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笠井潔×藤田直哉『文化亡国論』評――ホールデン少年と殺し合う系の僕ら

笠井潔×藤田直哉『文化亡国論』評――ホールデン少年と殺し合う系の僕ら
旭秋隆

文化亡国論

文化亡国論

笠井潔藤田直哉『文化亡国論』を読んだ。00から10年代に勃興してきた文化系の問題(と思われるもの)が包括的にまとめられている本で、成程、政治状況に寄った『日本劣化論』の姉妹編という位置づけは、そのとおりだと思う。『日本劣化論』と『文化亡国論』を抑えておけば、10年代がどのような問題を抱えた時代であるのかは分かると思う。なかでも『文化亡国論』は、サブカルチャーによっている本なので『日本劣化論』より、多少読みやすく、親しみやすいことは間違いない。『日本劣化論』は、その内容の固さから、年上のお姉さんという感じだけれど、『文化亡国論』は、その親しみやすさから同い年か年下の妹という感じか。

日本劣化論 (ちくま新書)

日本劣化論 (ちくま新書)

 さて、内容については、おおむね同意できるものであったし「この問題が取り上げられていない」ということもなかった。文化(サブカルチャー)から日本社会を見渡すというゼロ年代論法は今でも有効かと思わせてくれた。

だがやはり「おおむね」同意できたものであることは強調しておかなければならないだろう。それは「ヤンキー」に対する認識。現代のヤンキーの源流は、68年から70年代にかけて在日米軍の影響をうけたカウンターカルチャーの一種であった。当時でいえば、権力へのカウンターという新左翼的な感性と、在日米軍という戦後民主主義的な事実から生まれたものであったといえる。現代において、マイルドヤンキーという形であらわれた新たなヤンキーが、そのような戦後民主主義の産物である米軍の影を、どのような形で処理をしているのか整理が必要であったように思う。「狩野派」や「縄文土器」にまで遡れる見識の深さには流石であるが、現代のヤンキーを語るのであれば、アメリカという視点は外せなかったのではないだろうか。

 まあ、本の内容に対し「この事実が書いていない」というのは批判として成り立ちにくいというのは重々承知だ。知っているけど書かなかった、という例なんて多くあるし、あえて無視したということだってあるだろう。この場合だと単に僕の読解能力の低さが起因している部分もあるだろう。

 というわけで、それらしいことを述べたあとに、この本の問題点というか逆機能的な側面も紹介しておかなければならないだろう。この本がどのような読者層をターゲットにしているのか分からないけれど、その論点や話題の多さゆえに、結局、何が「悪」で「問題点」なのか、わからないという点だ。このような感性は「限界研の海老原くんに「ようするに笠井は社会をよくしたいのか、たんに暴れたいのか」という二択をつきつけられたことがあって」とあったが、この感性に似ている。さながら『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン少年に詰め寄る妹のフィービーみたいな気分だ。二人とも僕より年長者だけあって尚更だ。

「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」
「だってそうなんだもの。兄さんはどんな学校だっていやなんだ。いやなものだらけなんだ。そうなのよ」

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 だが、逆に、ゼロ年代サブカルチャーで育った世代、言うなれば日曜朝八時から仮面ライダー同士の殺し合い番組をみて育った今の二十歳前後の人たちに対して「これが正しいことだから」なんていう主張は、およそ説得力を持たないだろう。その年代――敢えて名前をつけるなら、殺し合い系の僕ら世代には。

 そんな殺し合い系の僕らに、影響力がある評論家と言えば宇野常寛の名前をあげなくてはいけないだろう。そして『文化亡国論』もその宇野に対し批判している個所がある。『文化亡国論』は宇野常寛の批判としての側面があることは間違いない。宇野は代表作の『ゼロ年代の想像力』と『リトルピープルの時代』で仮面ライダーから「正義」について語ることが多い。だが彼の語るところは一定の「正義」ではなく、「正義」を語ることのむずかしさだ。

「しかし、この決断主義という回路に自覚的であれば――そこが不可避の終わりのない動員ゲーム=バトルロワイヤルであることを自覚した途端、すべての「正義」が決断主義に回収される状況に私たちは対峙せざるを得ない」(『ゼロ年代の想像力』)


ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

「一方、ヒーロー番組は正義/悪が記述できない世界に対して、常にその絶望を――正義なき時代/正義の不可能性を――引き受けることで表現を構築してきた」(『リトルピープルの時代』)


 だが、これらのことは殺し合い系の僕らに言わせてみれば「んなこと、わかってんだよ」の一言である。セカオワFukaseだって同じことを言っているのだ。幾通りもの「正義」があって、自分の「正義」が誰かを傷つけることになるかもしれないぐらいわかっているのだ。

 宇野が「正義」の再構築に挫折をみていることの原因は、それを仮面ライダーという視点から述べようとしているところにある。

 殺し合う系の僕らは、確かに、仮面ライダー的な状況があったかもしれない。だが、それは生活の一つの局面であり、僕らが暮らしているのは、専ら、日常系のなかなのだ。昨日と同じ今日が来る。大きな一発は決してこない。22世紀は(たぶん)きっと訪れる。そんな日々だ。未成年のうちは教室で、あるいは友人の自宅で、成人になってからは鳥貴族で盛り上がれればいいのだ。正義/悪の二項対立が成立する場面なんて、そうあるものじゃない。その間には、とても広い灰色が存在する。だから殺し合う系の僕らが欲していることは、「幾通りの正義があるんだよ」なんていう説教めいた言葉ではなく、逆に「悪とは何か」ということだと僕は思う。

 この観点は、正義/悪という問題を、仮面ライダー即ち「正義」の側から組み立てることはできないだろう。仮面ライダーは、部室でまったりしない。それでは、僕らが欲しい言葉は手に入らない。

 過激化する就活、嫌韓、嫌中、原発東日本大震災、右傾化、レイシズム。その他諸々。これらを一挙に解決するような「正義」が殺し合う系の僕らの感性で見つけられないのであれば、日常系の僕らがもっている感性にスイッチを入れ、最低限禁止されている「悪」というものを探しださなくてはならない。日常を浸食し、壊してくるであろう「凡庸な悪」だ。たぶん、それは幼稚園でも教えられたぐらい単純なものであるような気がしてならないのだ。『文化亡国論』はそう言った意味で、とても考えさせられる本だ。現代社会の多くの問題から考えられる「本当の悪」とはなにか。現代の問題点を包括している『文化亡国論』は、そんな視点を与えてくれる。

「正義」を探すことに挫折した僕らは全共闘世代、そしてロストジェネレーションの言葉から、「本当の悪」を探さなくてはいけないだろう。