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飯田一史『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』クロスレビュー

評者:蔓葉信博

 飯田一史『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』では、Amazonランキング一位を獲得したライトノベルについて論じられている。その考察の枠組みとして「ライトノベルの三層構造」や「成功要因」などが用いられており、評者は他のジャンルに同様の枠組みを当てはめて考えることも可能なはずだと思いつつ本書を読み進めていた。おそらく『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』を読んだ読者の何人かは、私と同様に自分が関心を持つジャンル小説にこの枠組みを当てはめたいという誘惑にかられたのではなかろうか。

 当該ブログでは、すでに特別企画枠で『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』が論じられている。だが、定期コンテンツとして用意した「名作新作クロスレビュー」を休止するのも惜しいと考え、予定通り原稿を追加する次第だ(そもそもこのレビュー枠は、研究会内部の読書会の活動結果をアウトプットするべく用意されたものである)。それは上に述べたような誘惑を言葉にしてかたちを与えることも、有益だろうという判断からである。ただし、屋下に屋を架すのも無駄なので、『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』についての総論的なまとめは略し、さらなる議論を進めたい。

 『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』では、ライトノベルには三層のピラミッド型の構造があるという。伏見つかさ俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を例にして、ライトノベルにおける三層構造について下記のようにまとめられている。矢印で指し示されているのが、その作品ごとの特性だ。
ライトノベルの三層構造
 ラノベ要素 → クーンツ・メソッドの応用(楽しさ)
 オタク・コンテンツ → オタネタを利用したコメディ(ネタになる)
 エンタメ一般 → キャラ属性のギャップを活用(刺さる)

 この三層構造ごとに「オタクの四大ニーズ」と独自に定義されるところの「楽しい」「(友だち同士で)ネタになる」「(胸に)刺さる」「差別化要因」といったニーズを、ベストセラーとなるライトノベルは満たしているという。

 まずラノベ要素のところから説明しよう。ディーン・R・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』にあるクーンツ・メソッドにおける小説冒頭テクニックには「できるだけ早く読者の心をつかむ」「主人公を早く紹介する」「この作品がどんなタイプの小説か知ってもらう」などといったものがある。優れたライトノベルでは、それらのテクニックがあたかもオタク向けに変容して活用されているかのように本書では論じられる。たとえば「主人公が過酷な困難に遭う」「主人公がラブコメ的においしい目に遭う」「オタクネタをぶちこむ」などといったテクニックだ。

 このようなラノベ的冒頭テクニックは、当然ライトノベルに特化した分析ではあるが、同じような発想で本格ミステリについても考えることができそうだ。これだけでなく『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』のさまざまな分析や提言のいくつかは、本格ミステリにも適応させることは難しくないのではと考えている。もちろん『ベストセラー・ミステリのしくみ』などという内容は途方もない苦行に思える。一方で、そうした危険な試みが持つ誘惑にあらがうこともなかなか難しい。本書を読み進めていると、「ミステリのしくみ」として見えてくるところが少なくないからだ。その試みの一端がこの書評である。

 本格ミステリの場合、読者に対してジャンルとしての類型的なイメージの中から、その本がどのようなイメージを目指した作品なのかを印象づける必要がある。地味だが端正な犯人消去法型の本格ミステリなのか、連続殺人を引き起こした奇怪な動機に魅力のある本格ミステリなのか、学内の事件をつづりながら青春の一ページを活写した比較的ライトな本格ミステリなのか…… いまや一言で「本格ミステリ」といってもさまざまなイメージが読者のなかで浮かび上がってくることだろう。実際、今回の「第12回本格ミステリ大賞」の選評もそのようなさまざまな本格ミステリのイメージがぶつかり合う討議の場のように思えてならなかった(くわしくはミステリ誌「ジャーロ」を参照されたい)。

 いずれにしろ、そうしたイメージに見合った冒頭が基本的には求められるはずだ(といっても、類型的すぎて採用しない場合もあれば、読者を騙すための技法として類型的なイメージが利用されることもあるから、一筋縄ではいかないことも事実である)。単純にラノベ的冒頭テクニックを本格ミステリに当てはめれば、「冒頭で殺人事件が発生する」「主人公が本格ミステリ的においしい目に遭う」「ミステリネタをぶちこむ」などといったところであろう(もとはクーンツだが、さしあたっては目をつぶっていただきたい)。

 次に「オタク・コンテンツ」について。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、『らき☆すた』以降のオタネタコメディの流れを汲み、オタクが好きな「ネタ」をうまく作中に取り込んでいるという。具体的にはアニメやライトノベルだけでなく、同人誌やカードゲームなど広汎なオタクネタを作中で扱っていて、多くの青少年読者に対し間口が広い作品となったというのだ。

 この発想を本格ミステリに当てはめてみれば、そのネタとは密室殺人や「読者への挑戦状」といった本格ミステリの趣向をたいていの読者は連想することだろう。ただ本格ミステリの場合、それら趣向をそのまま題材にするのではなく、それら趣向のアレンジ方法こそが問題になる。ただ単に密室殺人が作中で行われていればいいというものでもない。そのアレンジが過去の作品よりも優れていることが求められる。見事、過去の作品にはないアレンジであるならば、本格ミステリファンの話題(ネタ)として取り上げられることとなるのだ。

 ただ、その一方で本格ミステリを含めさまざまなミステリが書き継がれてきたために、一口に本格ミステリとして語られるべきネタかどうか、簡単に判別することが難しい場合もある。その困難さは近年、さらに高まっているように思う。たとえば連続殺人事件という題材ひとつにしても、その題材を本格ミステリとしてもハードボイルドとしても、サスペンスものとしても取り上げることが可能だからだ。本格ミステリとしては及第点以下だが、サスペンスとしてはすぐれている場合が当然起こりうる。その場合、ミステリとしてはどのように判断すべきかを論じるにはなかなか難しいのである。

 もちろん総合的なミステリの変遷史を知ることは正しいのであるが、そうした正しさは、しばしば変遷史を踏まえないとその趣向を話題にできないという圧力を招き寄せてしまう。結果、話題になるべく盛り込んだはずの趣向が話題を疎外するという逆転を生んでしまうのだ。

 『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』ではSFやミステリ、ファンタジーなどといった作品傾向の分類ではなく、「ラブコメ」か「バトルもの」の二種類で議論を展開する。こうした割り切りは、ジャンルの変遷史で語りうるメリットよりも、ライトノベルの実状を説明することを選んだためであろう。同じことが本格ミステリにも求められているように思える。本格ミステリを語るに長大な知識が必要だという正論は、ミステリマニアの基準を知らない多くの一般的な読者にはなじみにくいものであることは間違いない。上記のような多様なミステリの分析よりも、端的にベストセラーとなった東川篤哉謎解きはディナーのあとで』が、結果的にとはいえ本格ミステリとしてわかりやすいイメージ戦略を展開したことを考えてみるべきであろう。そこに一般読者の本音(インサイト)を見るべきなのかもしれないのだ。

 最後に「エンタメ一般」として『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』では、キャラクターの属性が議論対象になっている。登場人物のひとり、妹キャラの高坂桐乃が見た目のイメージと、実際の性格にはギャップがあり、そのため「残念なキャラ」として作中で兄に対して振る舞う。この「残念」なキャラ属性を利用し、桐乃と兄との確執が至る意外な展開を読者の前に突き出すことで、読者の胸を打つ感動(刺さる)を提供するのだという。

 この三つの階層での説明は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のしくみを論じるものであると同時に、シリアスな物語をいかにライトノベルの読者である青少年に楽しく読ませるかのテクニックを論じるパートとしても読める。実のところ、ライトノベル作品はライトノベルを読まぬ人たちが思っているほど不真面目でコミカルなものばかりではなく、シリアスな結末に至る作品が少なくないのだ。

 また、このキャラクター造形に対する考察は、ミステリにおける犯人造型にも敷衍可能なはずだ。これはひととき「エロ・グロ・ナンセンス」と非難されてきたミステリが、事件の背景を利用して当時の社会問題や時代の息づかいを描き、一般的なエンターテインメント小説の一翼を担うようになった過程と重ね合わせることができよう。もちろん、ゼロ年代になって脚光を浴びたライトノベルは、社会問題や時代の息づかいを真正面から描いていたわけではない。「セカイ系」の議論が一部であったとはいえ、あくまでも青少年を楽しませるためのエンターテインメントだ。ただ漫画的で「萌え」ているだけがライトノベルではなく、彼らなりの目線にそった悲しみや怒り、苦しみもそこには反映されているのだ。

 『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』の後半では、読者である若者たちはわかりにくい対立軸のない現実の政治よりも、わかりやすい対立軸のある物語を求めているとされ、そのニーズにライトノベルのバトルものが応えていると述べられている。具体的なライトノベル作品の分析を主軸にした本書では珍しく社会の反映を見る記述だ。

 そこに「キャラクター小説」のキャラクター性の秘密も見えてくるかもしれない。ライトノベルの主人公は、常人にはないちからを持っているが精神性がそれに伴わない「パワー・ファースト、マインド・セカンド型」であるべきだという意見が本書にはある。同時に、こつこつ努力しちからを身につけるようなタイプの主人公は「昭和的な価値観」と切り捨てられる。これは奇人だけれども天才的な能力を持つ名探偵や、犯罪に手を染めるたぐいまれな知能犯にも当てはめられそうだ。確かにミステリの読者にしても、そういう趣向の本格ミステリを望む声は少なくないだろう。

 本書ではこのようにライトノベルを形式的に分析し、一定の結論を導き出している。その即物的な分析はこれまでのいわゆる文芸評論とは違ったもので、上記では具体的にその分析をなぞってみたが、その分析の手つきは他のジャンルでも十分活用できそうなことは理解いただけたと思う。その文芸評論と違い、ミステリ評論の場合は多分に技術論的な傾向の強い分野ではある。ただ既に書いたとおり、多様化するミステリと本格ミステリに対してミステリ評論は追いつくのが難しい。近年で似たような分析を行っていると思えるのは佳多山大地『謎解きミステリ講座』であるが、それでも本格ミステリが中心的に扱われていると考えるのが妥当であろう。

 そこで筆者としては、つい「ベストセラー・ミステリのしくみ」を夢想してしまうのである。その一端をこのようにかたちにしてきたわけであるが、その可能性はこの書評で述べた程度にとどまらない。「ストーリーとキャラクターの関係」や「能力の数値化と階層化」、「説教の必要性」など、多くのライトノベルへの有益な分析は、それだけでなく他のジャンルにも十分有益のはずだ(とくに能力の階層化というのは、推理における手がかりの積み重ねを連想させる)。ただ、惜しむらくはその分析がベストセラーとなったライトノベルに限られており、一部のライトノベル読者に受けるような例外的な作品についての考察にはあまり役に立たない。たとえば、筆者が個人的に関心を寄せる「ライトノベルミステリ」なる分野には参考にはなるものの、物足りなさを覚えたのは正直なところだ。

 だが、そうした物足りなさを単なる欠点と見るのは誤りであろう。本書はライトノベルという題材を扱うものの、その内実はベストセラーを生み出す創作現場のしくみについて深く考察していることに意義がある。だから、多くの創作者とその創作環境に関心を寄せる読者に、本書は有益な本とはなりえる一方で、ベストセラーの小説には還元されない創作スタイルの独自性を求める向きには、地味な説明の羅列に思えることも仕方がない。あくまでも本書はベタに創作技術について考えた本だからだ。その意味では読者のほうにも、創作への確たる意識が求められる。つまるところ、読者なりに本書で語られなかった分野について考えることは、それぞれが思う「小説のしくみ」について考えることに等しいし、それは自らの思考力が求められるからだ。ただ、その思索の歩みの案内役として、いまのところ本書ほど相応しいものはないと考えているのである。

蔓葉信博(つるばのぶひろ)
1975年生まれ。ミステリ評論家。2003年商業誌デビュー。『ジャーロ』『ユリイカ』などに評論を寄稿。『ミステリマガジン』のライトノベル評担当(隔月)。書評サイト「BookJapan」にてビジネス書のレビュー連載。
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