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攻殻機動隊 stand alone complex solied state society論【評者:旭秋隆】

攻殻機動隊 stand alone complex solied state society論
――対「大きな現実」戦争の前夜――


文責:旭秋隆


1. 目標と分析の視座の設定

 現在の我々の生活において、インターネットや携帯電話というメディア*1は最早、無くてはならない存在となっている。そのため、無論、社会や個人というものを考えたとき、そのようなメディアの影響は考慮されなくてはならない。かのようなメディアが爆発的に普及し始めたのは、1990年代後半だが、その普及の影響が良くも悪くも、如実に表れ始めたのは2000年代、所謂、ゼロ年代であると思われる。成程、確かに、新たなメディアは人の生活を快適にし、その利便性は日々、高まっている。しかし、ゼロ年代において人々の注目を集めたのは、そのような利便性ではなく、むしろ、悪影響だったと云ってもよい。そして、その悪影響と結び付けられ考えられたのが凶悪犯罪だった。代表的な事件として劇場型犯罪と云われた秋葉原無差別殺傷事件があり、それ以前にも佐世保で起こった小学校6年生の女児による同級生殺害事件もインターネットとの関係が強く意識された。勿論、このような悲惨な事件の原因が凡てインターネットや携帯電話にあると云ったような一元論的な解釈をするわけではないが、しかし、新たなメディアの登場はその使用者に影響を齎すことも、また、事実である。そのような影響は世代により大きく異なっている。例えば、そのような世代の区分としてアメリカの作家、マーク・ブレンスキーの造語であるデジタルネイティブというものがある。デジタルネイディブとは、1980年代以降に生まれた世代を指し、彼は、その特性として、「ランダムに情報にアクセスすることを好む」や「インターネットに繋がっているときが好き」などを挙げている。このような造語の登場で分かるように、新たなメディアによる影響は世代間によって大きく異なることがわかる。そして、このようなメディアの影響というのは、自己への意識にも影響を及ぼす。
 さて、少々前置きが長くなったが、このような新たなメディアによる社会の変化、自己への影響を考える上で、神山健治監督作品「攻殻機動隊 stand alone complex solied state society」(以下S.S.S)は重要な位置を占める。本作ではテレビ放送された「攻殻機動隊stand alone complex 2nd GIG」の続編という立ち位置であり、「個別の11人」事件後、草薙素子が公安9課を去った2年後、13人のテロリストの連続自殺を調査している公安9課が、その事件の黒幕とされる超ウィザード級ハッカー傀儡廻し」、再会した草薙素子の云う「solid state」の正体を追うことを主軸として物語が進んでいく。では、ここでアニメ作品、とりわけ「S.S.S」を論じる必要性があるのか。それは「攻殻機動隊」シリーズ最大の特徴である、その世界観に理由が存在する。「攻殻機動隊」シリーズ最大の特徴は世界観、即ち「情報ネットワークとサイボーグ技術が発達し、人々の意識が電脳で結ばれた世界」である。そして、そのような世界観をもっているなかで特に「S.S.S」という作品については、2011年に公開されたものに関しては、「それは観る人を電脳化する3D」と謳っているように、電脳化というものが普遍的な社会と、それによる自己の変容だけでなく、変容した先の可能性を見据えている作品となっているからである。そのため本論は、「S.S.S」にあるキャラクターとその物語を支えている背景を切り口にし、私たちが生きている社会においての主体の在り方を「S.S.S」のなかで発掘、新たに捉えなおすことを目標とする。
2.1 物語の背景まで

 攻殻機動隊では先に述べたように「情報ネットワークとサイボーグ技術の発達により比人々の意識が電脳で結ばれた世界」だが、翻って、私たちの住む社会において、携帯電話やインターネット等の新たなメディアはどのように広がってきたのか。その源流は1980年代、オフィスコンピュータやワープロが急速に広まったことにある。それに伴って社会ないし政府自体も新たなメディアによる社会構造の変化を受け入れるように要請された。例えば、1993年、アメリカでは当時大統領であったクリントン大統領とゴア副大統領が「情報スーパーハイウェイ構想」を公表し、それ以降、積極的に行政の電子化が進められるが、日本もこれに続くように、1994年には内閣総理大臣を本部長、内閣官房長官郵政大臣及び通商産業大臣を副本部長とする高度情報通信社会推進本部が内閣に設置される。また同年「行政情報化推進基本計画」が閣議決定され、行政情報の電子的な提供、申請など、行政情報化推進のための基盤整備が行われることになった。他にも1999年には「高度情報通信社会通信社会に向けた基本方針」が策定され、それにより、電子商取り引きの本格復旧、公共分野の情報化、情報リテラシーの向上、情報通信のインフラ整備の四つが目標として定められた。それ以降、例えばe-Japan重点計画などが次々と打ちたてられるなど、「高度に情報化した社会」へ至るための準備は次々と進められてきた。また、社会的側面だけでなく、この情報化は人々の日常生活にも影響を与えている。その最たる例がインターネットと携帯電話の登場である。特に携帯電話は、その普及の源流は社会が情報化を目指し始めた1980年にあると云ってよい。1985年、電気通信事業法が施行され、それによってNTTなどが民営企業化したことに端を発する変化は、1984年、の「携帯電話」発売を経由し、1994年、端末の売り切り制度がスタートし、これにより携帯電話市場が一気にブレイクするまでに至る。1995年、更に低価格のPHSが若者中心に普及し、2012年3月の時点では、国民の97%が携帯電話を所有している。このように社会ないし行政だけでなく、個人を取り巻く環境も爆発的に変化したと云える。また、このような社会変容による影響を考えるならば、グローバリゼーションも密接に関係してくる。例えば、モノの生成においては、先進国が第三世界に「外注化」することなどが云えるし、例えば、いち早く情報にアクセスし、その情報に依拠した発明に対し、知的財産として取り囲むことができる。そのため、先進国の製薬企業や化学企業のなかには、伝統的にインドで医療品や農薬として利用されていた成分を発明したとし、特許を獲得しているといった具体例もある。情報というものが、今や、社会のヒエラルヒーのなかでも上位にあるという認識へのうってつけの例である。

2.2 フィルターバブルの影響

 そして、2012年現在、とりわけインターネットというメディアの変化は驀進を続けている。アメリカ最大のリベラル系市民政治団体の一つ「ムーブオン」の理事長であるイーライ・パリサーの云うフィルター・バブルという言葉も、このような驀進から生み出されたと云っても良い。「新しいインターネットの中核をなす基本コードはとてもシンプルだ。フィルターをインターネットにしかけ、あなたが好んでいるらしいもの――あなたが実際にしたことやあなたのような人が好きなこと――を観察し、それをもとに推測する。これがいわゆる予想エンジンで、あなたがどういう人でなにをしようとしているのか、また、次になにを望んでいるのかを常に推測し、推測のまちがいを修正して制度を高めてゆく。このようなエンジンに囲まれると、我々はひとりずつ、自分だけの情報宇宙に包まれることになる。」*2このような状態こそが、イーライ・パリサーの云うフィルター・バブルである。一見、人々の生活を快適にする技術のように思えるが、その半面として危惧しなければならない事態があることを把握しなければならない。フィルター・バブルとは、ユーザーが特に興味もないようなものをなんとなく衝動的にクリックしたとしても、それをユーザーの本質と見なす。このことによって、フィルター・バブルの影響も相まって、衝動的にクリックした話題と関連するものを。ユーザーは次から次へと表示されることになる。云わば、情報を詰め込まれるのだ。このような情報の詰め込みによって、人の意識は劇的に変化する。このことをプライミング効果という・フィルター・バブルによる情報の詰め込み、プライミング効果を踏まえたうえで、イーライ・パリサーは、衝動的にクリックした話題に対する二回目以降の現象について以下のように述べている。「クリック2回目以降は脳の動きも絡んでくる。脳は、認知的不協和というものをなんとも非合理的なやり方で解消しようとする。つまり「もし自分がXをするような人間でないのなら、なぜ、Xをしたというのだろうか。だから、自分はXをする人間でなければならない」と考えるのだ。このループでは、クリックするごとに自分の正統化が行われる。」*3このような現象は社会学者の鈴木謙介が『ウェブ社会の思想』で述べていた自己に対する宿命性の強化に繋がると考えることができる。『ウェブ社会の思想』のなかで鈴木謙介は、古谷実の作品である漫画『ヒミズ』に出てくる「決まってるんだ」と囁く「ひとつ目の怪物」を引き合いに出し、ウェブ社会における宿命的自己について述べている。そして、成程、宿命へ導くという点では、フィルター・バブルとかなり重なる部分がある。インターネットが広く普及した社会では、誰しもが「決まってるんだ」という宿命、ネットが生んだ「ひとつ目の怪物」につきまとわれる可能性が存在するのである。

3.1 『S.S.S』の骨子

 ところで、冒頭に挙げた秋葉原連続無差別殺傷事件を受け、ジャーナリストの吉岡忍は、「「大きな物語」の時代は終わった、という。たしかに一九九〇年代、誰の目にも共産主義革命や世界革命を謳うイデオロギーの残酷な嘘が明らかになり、人を惹きつけられなくなった。」と前置きをし、更に「あの日、秋葉原で無差別殺傷事件が起きたことを知り、犯人が二十五歳だとわかったとき、とっさに私は、これで「小さな物語」論は終わった、と思った」と述べている。小さな物語、即ち、周囲の環境や人間関係で満足する物語に対し、なぜ、吉岡は「終わった」と直観したのだろうか。吉岡は秋葉原無差別殺傷事件の犯人が、低賃金と不安定な身分の問題が事件の背景にあったと指摘したうえで「私の考えでは、「大きな物語」は失効したけれど、「大きな現実」はある。新自由主義カジノ資本主義やグローバリゼーション等々は、ますます大きく現実を揺さぶっている」 と述べ、これにより「大きな現実とその余波は、私たちの暮らし、私たちが日々思ったり、考えラリすることを間違いなく揺さぶっている」*4と述べる。
 「S.S.S」という作品自体を捉えなおすことに対し、「大きな現実」という視座を踏まえることは非常に重要である。なぜなら、この作品内でも、「大きな現実」の成分であるグローバルのなかの自国を少なからず意識しているからである。物語の終盤、政治家であり、純潔の日本人による階級支配をもくろむ反動保守のナショナリストである宗井仁は「公務員のくせに。この国がどれだけ危機的状況にあるのか理解していないようだな。今のままではそう遠くない未来に我が国の繁栄は多民族にとって代わられる」と主張するが、この科白が「大きな現実」を少なからず意識していると見なすことのできる最たる例である。そのため、「大きな現実」こそが、「S.S.S」の背骨だと云える。

3.2  「大きな現実」から「小さな物語」を守ること。

 翻って、『S.S.S』という作品の内容を捉えなおしてみよう。この作品において公安9課が立ち向かう相手は、少子高齢化に伴う介護問題を解消するため、子どもをさらい記憶を改竄する政府ないし社会のシステムそのものである。物語の終盤、公安9課を離れ単独で活動をしていた草薙素子は調査を断念し、公安9課に復帰することになり、事件の原因を究明することになるが、その根本にある社会システムを構築していたのは、草薙素子の無意識が独り歩きした存在によるものだった。*5そのため、草薙素子というキャラクターは、この作品において二つの面をみせることになる。
 彼女は結局、公安9課と合流することになるが、その理由は極めて単純で、調査に行き詰ったことによるものだった。物語のラストシーン、事件の顛末を語り終えた上で、バトーは草薙素子にこう尋ねる。「で、これからどうする。また個人的推論に則った事件への介入ってやつを一人で続けていくつもりか」。これに対し、草薙素子は悟ったような口調で「それも限界かもね」と呟く。
 草薙素子は「個人的推論」という事件に対する彼女自身が組み上げた物語を前提に単独を試みる。しかし、結果的に草薙素子は自身の「個人的推論に則った調査」に対し「限界」と、その方法論の行き詰まりを吐露している。ではなぜ彼女の「個人的推論に則った調査」は行き詰ったのか。それは端的に云えば調査の基準を自己の推論においているからである。「S.S.S」で起きた事件の根源は独り歩きしてしまった彼女のネットに残留した彼女自身の無意識が結集した姿、つまり草薙素子自身である。
 このことを踏まえると、草薙素子が解決しようとした事件というのは、草薙素子自身が作り出したシステムであり、転じて云えば、もし草薙素子が単独で事件を解決したのであれば、それはつまり、草薙素子が無意識に作り出してしまったものを意識的に解体するということになったはずだ。しかし、物語はそうならなかった。
 このことは現実の生活においてある危険性を提示している。「S.S.S」の立ち位置と同様、現代にいる我々もまた「大きな現実」のなかにある存在だ。そして、吉岡が先に指摘したとおり「小さな物語」は「大きな現実」に揺さぶられている。更に云えば日々、インターネットを使用する私たちの無意識とネットによってつくられた「ひとつ目の怪物」は「決まっているんだ」と宿命を囁いている。この図式は、吉岡の「小さな物語」が崩壊するという宣言を強固にしている。つまり「大きな現実」に揺さぶられている「小さな物語」は、「決まっているんだ」という宿命のため、無抵抗なまま「大きな現実」に壊されることを傍観するしかないということだ。「小さな物語」の危機。しかし、吉岡の宣告通り、本当に周囲の環境や人間関係に満足する、更には「宿命」によって雁字搦めにされてしまった「小さな物語」は「大きな現実」を前に崩壊するのだろうか。
 「S.S.S」の先鋭的な個所は、結果的にその「宿命」と「大きな現実」を前にした「小さな物語」の危機の乗り越え方を示している点にある。では作中において、一体、どこで「危機」を乗り越えているのか。公安9課と合流し、事件の核心として浮かび上がってきた聖庶民救済センターに乗り込む直前、草薙素子はこう云う。「委ねてみるわ、ゴーストの囁きに」と。更に云えば、草薙素子は「個人的推論に則った調査」の「限界」をバトーに吐露した後、「それにしてもネットは広大だわ」と最期に云っている。
 私はこの「ゴーストの囁き」を聞くことになった草薙素子の辿った道程こそが「危機」を乗り越える方法を示していると考えられる。つまり、公安9課へ合流することになった草薙素子は、この時点で「個人的推論に則った調査」を断念し、その限界を悟り、先の「ネットは広大だわ」という科白も踏まえれば、この時点において再度「ネットの広大さ」に自覚的になりながら、様々な経歴を持つ公安9課に合流している。
 現実に即して云えば、先の無意識とネットが生んだ「宿命」にしても、それを生んだネットの広大さに自覚的になれば、「決まっているんだ」という「宿命」には囚われない。そこには「何か別の回答、自身の「小さな物語」を「大きな現実」から守る方法があるはず」というネットの広大さを担保にした確信が生まれるからである。
それは、更に云えば、「大きな現実」さえ変化させてしまう可能性も孕んでいる。そしてそのことは勿論、「S.S.S」が示している。
 「S.S.S」の終盤、事件の一切が暴かれ、その中核にあった聖庶民救済センターへ警察の調査が本格的に始まる場面において、公安9課のトグサは荒巻課長に「課長、俺たちの出来ることって何なんですかね」ともどかしさを吐露する。それに対し、荒巻は「一つだけ云えることは、我々は自らを律するルールのなかで不条理に立ち向かっていくしかないということだ」と答える。その後、トグサは誘拐された子どもたちが囚われていた聖庶民救済センターを見上げながら「願わくば、成長した彼らが将来、個のポテンシャルを上げて我々が出せない答えを見つけ出してくれることを祈るばかりだ」と静かに思う。
 ここにある「個のポテンシャルを上げる」ということがまさしく「大きな現実」を変容させる方法である。インターネットは何も自身によって都合のよい情報を摂取するためだけのものではない。その真骨頂は旧来のメディアにはなかった発信力や〈いま・ここ〉といったような場所性、時間性を超越できる点にある。
 現実に即して云えば、「大きな現実」の変容として捉えるべき事態は、世界規模でみれば多発していると云える。そしてそれらは奇しくも、宿命という怪物を生んだネットから生じたもの、所謂、ソーシャルメディア*6と云われるものがきっかけである。2011年に中東チュニジアで起こったジャスミン革命、同年、その影響は波及し、エジプト革命を引き起こした。前者において、「フェイスブック」では毎日の政治決起デモに関する情報が国名にアップデートされ、国民の間に広く共有され、これが政権打破につながった。後者もほぼ同様であり、大規模なデモ活動が展開されたのはフェイスブックツイッターでの呼びかけがきっかけだった。
 「個のポテンシャルを上げる」ということは何も個人の知識量や教養のことを指しているのではない。それは、メディア論の父であるマーシャル・マクルーハンが新たなメディアは人間の感覚を「拡張」するというテーゼそのものである。〈いま・ここ〉を超越し、インターネットによって自身を拡張すること。このことこそ、トグサの云う「個のポテンシャルを上げる」ということである。このことは転じて、公安9課に合流した草薙素子にも同じことが云える。彼女も合流したことによって、電脳を通じ意識を公安9課のメンバーと結び付け「ポテンシャルを上げた」ことにより自身の無意識としての草薙素子を乗り越えることが可能になったと云える。
 「大きな現実」を前に「小さな物語」を守る方法は一つ。ネットの広大さに対し自覚的になることによって宿命を乗り越える。加えて「小さな物語」は別の「小さな物語」にいるであろう自身にとって異質な他者と、「小さな物語」を守るという点での連帯を試みることによって守られる。そして、チュニジアやエジプトを例にすれば、自身を「拡張」し純粋ではない他者と結び付けばネットと無意識が生みだした「宿命」どころか「小さな物語」を揺さぶっている「大きな現実」だって変革することができるのだ。

*1:メディアの本質はコミュニケーション手段を媒介する手段という点にある。換言すれば、メディアは情報を送り手から受け手に電鉄するための道具、手段として用いられるものだが、本論では、コミュニケーションだけでなく、情報の蓄積、処理するための道具を含めてメディアと定義する。

*2:イーライ・パリサー『閉じこもるインターネット』早川書房、2011年、19頁

*3:前掲、156頁

*4:洋泉社ムック編集部『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』洋泉社MOOK、2008年、74頁

*5:尚、作品内では、システムを構築したのはヨシキタテアキという総務省官僚とバトーが報告しているが、草薙素子がヨシキタテアキとされている人物の電脳に潜り込む場面では、そのヨシキタテアキが草薙素子の顔を模すため、ヨシキタテアキ=草薙素子ととれる場面がある。そのため、作品の黒幕=システムを構築した者に関しては、官僚ヨシキタテアキか草薙素子の無意識の二通りの味方が可能であるが、本論では後者を採用する。

*6:主としてパソコンやケータイ端末のインターネット上で、新しいウェブ技術を利用して、ユーザーが生成・提供するテキスト、音楽、動画などの各種情報を共有し、コミュニケーションを行ったり、オンライン上でマーケティング活動を行うためのツールと本論では定義する