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藤田直哉の批評的転向…? 笠井潔×藤田直哉『文化亡国論』の右傾エンタメ論

藤田直哉の批評的転向…? 笠井潔×藤田直哉『文化亡国論』の右傾エンタメ論

笠井潔×藤田直哉『文化亡国論』(響文社)

文化亡国論

文化亡国論

藤田直哉は「主張を変更しなくてはいけない必然性を感じる」と述べている。

右傾化の問題ですが、これまでぼくは、どちらかというと、ホラーやスプラッタ、ヴァイオレンス系のフィクションの場合、フィクションは現実に模倣されるわけではないと主張する立場でした。しかし、最近の文化の様子を見ていると、どうもフィクションがフィクションとして自立していないのでは、どう危惧感を強く感じざるを得ません。フィクションが自立する気概を見せず、政治などに利用されてしまう状況では、主張を変更しなくてはいけない必然性を感じてしまう。(『文化亡国論』p.133)

別の箇所では宇野常寛を批判しつつ、批評家は主張を一貫させるべきだ、一貫性がないなら主張の変化の経緯を分かるようにするべきだと藤田は述べている。彼がフィクションの自立を説く、つまりは現実がフィクションの模倣をする状況を(一部であれ)認めるのは、彼の主張の変遷であり、『文化亡国論』はその曲がり角の一つとして記録されるのだろう。

藤田直哉は、最近のエンタメが過去の戦争を美化とまではいわずとも、熾烈な箇所に触れないでいることで、人々の戦争にまつわる想像力が貧困になり、国家に政治利用されるのではないか、と危惧している。彼は右傾エンタメに見られるこの手の戦争表象を「軽い戦争」と形容する。実は、右傾エンタメについては、その代表作(仮想敵?)が百田尚樹『永遠の0』と、自衛隊を描いたいくつかのものしかなく、ここでの議論は深まりようがない。ただ、藤田の懸念は、全く的外れというわけではない。

エンタメはどのように戦争表象を扱ってきたのか少し考えて見たい。まず表象される戦争がどのようなものかによって、「史実の戦争」と「フィクションの戦争」に大きく分けられる。

「史実の戦争」がさらに重い/軽いに分けられるわけだ。藤田の「行軍が辛かったとか延々と穴を掘り続けたとか、いろんな戦争体験を元に書かれた小説やそれを元にした映画が作られてきて、それを読むと、戦争は嫌だなぁと思う」(p.121)という発言から考えるに、重い/軽いは、戦争の「嫌な部分」(良い部分があったとして)のある/なしと関係している。

デーヴ・グロスマン『「人殺し」の心理学』(原書房)が明らかにしたのは、人は人を殺すようには出来ていない、ということだった。戦場には驚くほど多くの非発砲者がいる。軍隊は人間に備わっている同種殺しをしないためのセイフティロックをはずす術を開発してきたし、戦場で人を殺した/殺されそうになった兵士は、みないずれも深い精神的障害を負う。あるいは、戦時下の性暴力。あるいは、太平洋戦争での戦死者の半数以上は餓死という事実。こういった、戦争についてまわる「嫌な部分」に直面した作品は、洋の東西を問わず、無数にある。だが、日本においてはそういった要素が抜け落ちてどんどん「軽く」なっているのではないかというのが藤田の問いだ。重い部分が抜け軽くなると、戦争へのパブリックイメージもソフトなものとなり、国家によって利用される可能性は出てくる。そもそも、なぜ重い戦争イメージがかつての戦争(戦後)文学や映画で共有されていたかといえば、周囲に復員兵や戦災を生きのびたものたちが大量にいたからだろう。軽い戦争イメージなどあり得なかった。それから70年たち、そして日本は対外的な戦争を一度もしていないのであれば、戦争のイメージが軽くなるのは、ある意味で必然かもしれない。

ずっと戦争をし続けている国アメリカの戦争表象はどうだろう。戦争の「嫌な部分」に肉薄した文学・映像作品は無数にあるが、その一方で、兵士の士気を高めるような作品もまた無数にある。戦闘によって負ったトラウマが原因で銃を握れなくなったものが、再び敵を撃つことで自尊心を取り戻す、というのは(映画で)好まれる展開の一つだ。兵士ではないが警察官なら『ダイ・ハード』がすぐに浮かぶし、敵は人間ではないが『バトルシップ』にも同様のプライド回復シーンがあった。戦い続けることを選択するアメリカにおいて、兵士の感じる心理的負担を少しでも軽減するには、戦う人間を立派に描くことぐらいしかできないのかもしれない。ともあれ、アメリカは「重い戦争」と「軽い戦争」の両方の表象があり、互いに牽制しあっているといえる。

「フィクションの戦争」はどうだ。昔からエンタメではフィクションの戦争を扱ってきた。戦争には人の生き死にがあり、人間個人を超えた大きなもの(国家や正義)が賭けられ、単純に言えば「熱く、盛り上がる」展開を作りやすい。エンタメの「フィクションの戦争」には、嫌な部分を描くこれみよがしに描くものもあった。富野由悠季ガンダムシリーズが、エンタメにおける戦争表象を考えるうえで真っ先に思い浮かぶ。敵・味方が入り乱れ、時に三つ巴にすらなる。正義とされた組織の腐敗、戦争犯罪や虐殺、兵士としての心理的葛藤もストーリーに差し挟まれる。富野が監督したほかのアニメにもいえるが、戦うこと(戦争すること)につねに「居心地の悪さ」がつきまとう。富野的な作品がある一方で、「嫌な部分」を含む作品と同じかそれ以上の「軽い戦争」が主題となるエンタメもある。「軽い戦争」とは戦争を図式的に単純化し、カタルシスを与えるものとするものだ。

どちらが良くてどちらが悪いというわけではないと思う。時代、読者・視聴者の好み、それに作家性。いくつかの要素が絡み合って、エンタメ戦争表象の名作や人気作が抽出されていく。この「フィクションの戦争」エンタメは、概して、戦争表象に「嫌な部分」が欠けていたからといって避難されることは少ないように思う。藤田の言葉を使えば、それはフィクションが現実から「自立」しているからだろう。現実は現実、フィクションはフィクション。いわば「別腹」として、それを楽しむものは理解している。「フィクションの戦争」エンタメにドハマりしているからといって、愛国的で好戦的で、戦争大好きな人間になるわけではない、と(当たり前だが)考えられている。

一概に「フィクションの自立」といっても、それが「史実の戦争」か「フィクションの戦争」なのかは、分けたほうが良い。藤田の議論が雑になるのは、この点だ。両者は地続きであることは確かだが、フィクションと現実との関係を両者ともに同程度に扱うのは問題がある。「史実の戦争」エンタメにおいてフィクションが自立していないというのは、歴史修正主義的であり、過去の戦争の「嫌な部分」の浄化に加担している。対して、「フィクションの戦争」エンタメにおいては、そもそもフィクションは現実と混同されにくい傾向がある。

状況はポルノや性/人種差別の問題とも類比的だ。現実の行動の背景に、フィクションや表象が醸造した時代の「空気」がある。ポルノが現実の性的行動を支配するわけではないが、全くの無関係でもないだろう。AVによってポピュラリティを得た各種プレイが、例えば風俗店で体験できるという現実があるように。

好戦的や戦争賛美とまでは行かなくても、戦争の「嫌な部分」をオミットした作品、それも「史実の戦争」エンタメがもし今後、大ヒットして人々に読まれるのであれば、それは間違いなく人々の戦争イメージを変容させるだろう。その結果、何らかの具体的な政治的/軍事的行動に影響を与える可能性は否定できない。という程度でエンタメは右傾化している。

藤田直哉は現実がフィクションを模倣する可能性に言及し、自らの批評的立場を変更するべきかもと言っている。考えるべきは、フィクションの種類で、現実が模倣する程度も、そのフィクションの種類によって異なるのではないかということだ。現実から相対的に自立しているフィクションだとしても、何らかの影響関係はあるだろう。またフィクションの側でも、例えば最近のハリウッド映画の「事実に基づいている」という但し書きが示すように、現実を取り込む姿勢を見せている。どちらか一方が他方を模倣するというよりも、両者が渾然となって現実よりももっともらしい「リアリティ」を生み出しているのかもしれない。(海老原)



藤田直哉・竹本竜都のトークイベント6月11日(木)19:00にあります!