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宮内悠介『盤上の夜』【評者:蔓葉信博】

 先だって、月村了衛『機龍警察 自爆条項』とともに日本SF大賞を受賞した『盤上の夜』。だが、本書はミステリとして読んでも十分面白い作品なのだ。

 しばしばミステリではない作品を「ミステリとして読む」ということは、評者のひいき倒しになってしまう。そういう作品の多くはミステリとして読まなくても十分面白いのに、わざわざミステリとして読むという作為が、むしろ余計なものに感じられるからだ。

 だが、あらためて言いたい。『盤上の夜』はミステリとして読んでも十分面白い。

 本書は六つの作品を収めた短篇集。「盤上の夜」は四肢を失った少女が天才棋士となった姿をつづり、「人間の王」はチェッカーというマイナーゲームにおける人間とプログラムの対決を描く。「清められた卓」は幻の麻雀戦の回顧録であり、「象を飛ばした王子」は古代インド発祥のゲームに関する小説、「千年の虚空」は将棋と政治を駒に展開する兄弟の争い、そして「原爆の局」では再び四肢を失った少女がとある地に赴いたエピソードが語られる。

 以上のように、ミステリとして特筆すべき事件が描かれているわけではない。だが、どの短篇もそのテーマとして据えられた「知性」の核にあるのは「先を読む」ということにほかならない。「盤上の夜」では、失った四肢のかわりに囲碁盤の上の感覚を獲得した少女が、圧倒的な先読みのちからで勝ち続けていく。

 ミステリの一ジャンルである「本格ミステリ」の場合、不可解な密室殺人などといった知的犯罪の巧妙さと、その犯罪を見破った名探偵の推理に面白さのエッセンスがつまっている。これも知性によって「先を読む」ということの面白さを描いたものにほかならない。

 その一方で、いかにそのプロセスが明解であろうと、仕掛けに気がついたのは優れた観察眼や分析力など、最終的にはその能力によってもたらされたものだ。だから、しばしば読者は次のような疑問をいだくはずだ。どうしてこの名探偵はかくも優れた推理能力を持っているのだろうか、と。

 この問いに対し、『盤上の夜』ではさまざまなかたちで答えを描き出そうとしている。異国の地で四肢を失ったため、愛欲にまみれた憎悪のため、精神の病のためなど。だが、それらと同じ条件であれば誰もが優れた能力を手にできるわけではない。不幸な境涯がさらなる不運を招きよせることもあるはずだ。いずれにしろ、それらは状況により変化する。ここは、それら能力は納得させるため、与えられた条件下で考え得るだろう奇抜な解答のひとつとして作者により選ばれたものだ。

 私たちは誰もが考えることができる。にもかかわわらず、往々にして他者と自分とでは、考えるプロセスが異なってしまう。どうして、彼はあのような素晴らしいアイデアに気がついたのだろう。どうして、彼はあのような簡単な手がかりに気がつかないのだろう。これらの疑念の答えは、前提や状況でいくらでも変化する。前提なき問いに答えはない。だから、その場の状況で、答えを見いだしていく。それはあたかもひとつのゲームだ。にもかかわらず、なかには名探偵の如き、すさまじい先読みの能力を持つ人々がいる。彼らの思考回路はどのような仕組みになっているのか。見方を変えれば、名探偵や天才と呼ばれる人々もひとつの謎といえるはずだ。

 本格ミステリもまた犯人と探偵の、作者と読者の推理ゲームといわれる。確かに本書はそのようなたぐいのゲームではない。だが、本格ミステリがはらむ「推理するということはどういうことなのか」ということに対し、本書ほど迫った小説も珍しい。その思考は、本書を読み進めるうちに「知性はどのようなものなのか」という問いへと変わるはずだ。

 ミステリは知的なエンターテインメントである。その知性をいかに表現するか。ハードボイルドもサスペンスも本格ミステリもスパイアクションも、結局のところは知性という人間に備わった資質をいかに描くかというところに至ると思える(むしろ多様化するミステリを包括しうる言葉となるとそれぐらいしかない)。暴力の発露をテーマにしていても、その暴力は知性の限界として描かれることで鈍く光るのではあるまいか。

 その意味で、本書は人間の考え続ける知性の素晴らしさを、目を覆いたくなるような醜さを伴いつつもスリリングに描ききった知的エンターテインメントだと断言できるのである。

盤上の夜 (創元日本SF叢書)

盤上の夜 (創元日本SF叢書)