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『果しなき流れの果に』『幼年期の終り』『機械じかけの夢』クロスレビュー

小松左京『果しなき流れの果に』、アーサー・C・クラーク幼年期の終り』、笠井潔『機械じかけの夢』

評者:ドージニア道人


 進化とは、何だろうか。
 手元にあった辞書の「進化」の項目を見ると、一つ目に、物が変化して種を更新する形で新しい物を生むという説明があり、二つ目に、未開社会から文明社会へ社会が進化すること、のように書いてある。

 生物学的な見地からでは、生物の進化というのは、必ずしも優れた方向に成長する事を表さない。それどころか、優れた方向というもの自体が絶対的な形では存在しない。生物は遺伝的性質を世代を通して変化させ、単に様々な環境に適応できる個体を多く生みだそうとしているだけである。
 それに対して、社会の進化は下等→高等とされている。社会が理想的な状態に進んでゆくという考えは、ハーバート・スペンサー社会進化論に端を発するのだが、そのパラダイムを利用したマルクスエンゲルス唯物史観の想定していた最終状態であった共産主義の抱える問題が明らかになった現在、社会の進化も良い方向に向かうとは限らないのは明らかである。
 SFではしばしば、生物の進化と社会の進化とが重ね合わさる。生物が進化すると社会が変わるのは当たり前だが、生物の進化は良いものとは限らない事を忘れてはいけない。
 ダーウィンフィンチという鳥をご存じだろうか?
 ガラパゴス島にいるこの鳥は、くちばしの長さ・太さ・形が様々な個体がいて、それぞれがそれに応じた固有の実を食べて生活していた。そしてあるとき干ばつが起きた。干ばつが起きる前と後では、彼らのくちばしの長さは数ミリも違っていた。干ばつで残った実を食べる個体だけが子を作れたために、淘汰が起き、生まれる子供のくちばしの長さが変わっていったのだ。
 つまり、まず多様性が作られて、その中で生き残ったものが後の世代まで生きてゆくのが進化なのである。

 これらの点をふまえて、小松左京『果しなき流れの果に』と、アーサー・C・クラーク幼年期の終り』を読んでみよう。


 まず、小松左京『果しなき流れの果に』について。

 小松の考える進化は、階層的なものだ。それは例えば作中の設定、第三階梯から第四階梯に進めれば、テレポートや透視ができるようになるというところからも容易にうかがえる。
 これはゲーム『ポケットモンスター』で描かれる進化に近い。ポケモンの進化は世代を交代していないという点で科学的には「変態」であるように、小松の進化も進化というより変態だ。レベルが一、二、三と上がるにつれて新しい技を覚えたり変態したりする。あるいはアニメ『デジモンアドベンチャー』における進化と言ってもいい。こちらにはジョグレス進化という二体のモンスターの合体進化も登場し、『果しなき流れの果に』での登場人物の合体と近いものがある。
 だが、変態して強くなるというのは安易な考えではないか。『ポケットモンスター』ではモンスター同士の相性があり、例えば火属性のモンスターは水属性のモンスターに弱い。このように現代の想像力では、単純にレベルが高い=凄いとはならないのが一般的になっている。

 つまり、人類と超人類とをはっきり区分けしてしまうのは、もはや今の時代からは古びている。これには小松の共産主義的なものの見方が影響しているのかもしれない。小松は共産党に一時的に入っていただけだが、『果しなき流れの果に』には、進化と革命を同レベルで扱う見方がうかがえる。ただ、これは必ずしもこの作品が、進化=革命と考えていると言っているわけではない。むしろこの作品では、革命は進化に対し反抗するような形で書かれているので、進化=革命という見方には小松は反対しているように読める。
 だが、ここで言いたいのは、進化が不連続に起こるという見方の問題だ。これは結局、小松が進化を革命的なもの(つまり外部から力をかける事で次の階層に進む)として捉えているという事だろう。進化では、放射線などの外的要因がある場合を除けば、はじめに突然変異する個体は一体だけであり、そこから交配を重ねた上で淘汰のための時間がかかるのに、小松はその世代交代にかかる時間の長さを無視しているのだ。そしてまた、小松の描く進化はよりレベルの高いものがレベルの低いものに促すもので、自然発生する進化というより、ただの遺伝子組み換えのようだ。

 僕はそのような進化にはあまりリアリティを感じず、従って危機感も感じられない。むしろ本当に怖いのは、変態するような変化より、知らない間に連続的に人間が変わっているような変化なのではないか。
 例えば伊藤計劃は医学がいつのまにか社会を内部から変えていく怖さを描いた。外部から押し付けられるのではない自発的進化によって、人間は気付かぬうちに大きく変化して、元の人間に戻れなくなってしまう。そんな、人間が人間として従来の人間からゆっくりと遠ざかってゆくという恐怖。これはオウム真理教地下鉄サリン事件で、洗脳という考えが広く認知された事の影響も大きいかもしれない。信者は自分の心のよりどころを求めて喜んで洗脳されるうちに、自分を失ってゆくのだ。
 このような問題設定は伊藤計劃だけでなく、グレッグ・イーガンなど、現代の人気作家にはよく見られる。小松左京の描く、なすすべなく人間をやめさせられる進化とは違い、伊藤やイーガンの設定は、身近な問題として切実に現代の読者に訴える力を持っている。
 小松左京小松左京賞伊藤計劃を選ばなかったが、それは唯物史観的な思考がこの恐怖への理解を妨げたからなのかもしれない。



 さて、次にアーサー・C・クラーク幼年期の終り』に話を移そう。

 本作は『果しなき流れの果に』と同様に「進化」をテーマにした作品だ。というより、小松は本作を読んで『果しなき流れの果に』を書いたというだけあって、両者はかなり似た作品になっている。『幼年期の終り』では、異形のイメージが進化の先にある事が描かれているのだが、そのように進化=良いという見方へのカウンターを描く点などは、小松が影響を受けた部分だろう。
 また、唯物史観的な考えを利用しているように見える点も、小松と共通している。マルクスエンゲルスによる唯物史観キリスト教のメシア降臨による天国完成を共産主義に置き換えて作られたものであるように、本作ではメシアがオーヴァーロードに置き換えられている。だがしかし、オーヴァーロードが進化の袋小路に入っているように描かれている事から考えて、クラークは共産主義社会に対する袋小路的なイメージを描きたかったのかもしれない。
 だがもちろん、『幼年期の終り』と『果しなき流れの果に』には違いもある。クラークは本作で登場する進化に「変態(メタモルフォーゼ)」という言葉を用い、その変化も世代が変わって進化してゆく形にしている。このような点は小松と違い、進化をあくまで現実的に描こうという注意が感じられる。

 それでも本作も、現代的な科学の観点からするとどうしても古びて見えてしまう。人類という種族全体が進化する展開には、少し違和感を覚えるのだ。もちろん、オーヴァーマインドが放射線のようなものだと考えたりすれば、納得はできる。地球人全員のDNAを変化させ、次の世代を変化させるようなイメージだ。しかし冒頭に書いたとおり、自発的な進化というのはまず多様性ありきなのだ。
 そう考えると、変わる人類もいて変わらない人類もいる方が多様性を作るという点にはかなっているように思われるのだが、オーヴァーロードはオーヴァーマインドと交信しない人類を見殺しにするし、オーヴァーマインドは一元的な思考に集約されるような知性で他種族を自分に取り込むし、彼らは進化の過程で生き残ってきた種族とは思えない振る舞いをしている。
 つまり本作は進化を否定的にも捉えていて良く考えられているのだが、進化の描かれ方自体は現代にも通用するような科学的な形ではない。(ただ、一概に進化がどうなるとは言えない事を考えると、いびつな進化の果てにオーヴァーマインドが生まれて残ってゆく可能性は十分にあるとも言える。身近なもので例えると、世界をアメリカナイズしていくアメリカなんて、オーヴァーマインドみたいなものかもしれない)



 以上、『果しなき流れの果に』と、『幼年期の終り』について書いてきたが、この読み方は笠井潔『機械じかけの夢』に載っている小松左京論とアーサー・C・クラーク論への僕なりの返答である。
 『機械じかけの夢』の中でこの二章は、相互に関連して扱われている事と、小松左京が日本SF作家で唯一扱われている事により、少し特別な位置にあるように見える。そこには笠井の「革命」への熱い想いがあるのだろう。だが、僕のような現代の若者にとっては、革命はもはや何のリアリティも持っていない。その点において残念ながら僕は笠井に全く共感できなかった。(一つ注意しておきたいのだが、僕は革命を否定しているわけではない。むしろ社会が革命のないまま、革命があったのと同じくらいの変化を遂げてしまう事を、僕は恐ろしく思っている)

 だが、『機械じかけの夢』は新版でウィリアム・ギブスンを論じる章を付け加えた事で、大きく変化した。本作は進化と社会というものを縦糸に作家の各論が書かれてゆく形式の本なのだが、ギブスンを論じた事で、扱っていた進化のイメージが旧版と大きく変わっているのだ。旧版ではあくまでSFにおける社会の進化が、不連続なもの、革命的なものとしてしか感じられなかった。
 しかし、ギブスンの描く未来社会は現在の社会と決定的に異なってはいるが、地続きだ。社会はある特異点を迎えた時、限りなく不連続に近いが実際は連続な形で変わってゆく。『ニューロマンサー』のチバ・シティは、それを象徴するかのように汚れている。街が汚れてゆくというのは、綺麗な街が時間をかけて変わってゆく必要があるという事だ。その進化には時間がかかり、淘汰が存在する。SFにおける進化はギブスンにおいて、ついに革命を必要としない段階に達した。そこでAIはオーヴァーロードで、サイバースペースはオーヴァーマインドだ。おそらく我々が変化に気付いた時には、既に社会はサイバーパンクを迎えているのだ。

 このように、旧版から約八年で自己を進化させた『機械じかけの夢』(あるいはSFというジャンル自体)であるが、その新版が書かれたのはもう二十年以上前の事だ。それから現在にかけて、当たり前の事だが、SFの読まれ方は大きく変化した。だが、『機械じかけの夢』に続くような読解をした評論はいまだ登場していない。
 『幼年期の終り』を読んでいると、伊藤計劃『ハーモニー』、飛浩隆『グラン・ヴァカンス 廃園の天使?』、牧野修『傀儡后』といったSF小説や、『新世紀エヴァンゲリオン』、『蒼穹のファフナー』、『魔法少女まどか☆マギカ』といったSFアニメなどへのリンクを感じるのだが、それらは進化という観点で同じ線の上に置いて論じられるべき作品だろう。
 新たな「進化」を描いたSFが続々と出てきた現在、SF評論もそろそろ、進化しなくてはならない時なのではないだろうか。



補遺

 この原稿では、現在一般的に信じられていると思われる進化論を元に議論を展開した。
 進化論には色々な意見がある。例えば現在の進化論と対立するようなアイデアとして、瞬間的進化を可能だとする「ウィルス進化説」という考えもあるが、これの信憑性は極めて低い。
 ただし、フランク・ライアン『破壊する創造者 ウイルスがヒトを進化させた』という本では、この「ウィルス進化説」とは別物で信憑性の高い、ウィルスによる進化の新しいアイデアが書いてある。この本の内容を全面的に認めてしまうと、このレビュー自体をかなり訂正しなくてはならない。しかしこのレビューで主眼を置いたのは、現代人の想像力から見て、どう作品が古びているかという事である。よって、『破壊する創造者 ウイルスがヒトを進化させた』の、現代より一歩先に進んでいるような、まだ一般に普及していないアイデアを用いる事はしなかった。
 このアイデアを用いるとどう作品の読み方が変わるのかという点については、また機会があれば別に論じる事にしたい。

果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

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幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

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機械じかけの夢―私的SF作家論 (ちくま学芸文庫)

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