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濱野さん、それはよくある話です!

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)




『アークテクチャの生態系』でニコニコ動画の特徴を疑似同期性だと喝破した新進気鋭のメディア・情報社会者である濱野智史が、完全にはまってしまったAKB48を分析した本書。濱野自身が認めているように、本書は客観的な分析からすべりおち、やがては熱烈な信仰告白の書へと形をかえていく。



濱野はAKBがキリスト教のような世界的な〈宗教〉になりうるものだとして、いくつかの要素を指摘している。まずは匿名の批判と顕名の応援という対立構造からみえてくる「近接性」だ。匿名の批判とはネットを中心に増殖する、アンチの存在。AKBというアイドルグループそのものへのアンチもいるが、ここで問題になっているのはAKBファン内部にいるアンチで、自分の推しメンではないメンバーを積極的に否定する。ネットリテラシーの教えでは、匿名の批判はスルーでよいはずだが、彼女たちはそれを積極的に受け止める。それを可能にするのが握手会などのリアルの現場で生身のファンからかけられる声援なのだ。この匿名と顕名のせめぎ合いに前田敦子の「わたしのことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!」というセリフがあり、そこに超越性が宿るのだと濱野はいう。


もうひとつの要素が、偶発性だ。本書には「ぱるる」が濱野の推しメンとなった衝撃的な(?)劇場でのライブの様子が詳細に描写されている。簡単にいえば、いくつかの偶然が連続しながらも(いや、それゆえに)濱野はぱるるとの出会い(劇場で目が合う、など)を運命だと再解釈する。古来、宗教は人間が直面する偶発的な出来事(天災や不条理な事故)に、理由をあたえてきた。偶然性ゆえに人間の理性ではとらえられない事象は、人間にとってのストレスとなる。それを緩和するためのある種の合理化装置として宗教は存在していた(いる)。AKBもまた然り、というのだ。


以上、濱野がAKBの宗教性の源泉として(いくつか指摘した中の)大きなふたつ「近接性」と「偶発性」を紹介してみた。本書を通じて、濱野のAKBの思いはひしひしと伝わってくるのだが、しかし残念なことに、「どうしてAKBがヒットしているのか」という問いにはうまく答えられていない。ヒットするための十分条件ではあるかもしれないが、必要条件ではない、とでもいえばよいか。


AKB商法ともときに揶揄される握手券や投票券つきのCDやアンチの存在がガチな没入を誘発する、というのはホスト/キャバクラにハマる男女の精神構造と似ている。自分が賭しているものが大きければ大きいほど、賭している対象がなんであれ、ただただ賭しているという自らの行為のなかに実存を感じる。「ここまで賭けたのだから」となれば「だから、やめよう」ではなく「さらに、やる」。そうしないと、それまでの自分を肯定するロジックをもてないから。これは、カルト宗教から奪還された(元)信者が、マインド・コントロールの解除があまかったゆえに再び教団へもどったとき、さらにもう一度、世俗世界へと奪還するのは極めて困難になるという話にちかい。再入団を決意したその信者は家族なりなんなり現世の関係をすべて「犠牲」にして信仰にすすむわけで、その犠牲と交換した信仰心を奪うことはなかなか困難だ。CDを買えば買うほど、アンチがいればいるほど、その分だけガチで応援するというのは、なにもAKBに限ったことではない。(カルト)宗教ではなかったとしても、ホスト/キャバクラ/風俗/DV恋人などなどなど、似たような心理構造をフックにしているものはいくつもある。信仰しているからコスト(お金やCD)を払うのではなく、かかったコストの中に信仰が具現化する。この構造は、没入しているもの/していないものの間で共有されることはない。そもそも没入していないものは、コストをはらっていないのだから。


人間心理をフックにした昔ながらの宗教やビジネスとAKBの違いはなにか。本書でも触れられているソーシャル・メディアによる可視化・数値化・ゲーム化(ゲーミフィケーション)がAKBの特徴だ、とひとまずはいえそうだ。濱野が強調する「近接性(握手)」や「偶然性(劇場)」といった要素は、実は瑣末なものであるように思える。AKBファンの個人が、何枚CDを買い、誰にどれほど投票するのかといったデータをもとに、ソーシャル・メディアとマーケットの関係を深く掘っていけば、ひょっとしたらAKBの独自性が見えてくるかもしれない。


濱野はAKB商品に、労働からの疎外・搾取というマルクスが批判した近代資本主義の問題を克服する可能性を見ている。ただ、考えるべきは、マルクスが当初考えている疎外・搾取はあくまで工場労働者(第二次産業)的なものである点。AKB含む第三次産業には、また理論のアップデートが必要。そう「感情労働」といったような視座が不可欠だ。この論点も、本書からは欠けている。


総じて、信仰告白の書であることはわかるし、読んでいて熱気が伝わってくる(「感染する」)のは確かだが、信者と非信者のあいだをブリッジするには、まだ何か、それも決定的な何かが足りない。