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佐々木敦×藤田直哉トークイベント「虚構内存在の存在論」@東京堂書店(2014年10月17日) その2/4

(承前)

次は『あなたは今、この文章を読んでいる。』から少し離れて、この本が書かれるに至った文化状況の確認がなされた。



藤田直哉は、ネット小説『絶望の世界』二次創作していた少女が実母に毒をもった事件について触れ、フィクションを介して自己の実存を提示するようなメタフィクション的自己意識は大衆化したのだと述べる。筒井康隆朝のガスパール』や2ちゃんねる以降、私たちは2ちゃんねる的感覚にどっぷり浸っていると指摘。匿名の存在が大量に書き、個人の作者の存在がそんなに偉いとは思えなくなっている。匿名の膨大な書き込みは政治的決定にすら影響を与え、メタフィクション的感覚は広く大衆化した。藤田はここ20年の文化状況をそうまとめて、パラフィクションとの関係について、佐々木に意見を求めた。


佐々木が指摘したのは、ゼロ年代メタフィクションが何度目かの隆盛を迎えたことだった。アニメ、ゲームなどでメタフィクション的な仕掛けをもったものが膨大に登場。そもそもゲームはメタフィクション的である。オタクカルチャーだけではなく、社会にも確実にメタフィクション的感性は共有されていたはずだ。大澤真幸『虚構の時代の果て』で述べられていた「虚構の時代」が終わった現代を何と呼べばよいのかという問題には、木原善彦『UFOとポストモダン』の諸現実の時代を踏まえ、自分は「諸虚構の時代」と答えたいと佐々木は述べた。


UFOとポストモダン (平凡社新書)

UFOとポストモダン (平凡社新書)

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)


未知との遭遇』でも指摘したとおり、現実と虚構の区分自体がすでに失効し、なんでもリアル、なんでも虚構の時代に私たちは突入しているのだと佐々木。藤田が匿名性を高く評価したことを受けて、佐々木は『電車男』にも「書いたとされる人」はいいて、作者の権能は集合知の場合でも存在するのだと反論した。

未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ

未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ

次に藤田が紹介したのは、先日、話題になったイスラム国へ行きたいと言い当局の聴取を受けた北海道大学生の事件。日本というフィクションが嫌で、イスラム国というまた別のフィクションへ行きたかったのではないか。シリアという生々しい戦争現場も、また別のフィクション(虚構)でしかなかったのではないかと藤田は問いかけた。北大生にとっては「諸虚構=諸現実」と言える世界観がどうもあるようだと。


佐々木は、「自分は虚構内存在ではないのか?」という不安は、根源的なもので、誰しも幼少期に考えたことがあるものだとしつつ、インターネットと不況のせいでさらなるメタフィクション的感性が昂進したのではないかと分析。


不況、そして311以降、オタクが耽溺していた虚構そのものが維持できなくなったという現実は確かにあると藤田は言い、自身が『すばる』に書いた「前衛のゾンビたち」という地域アートの諸問題を論じた論考へと話は続いていく。(2/4)(海老原豊



佐々木敦×藤田直哉トークイベント「虚構内存在の存在論」@東京堂書店(2014年10月17日) その1/4