来て、さらに個が揺さぶられた。集団生活や運動のあり方も流動的なネットワークへとさらに変化しているという側面もある。一方で、ナショナリズムや、強くて巨大なものに一体化してしまおうとする情動も強くあるように感じる。個が解体された後に、「束」として大きなものに流されても困る。そういう状況を前提として、どうするのか、ってのが、藤井くんの解釈する中村文則のテーマだよね。

杉田 中村さんは近年、純文学とミステリの臨界点で小説を書いていますが、今年の『私の消滅』でも脳科学や精神医学、マインドコントロール等の知見を使って、記憶の捏造や人格の入れ替えがすでに技術的に可能になった状況の中で、じゃあ「私」とは何か、新しい倫理とは何か。そういうモチーフを、純文学とミステリの境界上で描いている。あるいは宮内悠介さんの『彼女がエスパーだったころ』も、最新科学と疑似科学、技術と宗教のぎりぎりの境界線から、新しい人間像や言葉が産まれる直前の、胎動や予兆みたいなものを感じさせて面白かった。
笠井さんによると、本格派探偵小説は第一次世界大戦の「ポスト」の小説であって、それゆえに大量死と大量生(人間の価値の匿名性)が問われることになった。それは内容と形式の両面から言える。中村さんや宮内さんの作品は、形式的にも根本的に壊れている感じがする。世界構造のカタストロフィがあり、従来の「人間」や「現実」の前提が崩れていく。それを感覚や欲望のレベルで小説化している感じがある。それはたんなる構成や技巧の問題ではなく、思想の問題に食い込んでいる。映画だと森達也の『FAKE』とか、外国作品だけど『サウルの息子』なんかも、科学と宗教、ドキュメントとフィクションの区別がメルトダウンしていく世界を描いていました。

藤井 中村文則の作品もそうですし、僕自身にもいわゆるポスト・トゥルース感覚はあります。オックスフォード辞典が今年の言葉に選んだ言葉です。ポスト・トゥルース的状況はかつてもあったとは思うんですが、現在は情報が氾濫して「何が正しいかわからないけど、とりあえず自分が気持ちい方向に向かおうよ」といった動きが出てくるようになった。しかも、それが個人レベルでもそうだし、国家からの情報からもそうです。原発の内部がどうなっているのか分からないし、どのぐらい安全かもわからない。科学的なものの確実性を実感できない。そのようなリアリティの中に生きているから、普通の人もポスト・トゥルース的なリアリティになりやすい、という環境があるのではないか。

杉田 原発公害事故によって、科学と疑似科学、理性と感情の間に引かれていた境界線が大きく攪乱された感じは確かにあった。ある種の科学畑の人たちが自分の間違いや判断ミスを全く認めず、延々と誤魔化したり。メルトダウンなんてない、お前らは情弱でデマで陰謀論を振りまくな、って言ってたのに。そういう現実の底が抜けた感じを刻まれたような気はする。

藤田 震災以前までだと、国家の統計や科学的なデータはある程度信頼ができていた、少なくとも今よりは信頼ができていたんでしょうね。原理的にというよりは、生活感覚の次元で。

笠井 とりあえず信頼しておこう、という約束にリアリティがあったわけだよね。それが本当なのかどうか、厳密に考えていくと最終的な結論が出せないような部分もある。けれども社会を回していくために、とりあえず本当のことや事実といえることはある、というような約束でやってきた。しかし、そうした相互了解が崩れはじめた。今では、相手をやっつけるためには何を言ってもいい。嘘でも出鱈目でもいい。相手の言葉が嘘だって証明するには、時間も手間もかかる。そのタイムラグを活用して嘘を言いまくって勝利する。至る所でそうなって、嘘の勝利が堆積して、本当に現実社会が変わってしまう。

冨塚 トランプがなんだかんだで勝ってしまった。ツイッターなど日々ネットでもそういう状況が拡大している。感情のぶつけ合いですよね。情動という動物的な、喜怒哀楽のレベルでの戦い。論理的にどちらが正しいかとは関係がない。私はあまり「震災で何かが変わった」とは言いたくないですけど、やはり震災直後にツイッターなんかで色々なデマがバーっと拡散したときに、「この人は信頼できる」と思っていた学者とかが結構とんでもないデマを平気で拡散していたりして、びっくりした。
ただ、感情とか情動ではダメだから、啓蒙してみんなで成熟しましょう、というやり方でやっていけるのか。私はそのことにも結構、疑問を持っています。感情ばかりになってしまった、そこから成熟する道があるのではないか。
笠井さんと藤田さんのゴジラ論はフロイトを参照されていたと思うのですが、フロイトでいくと去勢されて大人になるんだというモデルでしょう。しかしそのモデルで押していくだけではもうやっていけないのではないか。立木康介さんが『露出せよ、と現代文明は言う』で紹介されていましたが、メルマンら現代フランス精神分析の臨床家たちによると、成人の幼児化が世界的にものすごく進行していて、患者の治療がちゃんと終わって、去勢されてしっかりした人格を獲得する、というケースが極めて少なくなっているらしいんですね。それを踏まえて、私の原稿では、もともと幼児の対象関係を扱っていたクラインやウィニコットの議論を、大人である坂口さんや村田さんの作品の登場人物の分析に関しても参照しています。

杉田 震災後の雰囲気の中で吉川浩満『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』、カンタン・メイヤスー『有限性の後で』、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』などの本が売れたり、話題になったりしたことは、少し分かる気がするんです。この世界のベーシックな前提やルールすら、まったく無意味に偶然的に、昨日までとは別様に書き変わるかもしれない。たまたま「この世界」は存在しているけど、もしかしたら人類は存在しなかったかもしれないし、明日突然全てが絶滅し消滅するかもしれない。しかもそれは、神の必然的な意志のためですらない。どうでもいい偶然や、くだらない打算の結果にすぎない。そういう理不尽な環境変化の中で、どうやって適応してサバイブしていくか、という感じですかね。

藤田 先に冨塚くんのフロイトに関する問いに答えておくと、あの本はフロイトを使ったけど、僕自身は、現代を分析するには脳科学とか実験心理学の知見を応用するべきだと考えている。ゴジラを論じるときには適していないのでその道具立ては使わなかったけど、脳科学実験心理学などの知見を応用して現実のプロパガンダや情動政治は行われているわけだから、そこを突いていかなければならない。道具立てはアップデートしなくてはならないというのはその通り。道具立てをアップデートしたら、「人間観」が自然と変わってしまうんだけれど。
今回の震災はやはり情動政治の時代の震災である、というのが大きい。情動政治とは、ポスト真実の時代において、事実や真実を無視して、単純にどう大衆の情動を動かしたかで票を集められるということ。それはトランプが勝った手法でもあり、『情報参謀』に書かれている自民党のメディア対策を見る限り、日本の政治もそうなようですね。アニメオタクがネット右翼になりやすいという説をぶちあげて炎上したことがあるんだけど、情動や感覚への刺激を中心としたコンテンツに親和性が強い人は、情動政治の影響を受けやすいという相関があるんだと解釈するべきなんだと今になると思う。

杉田 欧米は少なくとも日本より先へ行っているだろう、近代化が進んでいるだろう、という人類に対する安心感を持っていたら、じつは安倍や橋下のようなジャパン・スタンダードこそが世界のフロンティアだったと……。

藤田 皮肉なことですけどね。震災後文学の中でも、倫理や正義感が危ないものに使われかねない、という危惧が盛んに描かれていた。確かに、正義感や倫理観を刺激してコントロールするような、炎上商法やら炎上政治が蔓延っている時代です。加藤典洋さんも最近の『世界をわからないものに育てること』で、みんなが情動的に一つの方向へ、倫理や正義の名のもとに行きやすくなった「感動社会」を震災後の大きな特徴として見ていた。では、そこにどう抗うか。かつてのファシズムとは異なる二一世紀型のファシズムのようなものに、どうやって抵抗するか。
情動政治に対しては論理的な啓蒙は効きにくいでしょう。気持ち的に安心したいとか、不安を解消したい、幸福になりたいという方面からアプローチしなきゃならない。真偽や事実ではなく、「気持ちよさ」を優先してしまうという感性の次元に揺らがしていかなければならない。『シン・ゴジラ』って、すごく情動にアプローチする作品で、だからこそ、この時代においては有効な毒にも薬にもなりうる、そこが重要だと思ったので『シン・ゴジラ論』を書いたところはある。

藤井 オタクってすごい情動的な存在だったと思うんですけど、震災後あたりから徐々にそれが一般化してきた感覚があります。二〇一六年は『シン・ゴジラ』とか『君の名は』とか、あるいはポケモンGOとかプレイステーションVRとか、最近のヒットするものって、もともとオタクたちに需要があったコンテンツが一般的に普及しただけではないのか。例えばドラマの『逃げるは恥だが役に立つ』が最近はブームですけど、あの「恋ダンス」が流行った背景も、アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』の「ハレ晴レダンス」がネットを通じてブームになったことの延長線上にある。VRは『電脳コイル』や『攻殻機動隊』などの想像力です。あと『君の名は。』の聖地巡礼。これももともとはオタク的な消費活動だったわけですよね。このことは注目すべきことだと思います。

笠井 全然関係ないけど、聖地巡礼が今年の流行語らしいがメッカは別に混雑していないとか、中田孝が言っていたな。『君の名は。』がらみの聖地巡礼ブームは、ハサン中田の耳まで届いたらしい(笑)。

杉田 先ほどの『サウルの息子』や『FAKE』はドキュメンタリーとフィクション、あるいは必然性と偶然性、科学と宗教などの境目が判然としなくなり、モザイク状になった世界を描いていて、ポスト・トゥルース的かつポストヒューマンな時代の最先端を行っていると思うんだけど、どちらも最後に、ある種の宗教的な「奇跡」が訪れるんですよ。虚実皮膜な感じで。それをどう考えればいいのか。
 中村文則の『教団X』も、仏教・キリスト教天皇制・民間信仰などを宗教混合させたメタ的な宗教の上に、さらに量子論素粒子論、宇宙物理学などの科学理論を上乗せして、ポストヒューマン時代の新しい物語を語ろうとするわけですね。村上春樹はかつて『ねじまき鳥クロニクル』の後にオウム真理教に対する物語論的な対決を試みたけど、中村さんはそれを継承しているとも言える。『教団X』は、現代の最先端と切り結んでいるようにも見えるし、オカルトや疑似科学に撤退しているようにも見える。その辺はどうなんでしょう。

藤井 中村作品が表現していることはすごく分かるんです。『教団X』では宗教的な対立を描いています。それこそ片方の宗教はオウム的なもの。もう一方はかなりゆるい宗教で、先ほど杉田さんの言っていた様々な宗教や科学的知見を混合させたような宗教集団です。またさらにはファシズム的なものに発展するような日本に蔓延する協調主義的全体主義をも対置している。ちなみに協調主義的全体主義は震災後には強く感じたものでした。先ほどの情動によるカスケード現象と似ているかもしれません。オウム的な宗教と協調主義的全体主義は人々を安易に自己規定して気持ちよくさせてしまう「悪」として描かれ、それを乗り越えるために別の宗教を描いているわけです。
そして『教団X』の最後では、オウム的な宗教は崩壊し、対比されていた宗教は教祖を変えて生き残る。そして「すべての多様性を愛する」という言葉によって最後を締めくくっています。「善」とは何か、「悪」とは何か、またその中で生きている「私」とは何か、を考えている作品だと思います。
ただ、それで大丈夫なのかという感覚も僕のなかにはありました。それだと他のカルトな宗教と同じようなことになるんじゃないか、ということです。結局あれも、特定の宗教が正しい、というように読めてしまうんですよね。本当に多様性を大事にする宗教ならOKだ、と。ただ、それだとオウムなどと同じ過ちを犯しかねない。もちろん中村文則自身も、そうした宗教性を完全な答えとして示しているわけではないと思いますが……。

藤田 「宗教」をテーマにしてしまうことは分かる。理不尽や大災害や死や苦しみがあったときに、宗教的なものに救済を求めてしまう。そういうふうに人間の心や脳の仕組みができていること自体は、やむを得ないことじゃない? たとえば玄侑宗久さんの『光の山』は、放射性物質を集めて福島へやったらピカーっと光って、お坊さんが「大丈夫だ、大丈夫だ」と言って「だいじょうぶだぁ教」みたいになって、放射能を浴びに全世界から人が来て観光地化する話。ブラックユーモアなのか本気なのか分からない作品。あれに被災地の宮城県の雑誌が震災文学賞をあげてしまうわけじゃない。あれはどう思う? 『無常という力』を読んだら、放射能を楽しむみたいなことも書いてあって、結構マジなんじゃないかと心配なんだけど。

藤井 『光の山』は良くも悪くも教科書的な震災後文学でしたね。

杉田 玄侑さんは神道系の学者さんとの対談で、放射性物質八百万の神になり得ないのか、みたいな話をわりとガチで話していて、不思議な過剰さもあるんですよね。いい意味で狂っているというか。

藤田 古川日出男も、「被災地で被爆しなければならない」という神の声みたいなものに呼ばれて現地に行ったら、自分の小説のキャラクターが呼んでいたという、昔のライトノベルのあとがきみたいな痛い(がゆえに、切実さを感じさせるような)小説を書いている。それをどう考えていいのか、未だに単によく分からない謎のしこりのように、僕にはある。
一般論として言えば、宗教的なモチーフが急に震災後には出てきた。『想像ラジオ』もそうだよね。これまで久しく扱われてこなかったような、宗教的・霊的な次元に、現代の作家が踏み込んで、良くも悪くも「新しい」表現がされているのが現在だと思う。
ところで、『教団X』に戻るけど、宗教に対抗するのに宗教を描く、物語に対抗するのに物語を描く手法で本当によかったのだろうか。村上春樹が『1Q84』で宗教をテーマにしていたけれど、彼の戦略は「物語に対抗するには物語だ」っていう手法だよね。それに対して、「物語」ではなくて「事実」などが大事ではないかという批判があったのを思い出してます。

藤井 それが『私の消滅』のモチーフなんだと思います。僕もだから、手放しに『教団X』を誉めることができなかった。中村論を書くのに、結構時間がかかったんです。論を提出した時も藤田さんに「もう一歩ほしい」と言われました。
僕が中村文則を選んだのは、彼は直接的には震災を描いていなくて、僕自身も震災に対するリアリティが全然なかったからです。逼迫感とか切迫感はまったくなかったですね。そういう気持ちに忠実に、何かを書いてみたかった。

藤田 『君の名は。』で、神社のパワーで奇跡が起きてタイムスリップしちゃうのはどう?

藤井 ダメです。『君の名は。』は結構冷めて観ていました。二人の間に起きた奇跡が世界を救うとか、「結局こういうオチか」といった感じです。中村文則は『教団X』のあとに更に『私の消滅』を描いて、自分が提示したメタ宗教をも乗り越えるような気概を感じました。それは決して楽な営みではないでしょう。かつて様々な知見を混ぜ合わせてギリギリのところで作り上げたものをまた自ら壊そうとしているわけですから。しかし、その書き続ける姿勢にこそ僕は中村文則作品に希望を感じ取ったのかもしれません。「書き続ける」といった運動こそがもしかしたらその宗教すらも乗り越えられることなのかもしれない。そうしないと、最後に書いた結論が固定化されて、結局は安易な「善性」を標榜することになってしまうので。そういったことが物語レベルでも製作レベルでも見られるのが、中村文則という作家だと思います。ですが『君の名は。』は、少なくとも物語レベルにおいてはそんな苦しみが感じられない。入れ替わりといった主体分裂の表現は現代性を感じましたが……。
ただあのデジタル映像はよかったと思ってしまう自分もいました。もちろん、かつてのデジタル加工をしていないアニメと一緒くたにしては絶対にダメです。だけど多くの人は「アニメ」とか「ポスト宮崎」などといった言語的なくくりによって、両者を同等に見てしまう錯覚が起きていますよね。「今までのアニメとは違ってすごく映像が綺麗」みたいな。根本的に違うんだからそりゃそうだろうと思ってしまいます。『君の名は。』が流行った理由としてはそうした錯覚と、ツイッターとかLINEが普通の世代からすると、簡単に発信しやすいということがあるんでしょうね。絵がきれいだったとか、「ストーリーがおもしろかった」とか。ストーリーとか単純にループしているだけなのに。

冨塚 『君の名は。』が一番まずいのは、男女がお互いが入れ替わっているから、厳密にいうとあれは他者ではなくて半分は自分なんですよね。たぶんそれが多くの観客に受けた原因の一つだとは思いますが。つまり、自分のことを好きなわけじゃないですか。すごいナルシシズム的な作品だと思った。これは、先ほどの成人の幼児化、という話とも関係しています。感情しかなくて、自分しかないから、自分と同じものを共有している相手を好きになってしまう。『言の葉の庭』や『秒速5センチメートル』などの過去作では、「運命の相手」幻想は最終的に退けられます。多くの論者が指摘する通り、柄谷『日本近代文学の起源』の風景論とあまりにも重なる、ナイーブな私小説と同種の要素を感じるとはいえ、最終的には他者の視点が入ってくる点が魅力だったと思います。対して、『君の名は。』は、新海誠の今までの仕事をひっくり返してないか。そこが受け入れがたかったですね。

笠井 山田正紀はもう全面否定。「あんなのは電通アニメだ」って怒っていたよ(笑)。

藤田 新海誠はもともと、セカイ系的な、ナルシスティックな、快感原則の世界に閉じていくタイプの作家なので、僕としては正直、『君の名は。』の以前とあまり変わっていないと思った。ただ、『君の名は。』は、震災を快感原則の世界に封じ込めている。そこが問題だと思う。それに対しては、『シン・ゴジラ』の方が現実界的なリアルに触れる感触があった。ただ、『君の名は。』の構成と編集はすごい。スマホ世代のリアリティの感覚を体現していて、そこは重要だったと思う。『シン・ゴジラ』もスマホで撮影した映像を随分使っていたけどね。これは渡邉大輔さん言うところの「映像圏」的な分析が必要なところだと思うんだけど、ヒットの理由のひとつにそれがあるのは確実。

笠井 『君の名は。』の男の子と女の子の人格が入れ替わってしまうという設定、あれは大林宣彦の映画『転校生』(1982年)が下敷きになっている。『同級生』のお父さん役は尾美としのりという人なのだけど、彼はNHKのテレビドラマ『あまちゃん』(2013年)で、主人公の能年玲奈のお父さんの役もやっているんだよ。『あまちゃん』も、最後の方は震災後の日本を描いているよね。『この世界の片隅に』のヒロインの声優も能年玲奈(のん)がやっているわけだし、そうすると、『君の名は。』と『この世界の片隅に』は、ある意味で、『転校生』の尾美としのりという父親の、二人の娘的な存在が枝分かれして主役をつとめている、とも言えます。
ハフィントンポストのインタビューで新海誠は、3・11以前と以後の時代感覚の断絶を強調していました。オタク的な純愛と喪失の物語には、もはやリアリティがない。これからは世界を救い恋愛にも成功するリア充の物語だと。こうした意味で『君の名は。』のリア充路線は、新海なりの3・11総括の産物なんでしょう。

* 『この世界の片隅に』をめぐって

冨塚 たとえば『この世界の片隅に』は、震災ではなく広島の原爆の話ですけど、結構時代考証をやって、過去は変えられない、という大前提でつくられています。歴史改変物みたいな考え方とは違いますよね。私にとっては、そうした『この世界の片隅に』のほうが好みでした。

藤田 あれ、リアリズムだとかみんな誉めているけど、あんな主人公がいるわけがないというところにみんな目をつぶるのはなんなの? ほかの部分のリアルな考証があるのに、すべてあんなに受け入れるキャラクター造型には「リアルな考証」があるとは思えない。そのリアリティの断層の利用の仕方が気に食わないんだよね。リアリティないじゃない。あんな家事ばっかりやらせていたら、絶対に『楢山節考』のババアみたいになるはずなんだよ。戦争が起きていて受け入れて、楽しく生きていますみたいな人を現代に描くころの意図を考えるに、そこが気になる。震災で被災して、放射能が降っていて、周りで人が死んでいても、家事やってのうのうと生きていなさいよ、という話でしょ。でも、肝心の「生きる」主体に大きなフィクションがあり、それを覆い隠すような構造になっている。腹立たしい。

冨塚 「この映画は反戦映画ではない」と批判している人もいましたね。私はあの映画にそんなツッコミを入れることの意義はよくわかりませんでしたが。

笠井 反戦じゃなくても全然構わないんだけど、見える光景が一面的すぎて気になった。突然訪ねてくる幼なじみの水兵がいるでしょう。あとは義理の父親ね。この人は工場で戦闘機のエンジンを開発していたらしい。ああいう人たちの視点からは、戦争はヒロインと違った見え方をしていたはず。なにしろ戦争は仕事ですから。一般の日本人にとって戦争とは、なによりも儲かるものでした。同時に面白いもの、最高のエンターテインメントでもあった。自分の頭の上に爆弾が降ってくるまでは。いいか悪いか、その評価はともかくとして、ほとんどの日本人が戦争を儲かるもの、面白いものと捉えていた事実をないことにしてはいけないでしょう。リアリズムを標榜するならなおさら。しかし過剰にイノセンスなキャラクターを主人公として設定することで、戦争は天災みたいなものだから仕方ない、日常生活を淡々と生きることが貴重なんだ、という方向に観客は誘導されていく。それは歴史の完全な偽造とは言わないけれども、かなり一面的な見方です。作者が戦争を一面的に描き、観客がそれを感動とともに受け入れる。このようなシステムには納得できないところが残ります。

藤田 そうですよ。三・一一の後に、『方丈記』や「無常」の話が大量に出てきたんですよね。第二次大戦の時も小林秀雄とか、色々な人が戦争を「無常」によって天災のように受け止めた。しかし、自然災害と人災は違うわけです。戦後はその反省から始まったはずだった。人災を無常として受け止めていたらみんな無責任になるし、止められるものも止められなくなる。丸山真男山本七平堀田善衛たちはそう考えた。その知的な蓄積はなんだったのか……。
東日本大震災原発事故があり、再び戦争が起きるかもしれないと言われているときに、無常観的な世界観として人災を受け止めるものを描くのは、戦後の知的反省や蓄積を無にしている感じがする。僕は嫌だった。

冨塚 それは一人の生活者が、当時の環境下でそういうふうに暮らしていたかもしれない、という一つの視点じゃないですか。すずさんがそう受け取ったからといって誰もが戦争を無常として受け止めて良い、というメッセージを発しているわけではないですし、私は別に何ら問題はないと思いますけど。

杉田 僕は『この世界の片隅に』はかなり好きです。2016年にこの映画があってよかった、救われたと思った。『シン・ゴジラ』や『君の名は。』は、並行世界や多世界解釈が、東京中心のマジョリティたちの自己肯定したい、という気分を正当化するためのギミックとして使われている。それが不気味でした。震災後の世界と早く和解したい、鬱屈や亀裂を埋めたい、という歴史修正エンタメだと思った。「すばる」(2016年12月号)に掲載した『君の名は。』論で、僕はそれを「セカイ系」から「ワカイ系」へ、と名づけたんだけど、全然流行らなかったですね。
それに対して、『この世界の片隅に』は、平行世界(歴史修正)の話ではなく、「この世界」の一回的で苛烈な唯一性を受け入れていく。そしてすずさんの「絵を描く」という生存の技法によって、「この世界」の動かし難さを多重化=拡張していく話だと思う。その意味で『シン・ゴジラ』や『君の名は。』とは根本的に異なる原理があるのではないか。それは素朴実在的な意味でのリアリズムとも違うと思う。
それから、そもそもすずさんには、ある種の脳の障害があると思うんだよね。

藤田 あの映画を、「すずさんという一人の人間が生きていたということを描いているのだ」という人がいるけど、そもそも論として、アニメのキャラなんだから、生きてないでしょう。作り物ですよ。「すずさんが受け取った」のではなくて、それも作り手がそう意識的に描いているのだから、批判的な検証の対象にするべきでしょう。
それとは別に、杉田さんがすずさんを障害者に認定して擁護するのはずるい気がする。障害者だから思想的に問題があっても看過すべきだっていうロジックを使おうとしている。しかし、作中で明示的に障害者だと描かれてはいなかったですよ。

杉田 いや、すずさんが終始あんなにぼんやりしているのは、ものすごく受身的で、流されやすくて、受動的な存在だけれども、それによって戦争へと至っていく「この世界」に対する人間の根本的に無力さを強調しているのではないか。それをひとまず受け入れながら、しかし絵を描くという技術によって現実のレイヤーを(メタ化ではなく)重ね描きし、多重化して、生き延びる道を試行錯誤していく。それは素朴リアリズムではないけれど、普通の意味でのメタフィクションでもない。あの映画の中では誰も「この世界」のメタには立てないわけだから。メタではなく「片隅」を強いられていく。たとえば、東日本大震災の時にも、避難所で発達障害自閉症の子どもたちがどう生活していたか、というルポルタージュもあったりしましたよね。

藤田 自閉症とかだったら、すずみたいに社会生活はうまくいっていないでしょう。

杉田 そうとも限らないよ。それにすずさんの場合、あれはある種の知的ハンディゆえに認識のゆっくりさか、何らかの認知的な障害なんじゃないかな。

藤田 そうなのかなあ。

杉田 さらにそれをコミュ障っぽいといわれる能年玲奈さんが声を吹き込んでいるところが、アニメ映画としてすごくよかった。つまり、「片隅」感が二重三重になっているんです。正直、僕は原作のマンガ版よりも、アニメ版の方が好きだった。アニメの能年さんの「声」によって、はじめて原作マンガの意味がわかったと思えた。これは「手」と「声」の映画だったんだと。
それと、広島の呉市が舞台であることがポイントなわけです。呉って軍港だから、たんなる「可哀想で悲劇的な犠牲者」の象徴にはなりえない。敵地に武器や兵器を送って、占領したり殺したりする拠点なのだから。こうの史代さんは、かつての『夕凪の街 桜の国』(2014年)に対する批判をじっくりと吟味して『この世界の片隅に』を描いたと思う。ドキュメンタリー監督の土本典昭は、水俣という場所は公害の犠牲になったけれど、同時にチッソという会社はアジアなどの海外にどんどん公害をばらまいてもいた、加害と被害が重層的に捩れているんだと。そこから水俣病の映画を延々と撮り続けたわけだけど、『この世界の片隅に』にもそういう重層的な認識が明らかにあると思う。

藤田 どうなんだろう、まずあの世界に「メタ性」はあると思う。作り手と観客は作品世界の外、メタ的な次元にいる。その上で、絵を書く作中の人物の行為は「重ね描き」「多重化」ではなくて、アニメを製作する行為と入れ子になっているように思う。それを現実に移し替えたら、戦争が起きていても絵を書いてPixivに投稿し、アニメ見て萌えてやりすごせ、という話になっちゃう。

杉田 「絵を描く」ことは、極限状況の中で生きのびるための技術(テクネー)そのものだよ。荒井裕樹さんが障害者アートを健常者の鑑賞から解き放って「生きていく絵」と呼び直しているけれど、そういうものではないか。そもそもあれはアニメに対するメタ構造というより、絵画/マンガ/アニメなどを重ねて、戦争という現実の圧倒的な非現実感をズラして、襞を作っていくわけだから。

藤田 戦争がどんなに起きていても、どんなに悲惨なことが起きていても、無視しようと。女性が風俗で働くはめになっていても、全部無視しようということになりませんか。社会に起きている問題や、巨大な状況を無視して、「絵」や「芸術」の世界に逃避し、耽美的な態度でやり過ごすっていうのは、どうなんだろう。

杉田 いや、逆でしょう。どんなに徹底的に無力な立場(片隅)に置かれてすら、「この世界」に対する何らかの反撃と抵抗の方法があるんだよ。たとえ全体としてのマクロな戦争状況を変えられなくても(現実に対する戦い方を社会批判や社会変革「だけ」でイメージするのもおかしいと僕は思う)、人はこんなふうに倫理的に、苛烈に、しかも楽しく幸福に生き延びることができると。あの映画はそういう臨界的な倫理の可能性を開いていると僕は思ったな。

冨塚 いまの杉田さんの話でいうと、私の坂口恭平村田沙耶香についての論は、現実がでかくて変えられなくて、自分の小さい箱庭の中で想像力でなんとかしようというモデルなので、形式的には同じかもしれません。やはり現実を変えようという意識はもちろんあっていいのだけど、私自身がまずそういうのに乗れないんですね。すずさんにしても、坂口さんや村田さんにしても、現実を変えることへの関心よりは、現実はどうしようもないけど生き延びなければいけないからどうしよう、というところから小さい世界をつくっていくという方向にいっているのではないか。

藤田 しかし、すずさんが生き延びたのは運でしかないでしょう。ただの運だよ。

冨塚 精神が病んでも自ら死なないためにどうするか、という話ですよ。

笠井 坂口安吾に『真珠』(1942年)という短編小説がある。真珠湾攻撃のときに特殊潜航艇の特攻隊に参加した軍人を想像する話なんですね。坂口安吾とおぼしき語り手が、太平洋戦争の対戦のとき小田原にいるわけですけど、そこに「がらんどう」というあだ名の床屋の親父がいて、その親父にはすごくヌーボーとした、まるですずさんのような性格の妻がいるんだ。「何か戦争がどこかで始まったようですね」とか、その奥さんはヌーボーと口にする。まさに頭上に爆弾が振ってきてもまだ茫然としているような、人生の脈絡とか何かがほとんど理解できないような、そういう日常性の世界で存在している人がいる。
吉本隆明の「大衆の原像」ってそういうものだよね。魚屋のおかみさんが魚を毎日さばいて売っているように、余計なことは何も考えない。そういう大衆に対して丸山眞男みたいな啓蒙インテリは、市民として知的に引き上げようした。しかし吉本は「そんなことをしても無駄だ」と批判した。その「がらんどう」のおかみさん的な、すずさん的な存在形態が知的に上昇することよりも、思想的に自立することが問題なんだ、というのが吉本の自立思想になるわけですね。
しかし一九八〇年代になって、結局「がらんどう」のおかみさん的、すずさん的な民衆も普通に『an・an』に載っているような服を買えるようになった、それは素晴らしいことではないか、と吉本は言いはじめた。それを読んで僕はなんとなくがっかりした。『an・an』に載っているような服を着たからといって、大衆が思想的に自立したわけでもないと思う。吉本がそれをよき兆候として全面肯定したというのは、どうなんでしょうね。
つまり、そうした「大衆の原像」みたいなものをどの観点から語るか、という問題だよね。吉本の場合は、自分は知識人だという自覚はあるわけだよ。では、『この世界の片隅に』の原作者や監督は、どの立場からあのキャラクターを描いているのか。観客はどの立場からそれを見ているのか。義理のお父さんとか、下士官クラスの人もいるわけでしょう。どの立場で言っているのかが議論の前提として確認されるべきです。さらにもうひとつ、そういう知的なヒエラルキーがいまや穴だらけになって流動化している、という面もあるわけ。そういう幾つかのことをわきまえて話さないと、なかなか話は先にうまく進まないのではないか。

杉田 僕はたぶん、あれは徹底的にメタ(超越)がありえない世界として構成されていると思いました。そういう内在的で平面的な世界を人はどう生きられるか。それは「大衆と知識人」みたいな図式的な問いとは、少し違うのではないか。そもそも、吉本隆明のたとえば『最後の親鸞』などは、知識人だろうが大衆だろうが、誰もが平等に、生活と観念の分裂を抱えざるをえない、という話だと思うんですね。すずさんだってじつは、大衆であると同時に、現実から遊離していく眼差しも持っている。絵を描くことで生活から解離して、現実をズラしていくわけだから。吉本の親鸞論も、大衆存在のモデルを痴呆症(認知症)で考えたりしています。

笠井 でも吉本が『この世界の片隅に』を観ていたら、感動していたよね、絶対。「これこそ大衆の原像だ」とか。戦中の日常生活を描いた作品なんて、これまでもたくさんあったわけだよ。今井正の戦争映画とか。五十年代から六十年代の前半にはたくさん作られた。かなりあとですが、アニメでは『火垂るの墓』もありましたよね。
だけどそれらでは、知識人である作家が生活者としての大衆を描いているという視点ははっきりしている。日教組の教師が、子どもを連れて映画を見せる。それはすずさんレベルの小学生を知的に上昇させることだった。戦争はひどいものです、二度と起こしてはいけません、というふうに啓蒙する。今回の『この世界の片隅に』に関しても、作者が価値的な意味で劣っている者を見下しているという意味ではないんだけど、やっぱり上から見ている感じもある。とはいえ1950年代の反戦映画とは違うわけで、そこがどうもよく分からない。

杉田 社会的な階層でいえば、まずこれはダブル主人公ですよね。すずさんと義理のお姉さん(徑子)のキャラクターが対位法的に描かれている。すずさんは徹底的に受動的で、保守的な「嫁」として描かれているけど、義姉さんのほうはアクティヴで先端的なモダンガールです。結婚して家を出たけど、時計屋の旦那さんを失って、旦那さんの家族とも関係が悪くなって離縁して、店も失って、シングルマザーとして娘を育てるけど、最後は一人娘も戦争で失って……どんどんぼろぼろになっていく。しかしそれでも自立的な女性として気丈に振る舞い続けていく。
原作のこうの史代さんは、保守的で受動的に見える女性の不気味な怖さ、強さを一貫して描いてきた。映画の中でも、すずさんが二度くらい激怒するシーンがあります。焼夷弾が家の中に落ちてきたときに、それを見動きせずにぼうっと見つめていたと思ったら、突然奇声をあげて焼夷弾に食らいついて、自分の体が燃えてもそれに対する怒りをぶつけていく。それから玉音放送があったときにも怒り狂いますよね。受動性と怒りが一瞬の刹那に入り乱れていく。あれらは、僕らがそれほど簡単に共感や感動のできるシーンではないのではないか。ああいう不思議な怒りや、絵を描くことの戦い方が、根本的に現実を転覆し変革するものではない、と言われたらそれまでなのだけれども、震災後といわば新しい「戦前」としての現在、それを描いたということは、僕は現在的な美学と倫理の可能性を描いているんだと思いました。

笠井 絵を描くというのは、世界を対象化した上で所有するという行為ですね。この点からすれば、すずは「知識人」の側に属するキャラクターです。爆弾で右手を失うのは、世界を対象化する手段を失い、距離を置いて世界を捉える可能性を奪われたということ。すずがぼんやりしているのは、絵を描くことと表裏です。右手を失って初めて、世界との距離が消滅し、世界と即時的な関係に入らざるをえなくなる。ようするに「大衆」になる。この切り替えに、すずというキャラクターの秘密があるように思います。倫理にかんしていえば、八・一五の怒りを忘れないすずが、せっかく手に入れた生卵を占領軍の米兵にぶつけて捕まって、ぼうっとしているからしょうがない、ということで釈放される。そうした終わり方だったなら、僕も納得したでしょうね。

藤田 「現実」について、「メタ」や「ズラす」という話が出たので、「現実」をどのようなものとして認識するのかという話をしたいのですが、僕は二〇一一年以降の日本は、『一九八四』的な多重化した状況だと思う。冲方丁さんという福島に住んでいる作家さんは、震災後に北海道に脱出する差異に書いたエッセイで。現実が複数化して多重化してしまったという感慨を書いている。その多数化した現実を書く手法としてSFがあるかもしれない、と言っていた。純文学だと、上田岳弘さんや滝口悠生さんが、そのような複数の個人による現実が多元的に組み合わさった「諸‐現実」的な世界を描くことに成功しているように思う。放射性物質は安全か危険か、原発はコストが安いか安くないか、そういうものがどっちとも判断がつかないから、「現実」を同時に多重的に複数的に見るように、僕らの思考や認識も変化したのではないか。複数の現実や拡張現実的な世界があるというのは、杉田さんの言うようにポジティヴなことではなくて、ネガティヴな事態によって、強いられた結果なのではないかと……。

杉田 いや、それは逆ではないですか。つまり現実は確かに真偽や善悪がモザイク化しているけど、むしろ、「この世界」それ自体は唯一的で圧倒的に動かしがたいものとして在る。そういう感じじゃないかな。

藤田 動かしがたい現実があるとしても、どれを「特権的な現実」と判断するのかは個人の主観でしかないわけですよね。「これが現実だ」と思っているものが、人によって違う。そういう人間が無数にいる状態の全体像を理解しうるかというと……

杉田 例えば放射性物質健康被害については解釈が割れるけれども、そもそも原発政策や原子力という技術・資本をめぐる動き自体は動かせないし、どうしようもない。つまりポスト・トゥルースの時代とは、解釈による現実感の分裂は統合できないけど(リベラルとネトウヨの歴史解釈が真っ二つになるように)、現実の歴史的な唯一性(変えられなさ)が極端に強まっていく世界なのではないか。吉本隆明加藤典洋がいう「不可逆性」もそういうことでしょう。かりに一国主義的に日本が脱原発しても、海外の色々な国が原発を持つわけで。

藤田 そこが違うのかな。原発政策や原子力という技術・資本をめぐる動きも、人間が作ったものだから、人間がなんとかできるだろう、っていうのが、僕の考えですね。実際、なんとかできると思いますよ。随分変わってきていますし。それは動かせない「現実」だとは思わない。
それとも、人間には知覚しえないけど存在しているはずの、「物自体」のような「現実」の話なのでしょうか。

杉田 物自体的な現実そのものはむしろ、絶対的に唯一的で動かしがたいものに感じられるんだけど――例えば世界中の資本の流動性や情動政治や極右化は歴史段階的にどうしようもない――、人々の現実解釈としては分裂して決定不能になって、身近な家族や友人とすらリアリティを分かち合えない。本当と嘘、現実と虚構がモザイクになり、決定不能になる「がゆえに」現実の物自体的な絶対性が不動に感じられていく。ポスト・トゥルースってそういう事態ではないかな。

藤田 歴史の発展が、不動のどうしようもないものだとは思えない……。むしろ、それは個々人の活動により動的に変化させていけるものなのではないでしょうか。一人が全体を一挙に変えれるとは言いませんが。原発事故についても、「物自体的な絶対性」が共有されているのかどうか、僕には分かりません。メルトスルーした燃料がどうなっているのか、観測して認識可能なのかどうか、どの規模の事故なのか……。

杉田 それは解釈のレベルであり、やはり現実は一つではないですか。一九九〇年代の多文化主義が崩れて、この世界がたった一つの、一回的で唯一的な現実へと収縮している。現実に対して手も足も出ない、という無力感のほうが強くありませんか。

藤田 現実が一つで解釈は複数なのか、解釈そのものが現実なのか、どちらが正しいのかの根拠がないような極限例に多くの人を触れさせてしまうのが、原発事故なんだと思います。データやファクトがないようなものにも、生活のために解釈を行われなくてはいけない。かつては抽象的で認識論的な議論だったものが、生々しい生活の次元で思考しなくちゃいけなくなった。

冨塚 基本的に今話されている意味での「現実」は単一のもので、それに対して「俺の現実」みたいなもの、つまり個々の解釈が複数存在する、と私は思いますね。単一の「現実」がなかなか変わらない、という強固な感じは近年非常に強くなっていると思います。ただ、それでもそれを何とかしてひっくり返そう、という発想は個人的にはあまりありません。現状ではそういった革命的転覆をどうやってもリアルには想像できないからです。ただ、では現状をそのまま肯定するのかといえば、そういうわけではない。私は、まずは自己とその周辺程度に限定して、局地戦のあり方を考えたい、という立場ですね。

杉田 いや、変えられなさそうな一回的で唯一的な現実があるからこそ、それを変えねばならない、たんに多数の解釈を並べるのではなく……というのがマルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』だったと思う。その辺、僕は微妙だな。そういうリアリティを構成不可能な「この世界」それ自体の唯一的な一回性に対峙しているという点でも、『この世界の片隅に』は(リアリズムではなく)「リアル」じゃないですか。

笠井 いま杉田さんが言っているのは、以前鈴木謙介が「宿命」とか言っていた話と関係があるのかな。

杉田 難しいですね。『この世界の片隅に』の世界観は、確かに、小林秀雄保田與重郎が直面していた宿命論に近いのかもしれない。しかし戦時下の小林は「動かしがたい歴史」を美学的に詠嘆してしまったけれど、『この世界の片隅に』の戦い方はそれとは微妙に違うのではないか。あるいはまた、宿命論的な現実への直視を怖れるからこそ、平行世界(歴史改変)へと逃げるというパターンもあって、『シン・ゴジラ』や『君の名は。』はそういう感じだと思う。

冨塚 先ほどの、私の立ち位置の話とも関わるかもしれませんが、「宿命」についていえば、ドゥルーズが『意味の論理学』などで好んで引いた、ストア派の運命愛に関する議論(運命を愛するが宿命は否定する)、に個人的には共感しますね。『この世界〜』のすずさんは、戦争や原爆をあくまで「運命」のレベルで捉えていたように見えました。

藤田 二人が言っている「現実」は、確かに「宿命」とか「運命」と言い換えたほうがいいのかもしれない。僕はどちらも実在しないものだと考えますが。正確に言うならば、主観の中に発生する「宿命感」や「運命感」についての話ですね。
政治的な問題で言えば、杉田さんが、トランプ当選の前に、トランプが当選する世の中が来るのを「現実」だと思っていましたか? 思っていなかったと思うんですよ。それ以前には現実だと思っていたものが現実じゃなかったということを経験したわけで、つまり、政治的現実って変わるんですよ。トランプ陣営と支持者たちは、コツコツと涙ぐましい努力を相当にしたわけですよ。かつてのオバマも……。

笠井 いや、それは逆でしょ。相関論だとそうなるけど、相関主義の外側に、人間の意識によっては変わりようのない現実がある、ということだから。相関主義批判はポストモダン相対主義を標的にしている。認識論的な相対主義は、なにをやっても同じだという価値論的な相対主義ノンポリの自己正当化に通底する。その意味で相関主義批判は、なにをやっても変わらないというノンポリの居直りにたいする批判を基礎づける、ということですね。

藤田 原発が具体的にどうなっているとか、戦争がどのぐらい起こりうるとか、そういうのは意外ともやもやしていると思うんですよ。確定したものにはなっていない。共通の物自体的な現実があるのかないのか、これはどっちも確かめようがない。ただ、共通の現実という基盤があって、そこから個人の主観が切り取るものの違うだけ、と考えるタイプの思考方法が後退しているから、「ポスト真実」のような現状になっているのではないかな。客観的な現実が共有されている、あるいは、しうるとすら思っていないのでは。

冨塚 それは現実じゃなくて、真実や真理の話ではないのですか。多様な解釈が可能であることと、複数の現実があるというのはレベルの異なる話ではないですかね。

藤田 人間が、感覚器官や思考などによって脳の中で「再構成」している「この現実」それ自体も、個々に異なる神経や脳によって作られていて、意識や主観がそう認識した瞬間に、もう既に解釈によって作られた虚構になっているんだよ。ありのままの世界を知覚していると思っているかもしれないけれど。身体や神経や感覚器官や脳による「解釈」を既に経た世界以外の「現実」を把握しうる方法が存在するとは思えない。間主観的に考えるしかないと思う。

杉田 相関主義って主観に応じて客観がある、つまり確実な客観自体はありえない、という相対主義だと思うけど、非相関主義は、主観とは完全に無縁で、影響関係のない物自体的現実があるということですよね。ただし、付け加えると、その唯一的で物自体的な「この現実」とは、因果関係や論理形式によって把握できるリアリズム的な「客観的現実」ではなくって、偶然的・非意味的に変化し続けたり、理不尽な絶滅や消失を強いるノンヒューマンな「この世界」なんだと思う。『この世界の片隅に』では、焼夷弾や地中に埋まって不意に爆発す不発弾などが、それを象徴するものだった。

(後半は3月18日掲載予定)