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【日本SFサイシン部01】これもまたポストヒューマン――菅浩江『誰に見しょとて』【評者:海老原豊】

日本SFサイシン部とは? 最新の日本SF(出版されて、せいぜい半年以内)の最深部に迫る書評コーナー。隔週で月2回更新を目指す!

記念すべき初回は菅浩江『誰に見しょとて』。

誰に見しょとて (Jコレクション)

誰に見しょとて (Jコレクション)


菅浩江『誰に見しょとて』は新しい。それは、ポストヒューマンへ至るための新しい回路を示唆しているから。


SFが読みたい!2014年版』で国内編ベスト7に見事ランクインした本書は「美容SF」。東京湾に浮かぶ人工メガフロート通称〈プリン〉。そこにテナントを構える美容関連企業〈コスメディック・ビッキー〉と、それが提供するさまざまな美容プログラム、美容商品、美容イベントを体験した人間たちが織り成す物語が、連絡短篇としてまとめられている。


驚異の〈素肌改善プログラム〉が登場する「流浪の民」。


肌を薄く皮膜し、紫外線を強力にカット。かつEMS(電気びりびり流して筋トレ効果)も。健康的な肉体を自然に身につけられる〈シャクドウ・ギア〉のモニター男子二人が主人公の「閃光ビーチ」。


介護施設に住まう往年のアイドルは美容整形を毛嫌いしていたが、怪我をきっかけに受けることを決意した〈はさみ撃ち〉という美容整形&化粧。「トーラスの中の異物」。


などなど。一作品、一アイテム。ただし、全体を通じて美容+医療=コスメディックをとなえる〈ビッキー〉という民間企業と、その経営者の娘にして代表モデル山田リルが、各物語をつないでいる。


リルは、単なるカリスマモデルではない。リルは、美容、皮膚という人間の境界の変容を通じ新しい人間=ポストヒューマンへとたどり着こうとする。事実、後半の物語では、事故(?)全身の皮膚がただれたリルが、新しい人間へと生まれ変わる過程が描写される。菅のポストヒューマン像は、伊藤計劃以後の系譜にありつつも、そこから逸脱し、新しい可能性をもっているものだ。


限界研の評論集『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』(南雲堂)では、最近、特に伊藤計劃以後の日本SFに見られる「ポストヒューマン」像を掘り下げた。

ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF

ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF

関連イベントで「伊藤計劃のSFの特徴」として「1 いろんなネタのリミックス 2 社会問題 3 脳・神経科学」を抽出した(参考ページ「ぼくたちのかんがえた伊藤計劃以後」2013年9月1日@青山ブックセンター)。特に、脳・神経科学的なアプローチから人間以後の人間=ポストヒューマンを模索するのは、日本に限らず(例えばグレッグ・イーガンの作品に見られるように)SFの王道でもある。


脳をいじることで、人間以上(以下? 以外?)のナニモノかになってしまう。具体的には、グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」や、伊藤計劃虐殺器官』の「痛覚マスキング」を連想すればよい。伊藤計劃以後のSFには、脳・神経科学的な回路からのポストヒューマンを描くものは、いくつかある。


菅浩江『誰に見しょとて』が恐ろしいのは、この回路を通らずに、ポストヒューマン像に肉薄するところだ。考えてみれば「脳をいじる」というのは、人間が好んで用いてきた図式、心と体の二分法(心/身)を反復しているに過ぎない。人間を閉じ込めているこの枠組みを反復していて、はたして人間を超えられるのだろうか? 素朴だがもっともな問いかけだ。


菅浩江が、心/身図式ではなく、人間の物理的境界=皮膚に注目したのは、彼女が化粧・美容に日常的に興味を持っていたからかもしれない。ここにジェンダーを読み込むことは、安易過ぎるかもしれないが、『ポストヒューマニティーズ』で中心的に論じた作家(帯に名前の載っている六人)はいずれも男性作家であることを考えると、『ポストヒューマニティーズ』の分析から抜け落ちていたものが、『誰に見しょとて』にあるといっても、言い過ぎではないだろう。


菅浩江『誰に見しょとて』、これもまた伊藤計劃以後のポストヒューマンSFなのだ。(海老原豊