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その後のサブカルチャー戦争――三崎亜記『逆回りのお散歩』【評者:海老原豊】


限界研3冊目の評論集『サブカルチャー戦争』(南雲堂)は、サブカルチャー表象にみられる「あたらしい戦争のかたち」を描きだす試みだった。はっきりといつが基準であると断言できない、または論者によって切断面がばらばらであったりするが、私たちの生きる世界は大きな変化をしているのは確かだ。軍事衝突という意味での戦争行為は、確かに日本はもう半世紀以上おこなっていない。しかし、もっと薄められた、日常の延長上にある(カッコ付きの)「戦争」は、社会のそこここでみることができるようになった。この「カッコ付き」というのが、なんとも難しい問題だ。比喩としての戦争とまではいかない。事実、状況によってはこの「戦争」は、人の生命を奪うこともあるのだから。しかしそもそもの意味での戦争でもない。この二重性に引き裂かれ、私たちが行ったのは(1)戦争の再定義(2)戦争表象の抽出だった。


サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ

サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ



巻末のブックガイド「ポスト9・11の表現を捉えるための作品リスト」で三崎亜記『となり町戦争』(集英社)がとりあげられている。2005年に出版された三崎のデビュー作から7年、2012年には「ポストとなり町戦争」ともいえる作品『逆回りのお散歩』(集英社)が発表された。ここでは三崎亜記の両作品を、『サブカルチャー戦争』が依拠した笠井潔の戦争概念「世界内戦」をブリッジにして考えてみたい。




●『となり町戦争』(集英社、2005年1月)

となり町戦争 (集英社文庫)

となり町戦争 (集英社文庫)



となり町との戦争が始まることを舞坂町に住む「僕」こと北原は、ある日、自宅アパートの郵便受けに入っていた広報誌〈広報まいさか〉で知る。9月1日の開戦日を迎えても、通勤途中に車で通過するとなり町には、しかし、何ら変化がない。もしやと思って期待した渋滞の先には、戦闘行為はおろかいかなる非日常的な痕跡も発見できない。北原がこの戦争を「抽象的、概念的」なものなのではないのかと思ったとき、再び届けられた〈広報まいさか〉の「町勢概況」には転出、転入、出生、死亡につづけて「戦死者12人」とあることに気がつく。やがて通勤を利用した偵察任務へと任命された北原は、10月1日で辞令を受け取り、奇妙な戦争へ巻き込まれていく。偵察任務といっても、いつものどおりの通勤ルートで見たものを報告することだけだが、それなりに評価をしてもらい、次には「分室勤務」の命令が下される。これは北原の対応をしていた、となり町戦争係(役所)の香坂という女性と偽装結婚をし、となり町に住むというもの。より踏み込んだ形での戦争協力をする北原だが、彼にとってこの戦争がリアルであると感じられる瞬間は、なかなか訪れない。



舞坂町もとなり町(固有名は最後まででてこない)も戦争を地域発展のための「共同事業」として推進し、戦死者はあくまでその過程で生じてしまったものだとする。「相手を殺す」という物騒な表現は慎重に避けられ、もし指摘されても速やかに「訂正」されてしまう。いわゆる「お役所の論理」を徹底化させた先にある事業としての戦争。ただし、読者は何度となく疑問をいだく。いったい戦争事業をすることの「メリット」はなんなのか、と。交付金補助金などがもらえる、インフラが整備されるなどなどちょっとした「ボーナス」のようなものへの言及はあるのだが、それ以上のものは決して出てこない。繰り返されるのは「重要な事業」「入念な準備」「住民の合意」などなどなど。はっきり言ってしまえば、『となり町戦争』ははっきりとした設定を作りこむタイプの作品ではない。テレビドラマ・シリーズ『世にも奇妙な物語』のように、私たちが日常だと思って歩んでいた地面がいつのまにか非日常によって侵食されていたことに気がつかせるタイプだ。



『となり町戦争』の新しさは、新しい戦争のかたちを捉えようとしたところにある。笠井潔が『8・15と3・11』(NHK出版新書)で的確に描写したように、戦争形態は、19世紀は国民戦争、20世紀には世界戦争へと変化した。国民戦争とは、国家間で互いに交戦権を認めたうえで、外交の一手段として行われる「保護限定された相対的性格の戦争」のこと。ただし20世紀に入り、世界大戦の時代に突入、国家同士が「世界国家」(メタレベルから諸国を管理する)となろうと文字通りの殲滅戦をしかける。戦災者と戦死者を原理的に区別できない「無制約な絶対的性格の戦争」が20世紀的世界戦争だ。21世紀、テロと戦争を区別できず、戦争主体もあいまいな「世界内戦」の時代が到来する。カール・シュミットは一時的に法秩序が停止する状態を「例外状態」と呼んだが、20世紀的な世界戦争は、いずれも例外状態を内包した国家によって遂行された。21世紀、世界内戦の時代、例外状態は国家ではなく社会に瀰漫した。これを笠井は「例外社会」と名づけた(くわしくは大著『例外社会』朝日新聞出版を参照)。


8・15と3・11 戦後史の死角 (NHK出版新書)

8・15と3・11 戦後史の死角 (NHK出版新書)


さて、かけ足で、国民戦争(19世紀)→世界戦争(20世紀)→世界内戦/例外社会(21世紀)という流れを見てきた。『となり町戦争』は21世紀の世界内戦/例外社会の一側面を切り取ったものと位置づけられる。例えば「地元説明会」の様子をみてみよう。これは戦場となる地区で、住民に対して開かれるもので戦闘の実施時間や予定地区などを知らせるものだ。もちろん住民が質問することもできる。ある住民から「保育園から子供が帰ってくる時間」と戦闘時間をずらせないかという要望が出され、別の住民から「戦闘で割れた窓ガラスの補償金」についての質問がなされた。北原がいうようにとにかく住民たちは「自分たちの、日常の利害の問題に終始」している。そしてまた、戦争遂行主体である役所(係)は、住民感情をくみとり、最大限の理解を得ようと努力する。地元説明会で繰り広げられる住民と役所のやり取りは、例外状態が瀰漫した社会=例外社会で事業として戦争が行われるときに、それでもなお法秩序(役所の論理)を貫徹しようとしたらどうなるかという一種の思考実験を小説にしたのだといえる。いかに私たちの生きる社会が例外状態を内包しているといっても、なんらかのルールがなければ社会そのものが瓦解してしまう。『となり町戦争』は、例外社会のルール(すなわち非例外的なもの)を具現化する試みだといえる。




『となり町戦争』から7年。三崎亜記は、新しい戦争のかたちに取り組んだ。それが『逆回りのお散歩』だ。


●『逆回りのお散歩』(集英社、2012年11月)


逆回りのお散歩

逆回りのお散歩


今はB市に住んでいる聡美は、故郷A市で高校時代の友人・和人と再会する。お互いの変わった・変わらない話をするなかで、話題になったのはA市とC町の統合計画だ。和人はこのままでは「A市はC町に乗っ取られてしまう」といって統合計画そのものに対してひどく反発している。そして和人が「戦争」として聡美に紹介したのは匿名掲示板を中心に盛り上がりを見せるネット上の統合反対運動だった。聡美は陰謀論めいた和人の話に最初は半信半疑だったが、買い物先のスーパーにまかれたビラや、陰謀論を確かめにいった役所窓口で目撃したクレーム電話、旧友たちの不可解な態度(「C町をそんな風にいうなんて!」)を目の当たりにし、何かが不可解な事態が進行中だと考えるようになる。


「A市統合問題を考える会議室」と題されたウェブサイトには、こんな風に書かれている。


これは「戦争」だ!
戦争とは、武力での対立のみを指すものではない。心理戦、街宣活動、ゲリラ戦術、スパイ活動……そして実際の戦闘活動。それらすべてが、我々にとっての「戦争」として位置づけられる。
[中略]戦争の相手はA市ではない、そしてC町でもない。
これは我々自身が、真実を選び取るための戦争なのだから。
各自、それぞれの「戦場」で、戦いを進めてほしい。(pp. 26-29)


「室長より」と題されたこのアジ文は、『逆回りのお散歩』を『となり町戦争』のあとへと位置づける。和人が明確に述べているように、この戦争はウェブで燃え上がる炎を、いかにして現実世界へと「飛び火」させていくことを目的とする。そしてビラ・電突(凸)・デモ(逆回りのお散歩)など、私たちの生きる現実世界でも実際に見られる具体的な手段が描写される。


そしてこの「戦争」を下支えするのが、歴史だ。この歴史は、唯一の絶対的な歴史ではなく、人間の数だけありうる相対的な歴史。「悲しい落書き事件」を機会に、A市の人間はC町の人間を「尊重」するように、教育を受けている。表立っては役所がしているのだが、間には専門のコンサルティング会社が入ったともいわれている。また「A市史」も統合を機に大幅に書き換えられつつある。以前にはほとんど重きを置かれていなかったC町との関係を、「絆」「結びつき」といった抽象的な、それでいて親密さを示す文言を用いて描写することで。この点で『逆回りのお散歩』は、歴史教育/修正主義の問題系を確実に受け止めている。


生活実感とは遊離しがちであるウェブ。生活実感の根拠となりうる歴史。ウェブと歴史は、私たちの生きる日常からスタートして正反対のベクトルを向いているように思える。しかし『逆回りのお散歩』が示しているのは、180度反対方向のベクトルが一周まわってぶつかる瞬間だ。本書が見せた無限に増殖していくウェブ/歴史の可能性は、現実世界を参照してみれば、中国との尖閣諸島、韓国との竹島といった、2012年に浮上した領土問題が対応物として発見できる。国家間の異なる主張を調停する世界国家が存在しない(機能不全)である現在、各国は自分たちの手で歴史に正当性に与えなければならない。一見すると、これらの領土問題は昔からある国民国家の領土争いに見えるように思える。しかしグローバル化の果ての領土問題は、ウェブ/歴史の可能性を一点に止めることの不可能性もまた織り込んでいる。『逆回りのお散歩』が面白いのは、ウェブに増殖する可能性を、現実の歴史へと落とし込む具体的な手続きを示そうとしていることだろう。ウェブの炎を現実へと移す。あるいは、全くその反対に、ウェブの炎を現実に移すことなく消し去る。『となり町戦争』の戦争事業と同じく、この延焼/消火は入念な準備と長い時間がかけられている。物語はオープン・エンディングであり、ウェブ/歴史はひとつに収束しない(不可能性)。ただし、その不可能性をどう生活実感へと取り込んでいくのか、細いながらも道筋が示されている。