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座談会 東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後1)

座談会 
東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後・1)

参加者:笠井潔×杉田俊介×冨塚亮平×藤井義允×藤田直哉

限界研編『東日本大震災後文学論』の刊行を記念して行われた座談会の後半です。今回は2部構成でお送りします。12月に刊行された笠井潔『テロルとゴジラ』、藤田直哉シン・ゴジラ論』(ともに作品社)の話も交えて、震災とフィクションについて、また世代間の感覚の違いに照射して議論をしています。

東日本大震災後文学論

東日本大震災後文学論

* 笠井潔『テロルとゴジラ』vs藤田直哉シン・ゴジラ論』

杉田 さて、ここから後半になります。
笠井さんの『テロルとゴジラ』と藤田直哉さんの『シン・ゴジラ論』が二〇一六年一二月に、作品社からほぼ同時に刊行されました。二〇一六年はサブカルチャーの領域において、画期的な年になったと思います。『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』という非常に大きな作品が次々と世に出た。『シン・ゴジラ』のキャッチコピー「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」に象徴されるように、それらの作品は、震災後の政治や社会の問題とエンターテイメント性を高次元で融合させ、また現実とフィクションが相互に反転し合う(SNS等のネットの力によって政治性や社会問題が話題や議論になり、作品の商品や芸術としての価値をさらに高めていく)ような構造をあらかじめ組み込んでいる。
さらに実際に、震災後の二〇一〇年代のこの国は、現実と虚構、政治と芸術などが奇妙な形でモザイク化していて、リオオンリンピック・パラリンピックのあとの安部マリオ、妄想的なヘイトスピーチ日本会議的な歴史修正主義神武天皇は存在した、等)などが象徴するように、すでに現実と虚構の関係がどこか妄想や神話のゾーンとも相互浸透を起こしはじめているかのようです(かつてヒトラーリーフェンシュタールチャップリンの間に「映画を用いたドイツ国民の神話化」をめぐる戦いがあったことを思い出します)。
僕はそういう状況の中で「ニュータイプの国策映画」「マジョリティの不安を慰撫し、歴史修正的な欲望を満たすためのポリティカルフィクション」等が増えてきつつあるのではないか、と敢えて言ってみたい気持ちもしています。そしてそれはもちろん、この国の戦後史そのものと――日米の従属構造のもと、正義と平和に関する根本的な欺瞞を抱えこみ、「虚構のなかでもう一つの虚構を作る」ような「ごっこの世界」(江藤淳)の中でサブカルチャーを繁茂させてきた――も関わっているはずです。では、そんな状況の中で、作品を批評するとは、どういうことなのか。
笠井さんと藤田さんの二冊のゴジラ論は、政治と芸術、現実とフィクションがモザイク化していく状況に対して非常に自覚的でありつつ、最近よくある「あくまでもフィクションは政治的イデオロギーとは無縁に、中立的に受け止められるべきだ」という形で現政権的なものに加担していくメタ政治的な芸術論とは別の形で、非常に刺激的な政治的+芸術的なサブカルチャー批評を実践しているものである、と僕には思われます。つまり、二〇一六年の『シン・ゴジラ』以降の時代に、そもそも批評はいかなるものでありうるか、どうあらねばならないか、を根本的に問わしめるようなポリティカル・フィクション批評になっている。
まず、笠井さんは、藤田さんの『シン・ゴジラ論』を読んでいかがでしたか。
笠井 藤田君の本の中では、ゴジラが戦死者の亡霊である説はいまやスタンダードであると書かれていたが、本当だろうか。スタンダードはいまでも核兵器の象徴という解釈でしょう。ゴジラが戦死者の亡霊だというのは川本三郎が言い始めて、その後赤坂憲雄加藤典洋や笠井など幾人かの論者がこだわっているだけで、とてもスタンダードな解釈とは思えない。それと、様々な象徴がゴジラの中には入っているということは認めるんだけど、どれを取って、どれを切り口にすると話が面白くなるかというだけの問題ではないか。そうすると藤田君の固有の切り口はどこにあるのか。色々書いているけど、どうもよく見えてこない。作品から政治的メッセージだけを抽出して論じるのは批評として面白くないだろう、という主張は基本的に支持します。
吉本隆明はデビュー時から、戦前の共産党プロレタリア文学(ナップの機関誌「戦旗」から戦旗派ともいわれる)の政治主義を批判してきた。戦前は共産党による政策的な干渉があまりにも強く、それに対して作品の解釈から政治性を排除しなければならないということが戦後文学の時代から強調されてきた。そこにテキストの中立性という論点が加わり、一九八〇年代になると、作品の政治的読解や主題主義は反文学的だというポストモダン文学論が、批評ではもちろん、アカデミックな文学研究の世界でも常識化される。しかしそれは日本の戦後、特に一九八〇年代以降の、政治は何も考えなくて、自民党政府が適当に社会を転がせばうまくいくんだし、それでいいでしょう、という雰囲気にぴったり合っただけのこと。ノンポリであることは現状維持勢力だったわけだよ。
しかし今のように日本の国家形態が急速に変貌している時に、たんにノンポリであることは、もう現状維持とはいえない。むしろ、安倍自民党に積極的に加担することになる。文学主義的政治排除はかつてとは意味が全く違っている。だから文学主義者がごちゃごちゃ言っても、僕はそんなものには構わずに、「政治主義」的なことを言い続けようと思っています。ただしそれは、作品を政治的メッセージに還元することを意味しない。意識的なメッセージも重要ですが、無意識的な政治性を作品から読みとることも重要だから。

藤田 僕の『シン・ゴジラ論は』は無数の解釈を大量に引用して、いろいろな解釈を誘発するゴジラというキャラクターの存在意義を浮かび上がらせよう、という戦略の本です。なので、僕独自の切り口は明示されていない、と読まれる可能性は高いかもしれない。しかし、この方法論が有効だと考えて、選びました。それぞれの人間が、自分の見たいようにしか物事を見ていないということを浮き彫りにすることが重要だと思ったからです。
僕の独自な解釈が唯一あるとしたら、享楽と倫理の相克を重視したところではないでしょうか。

笠井 『シン・ゴジラ』についてそこに重点を置いたのは、宮台真司だと思う。

藤田 プロレタリア文学の一部のように、教条主義的に共産党系の左翼が「真理」を指導するやり方には問題があったように思います。ただし一方で杉田さんが『シン・ゴジラ』について書いた時に多くの人が言ったように「虚構は虚構であり現実とは何の関係もない」「エンターテイメントは単なるエンターテイメントだ」っていう態度も、事実とはズレていると思うんですよ。必要な態度は、政治的解釈と芸術的解釈を両立させることだと思っています。それを「ポリティカル・フィクション批評」と仮に名づけてみようかと思いますが。

笠井 両方といっても、蔵原理論や社会主義リアリズムのような政治主義には今や何の力もないわけで。

藤田 そうかもしれないけど、可能な限り、作品に内在する多様な政治性のベクトルをたくさん引き出す。そういう場としての作品のあり方を示すことで、両方の立場に立つ、あるいはどちらの立場にも立たないゴジラ論を戦略的に目指したつもりなんです。

杉田 「現実と虚構」「政治と文学」という従来のアングルがすでに無意味になっていて、今はむしろ、「芸術を政治的に論じるべきではない」という言い方によって、現政権維持的なものやネトウヨ的なもの(ネトウヨと結託したオタク的なもの)が左派を叩くロジックになっているわけですね。政治的中立というメタ的な政治的言説を右派が多用するわけですね。僕が『シン・ゴジラ』をニュータイプの国策映画であり御用映画である、という批判をツイッターでしたら、ネトウヨとオタクの連合軍が僕を総攻撃してきた。その辺は藤田さんの本にも延々と数ページにわたって引用されています。
しかし、そういう「現実と虚構」「政治と文学」という対立のさらに先の次元の政治的芸術論、あるいは芸術的政治論を開こうとしているのが、藤田さんのゴジラ論ではないか。それは決定的に新しい、と僕は思ったんですよ。そして笠井さんの『テロルとゴジラ』もやっぱりそうですよね。笠井さんの政治的立場に共感するか否かは別として、一周回って、そういうアクチュアルな新しさを感じたんですね。そもそも、芸術と政治、美と暴力が綯い交ぜになっていくような高次元の快楽であり、享楽があるわけですね、対象としての『シン・ゴジラ』には。

藤田 『シン・ゴジラ』については、安倍首相がゴジラに言及して政治的なパフォーマンスに使っている。それでいえば、アメリカのトランプも、WWEというプロレスを利用していて、オーナーのマクマホンをレスラーがやっつけるというリアリティショーになっているんですが、マクマホンをトランプがやっつけていた(笑) 彼の、フィクションを操作する能力と、現実の政治的能力は、重なっているように僕は思う。
クールジャパンやソフトパワー戦略というのも、文化的コンテンツの魅力によって国際政治を武力ではなく別の力で勝ちぬこうという戦略なわけだから、同じ力が内政に使われることに疑問の余地はないわけ。この状況では、フィクションと現実の政治をかつてのように簡単には切り離すことはできない。さらに現代は、特に情動政治の時代ですから、美や崇高や愛着などの感情も駆動しながら政治は動いていく。そういう状況の中で芸術やフィクションが果たす機能を考えていくには、批評の役割もまた更新されざるをえない。

藤井 小口日出彦の『情報参謀』という本がありましたね。自民党民主党政権に負けた時にどういうメディアコントロールの戦略をとったかについて、実際にそれを行っていた人が内部事情を書いた。限界研が昨年に出した『ビジュアル・コミュニケーション』で提示したように、メッセージ以外のところでの機能というのがすごく大きくなってきた。そうなってくると言葉そのものの力は後退せざるを得ないと思います。ロジカルな説明よりも感覚的なビジュアルを重視するわけですから。

杉田 『テロルとゴジラ』第Ⅰ部の論考は、元々限界研の幾つかの論集に収録されていたものですが、〈68年〉と〈現在=2010年代〉を繋ぐために、現代的なサブカルチャーの中にサンディカ(労働や生存のための組合的なもの)の可能性を探し求めていく。その試行錯誤の記録に読めました。笠井さんはなかなかそれを十分に言い切れなかったんだけど、『シン・ゴジラ』によって何かが一気に決壊した、という印象がある。
それでいえば、僕にとっては特に、最初の『ゴジラ』の芹沢博士を「革命家」として解読しているのが斬新でした。芹澤博士は、オキシジェンデストロイヤーという新技術の破壊力を恐れながらも、その破壊力を享楽しようとしたのではないか。革命家としての芹沢博士は、東京人を守ってゴジラを自己犠牲的特攻によって殺害するのではなく、ゴジラと共闘して、革命的な本土決戦を遂行し、日本政府とアメリカ国家を打倒するべきだったのではないか、と。そこは藤田さんのゴジラ論が享楽を重視する点とも重なりつつ、お二人は政治や革命に対する態度は異なりますよね。

笠井 享楽に関していうと、コリン・ウィルソンが『賢者の石』というSFホラー小説を書いている。超越体験というか、麻薬でもバクチでもいいけど、脳内物質がドバドバ出てきて、異世界に迷い込むような体験がありますね。しかし問題はそういう超越体験そのものではない。それによって何が見えるか、それが大事なんだとウィルソンはいう。たとえば仏教の修行で、脳内麻薬を念じるだけで出せるようになるらしいけど、脳内麻薬を大量分泌させることによって見えてくる何かがある。だから僕の場合、享楽も怖くて楽しいということそれ自体が問題ではなくて、それによって何が見えるか、何を見すえられるか、そっちが大事なんだけど。

藤田 脳内麻薬的な話で言えば「享楽」と「萌え」の違いが、時代の感性の違いとして象徴的かなと。「享楽」には、どこか死に近づくっていう側面、「死」がその究極だっていうところがあると思うんですよ。でも、暴走族って減っているし、死に接近して享楽やエロティシズムを得ることを望む感性そのものが今の世代にはあまりないんじゃないか。ゴジラには、死にまで至るまでの享楽や、心中的なエロティシズムがある。バタイユなら「聖なるエロティシズム」と言うものがあると思う。
六八年の運動には、享楽を志向していた側面があると思います。ゴジラ的衝動、戦後民主主義をぶっ壊したいという衝動、何もかも破壊してしまいたいという「享楽」への衝動があった。笠井さんと押井守さんの対談集『創造元年1968』を読むと、それが形を変えて虚構化され、『ビューティフルドリーマー』や『パトレイバー2』になったのだと読みうるように書いてあった。
六八年と二〇一一年の運動には差がある。それは、この感性の差と同様の差。六八年世代は戦後民主主義をぶち壊そうとした。しかしSEALDs世代は決してそうではない。これまでの民主主義を壊そうとはしていないし、むしろ守ろうとしている。多くの若者が非正規雇用になって、これ以上社会がよくなるとも思えない。そういう二十一世紀の若者にしてみれば、戦中派と六八年世代の間の父子的な対立そのものに、関心の持ちようもないのかもしれませんし、「本土決戦」や『AKIRA』的な「全部壊してしまえ」よりも、『シン・ゴジラ』後半の「日本を守る」「立て直す」の方が共感を生みやすいという時代状況と呼応した感性の差はあるんでしょうね。

杉田 笠井さんの巨災隊に対する評価も両義的ですよね。巨災対はさらに進化して、岡本喜八の映画シリーズでいう「独立愚連隊」的なものになるべきだった、と。巨災隊のメンバーがリビングデッド的な存在をも招き入れ独立愚連隊的な組織へとさらに形態進化し、それがゴジラと共闘して、日本国家とアメリカを革命的に同時破壊する――という反日+反米のビジョンを、あえて『ゴジラ』の中に強引に読み込もうとしている。しかしその場合、ゴジラの現実的対応物は何だろう。そして巨災対的/独立愚連隊的なものの現実的等価物は。そこは気になりました。
笠井さんはゼロ年代サブカルチャー論の中ではサンディカの可能性を探し求めたり、無差別殺人者的な「歩く例外状態」を限定付きで肯定していたんだけど、しばき隊やSEALDs、国会前デモの中にそうした可能性を見出した、ということでしょうか。

笠井 見出したとまでは言えないな。見出せないだろうか、という感じかな。

藤田 彼らの中にも日本イデオロギーや、ファシズムにつながる側面があるとは思いませんか? SEALDsの牛田君と奥田君の対談で、自分たちの理想は巨災隊だったというのがあって、正直それはダメだろうと思ったんですけど……。

杉田 SEALDsとしばき隊でも、だいぶ組織原理が異なる気がするんですけど。

笠井 僕が注目したのは、しばき隊ですね。「テロルとゴジラ」の前半では、桐山襲という六八年作家について陣野俊史が論じた『テロルの伝説 桐山襲烈伝』(2016年)の議論を批判しているんだけど、陣野さんは、連合赤軍事件のリンチ事件がブランショの「明かしえぬ共同体」を思わせるとか、とんちんかんなことを書いているわけです。バタイユがつくっていたアセファルという結社は、まさに独立愚連隊的なものを目指していた。一人、病気で死期を悟っているコレットという女性がいて、その人は自分で犠牲になることを申し出たようだけど、結局、実行には至らなかったらしい。つまり、供犠において死を共有するような共同性でなければ、ナチの黒魔術的な結社性には対抗できない、という発想があったんですね。そういったイメージなんだよね、巨災対が独立愚連隊化するというのは。

杉田 ファシズムによってナチズムを浄化する、みたいな……。

藤田 ファシズムに近いがそうではないぎりぎりのラインの代替をバタイユは模索し、それをファシズムそのものにぶつけて欲動の流れを変えようとしたが、失敗した。そう見るべき。大岡淳さんが編著なさった『21世紀のマダム・エドワルダ』でのバタイユ解釈が、今バタイユを再読するときに参考になるかと思う。

笠井 バタイユができなかったことを実行したのはシモーヌ・ヴェイユだ、というのが僕の理解です。『サマー・アポカリプス』という小説で書きましたが、ヴェイユカタリ派の秘儀であるエンドゥーラ──なんというか、密教補陀落渡海みたいな、一種の自殺行です──を模して餓死自殺したわけだから。

藤田 巨災対はリビングデッドになるべきだったって解釈は、面白いですけど、正直に言えば、ロジックが少し分からない部分がある。僕は今回のゴジラはゾンビに似ていると思っていて……あのしっぽからあの後、全世界へ小さなゴジラが拡散して……。

笠井 だから巨災対ゴジラ化しなければ、本当はゴジラに対抗できない。
 
藤田 ゾンビになる前に止めちゃった。『新世紀ゾンビ論』で書いたのですが、ゾンビってグローバルな脅威の象徴なんですよ。それを一国の中で止めてしまうというのが、『シン・ゴジラ』のナショナリスティックな限界かな。『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』を読むと、増殖するゾンビのような脅威としてゴジラを描く方向性は実は当初はすごく強かったのだけれど、東宝の意向で抑えられてしまったよう。

笠井 ヤシオリ作戦というのは、ようするに退魔の儀式ですよ。科学の装いをとっているけど。半ば神の領域に入った祭司が、荒ぶる神や祟り神を払うための儀式をやらねばならない。最初の『ゴジラ』では芹沢という祭司がいたけど、『シン・ゴジラ』の中にはそういう神憑りな人はいない。結局、最後の作戦は土建国家的な土木関連技術の勝利であって、あれはちょっとおかしい。

藤田 彼らが実写でありながら半分アニメ的なキャラであることが、僕にはリビングデッド性があるようにも見えます。「キャラクター」というのは、生きているのか死んでいるのか分からない中間的な存在だから。

笠井 でも僕が好きなのは、カヨコ・アン・パタースン石原さとみ)だから。巨災隊のメンバーではない。

藤田 塚本晋也さんの「あ! これは極限環境微生物だ!」とか、あれもちょっと神懸り的というか、シャーマン的な部分ありませんか。

笠井 それはオタク的なおかしさであって、シャーマン的なおかしさとは違うでしょう。カヨコはシャーマン的ですね。 

藤田 カヨコについて笠井さんほど重要視している人を、僕はまだ三人しか知らないです(笑)。

杉田 SEALDsは非暴力を強調します。それに対し、しばき隊はちゃんと敵を認定して、少なくとも言葉の次元では暴力的な罵倒や実力行使を避けずに、敵の絶対的な排除を目指しますよね。あれは……。

笠井 世界は多様な力が交錯する場ですから、すべての行為が多かれ少なかれ暴力的ですよ。DVの例を挙げればわかるように、殴らなければ暴力的でないとはいえない。だから、自分の行為の暴力性について、人は常に自覚的でなければならないわけです。ガンジーの非暴力は、敵の暴力を引きだし身に蒙ることで敵の正体を暴露し、敵の正統性に打撃を与えるための行為で、きわめて暴力的な戦術です。しばき隊の場合、今の対権力関係では、在特会を実力で粉砕するとこちらの被害が大きいので、とりあえず手は出さないというだけでしょう。いまのところ、口で言っているだけなら逮捕されない。

杉田 ああ、なるほど。そうか……。笠井さんは、しばき隊の暴力性の延長上に何らかの革命性が出てくるのを期待しているんですか。それこそ、独立愚連隊的な……。

藤田 そこは杉田さんが『ゲンロン4』の原稿で書かれいていた、SEALDsがロスジェネ的な被害者意識やドロドロしたルサンチマンとは無縁であることへの違和感とも関係する問題でもあるのではないですかね。一方はルサンチマンがない、一方は暴力も辞さない。ゼロ年代の貧動と一〇年代以降の運動の質的な差をどう考えれば良いのか。

杉田 僕は正直に言って、『オネアミスの翼』の続編じゃないけど、自分がもう一度組織や運動に深くコミットすることについては、試行錯誤中である、としか言えない情けない状況です。例えば限界研がサンディカになって、規模はともかくいつか巨災対的な組織へと形態変化していく、可能性はあるんだろうか。

藤田 巨災対について僕は否定的に書いたので、それはどうとも答えにくいですね。

杉田 僕は格差論壇や反貧困運動みたいなものがあった時にデモに参加したり、フリーターズフリーという共同組合的なサンディカを作っていたんだけど、やっぱり社会革命を欲望する火種は今もありますよ。社会を変革し続けなきゃダメなんだと。正確には、自己変革と社会変革が絡み合っていかねばダメだと。最も深く自分を変えることが、最も遠く社会を変えることだ。そういうラディカリズムの火種がある。
しかし他方で、しばき隊的なものへの違和感もやはり僕にはある。在日コリアンに対するヘイト的なものをつぶすためには、容赦ない罵詈雑言を発していて、それ自体が別の過剰な暴力に陥っていく。それはかつて新左翼がマッチョな正しさに酔って女性や障害者の差別に陥っていったからくりと、何が違うんだろう。もちろん、キング牧師とマルコムXの関係も複雑だし、非暴力抵抗を言ったガンジーだって必ずしも直接暴力を否定してはいない。それはわかる。笠井さんは、そこは一九六〇年代の新左翼(モラリズムによる共同観念→連合赤軍事件)と六八年的なもの(集合観念=大衆蜂起)を切断し、内ゲバ的ではない戦術的な暴力性を肯定するわけだけど、正直、僕にはそこの差異がまだよくわかっていなくて。
敵対の線を引いて、敵を叩く時にこそ、自分の中の暴力をさらに叩いて無化していく、つまり、ある種のタナトスによる内なる暴力の浄化が必要なんじゃないかな。それは暴力への居直りでもなく、無謬の非暴力を掲げることでもなく、超暴力――暴力によって暴力を超え続けること――というか……。抽象的なことしか今は言えないけど……それはやはり「70年的なもの」が試行錯誤してきた問いであるという気はする。まだうまく考えられないな。

笠井 われわれは暴力から逃れることはできない。暴力を外側から否定しても暴力から逃れることはできず、可能なのは暴力性を自覚し、暴力を浄化することだけだというのが『テロルの現象学』の結論でした。限界研のサンディカ的再編に関連して言うと、プルードンを読んだほうがいいと思う。近代社会主義の一つの原点はプルードンで、もう一つがブランキです。マルクスはそれを弁証法的に止揚としたと称するわけだが、簒奪してねじ曲げた家だけです。その二つの原点がいまだに問題になっている。ブランキは政治闘争主義ですよね。プルードンの場合は、一種の協同組合主義的アナキズムだから、どうやって自分たちがなんとか食っていくかを一生懸命考える。この二つの関係をどういうふうに捉えるか。プルードン主義的なものだけだと最終的に改良主義になるわけです。
例えば一九〇五年のロシア革命の時のスローガンというのは、全部、改良的課題。体制の変革などには直接関係しない。しかしこういう要素なしでは、革命という社会的大変動は起こらない。これはもうはっきりしている。プルードン的なものとブランキ的なものが押し合いへし合いしながら、緊張関係を保ちながら転がっていくことによって、社会は現実に大きく変わってきたし、そういう緊張関係なしでは大きく変わり得ない。それがこれまでの歴史が示すところです。
たとえば小熊英二という人は、東大全共闘は無謀な決戦主義にすぎなかったから駄目だと、否定的に切り捨てるんだけど、彼はそういう矛盾を抱えた社会変革の人間学的な根拠というものが、感覚的に理解できないんだろう。

杉田 ジョルジュ・ソレルに笠井さんは近いような気もするのですが。

笠井 ええ、近いところはあります。

杉田 ソレルは上から暴力(権力)を批判して、下からの暴力をロマン主義的に肯定しますよね。つまり、ゼネラルストライキ的なものによって、国家機能を停止へ追い込もうとする。その場合も経済的な漸進的改良よりも、神話的な力をそこに注ぎ込んで、国家と資本に対する闘争を祝祭的に組織していく。笠井さんのヴィジョンでは、巨災対ゴジラが連合し、暴力的な享楽によって日本+アメリカを同時破壊的に停止させていくのだから……。しばき隊にもそうした享楽があるってことでしょうか。

笠井 ガンジーの非暴力もまた暴力だとすれば、暴力と非暴力が対項的に存在するわけではない。平和的なデモだってデモンストレーション、示威行動なんだから、実力の誇示なわけです。たとえ警官に石を投げなくてもね。平和なデモと暴動状態になって石を投げることとの間に、質的な断絶はない。連続しているんです。だから必要なのは、今この力関係でどういう戦術が有効なのか、という適切な判断でしょう。

杉田 ああ、なるほど。そうか。

笠井 それからもう一つ。SEALDsに関しては、二〇一一年にアラブの春とか、ウォール街の占拠などの社会的な運動が連鎖しましたよね。それの日本版があり、今も続いている、という文脈で理解するわけです。二〇世紀的な左翼性から断絶し、そこから次の一歩を踏み出したところで生じた大衆蜂起という共通性がある。東アジアでは香港と台湾、日本、韓国というふうに大衆蜂起が国際的に連続しているわけだよね。そういう流れの日本における形態が、反原連、しばき隊、SEALDsとしてある。こうした歴史的な流れを念頭に置きながら、それを基本的に支持する、というのが僕の立場です。ステイトメントなんかを読むと、SEALDsに言説化された思想的独自性があるとは思えませんが、僕は彼らを支持します。

藤田 理論的な事柄に迷い込みすぎるのを意識的に回避する戦術を採用しているようですね。

笠井 ただしSEALDsの牛田悦正君なんかは、「笠井さんは戦後社会は滅びよと言うけれど、我々にとってはもうすでに滅びている、滅ぼすまでもないんだ」、って言うんだよね。その感覚はよく分かる。

藤田 僕も牛田くんからは、「あなたたち大人は無責任だ」、って批判されました。ついにそう言われる「大人」になったのかと感慨深かったです(笑)。

杉田 ゴジラはもう全部破壊して、去ったあとだったんですね。

笠井 戦後社会の廃墟の中でどうやって生き延びるか、そのことを大きな借金を抱えながら俺は考えています、と言われると、なるほど、と応答するしかないよね。

藤田 僕は『シン・ゴジラ』の享楽と倫理を重点的に論じているわけですが、今の時代で享楽を擁護すると、赤木智大的な戦争待望論とか、華々しく特攻して自殺するとか自爆テロをしようという話につながりかねない。SEALDsの若者が根本的に享楽志向ではないのは、戦争反対の立場と関係するのかもしれない。焼野原にはしないのだ、そちらへの欲動は抑圧するのだ、という無意識的な選択というか、覚悟かもしれない。

笠井 そこは僕もまだ的確につかめない。千年王国主義運動は、すでに一五世紀くらいから続いているわけだから。現代の「雨傘」とか「ひまわり」が完全に非暴力なのかといえば、それもちょっと違う気がする。そもそも議会を集団で占拠するというのは、明らかに非合法的な実力の行使、ようするに暴力でしょう。

藤田 千年王国主義に対抗するに別の千年王国主義しかないのか、それとも別の答えがあるのか……。「欲動の政治」で言えば。日本人は戦後になっても、特攻隊的なロマンティシズムを鎮められていないから、フィクションの中で特攻のロマンや戦争の享楽を描き続けて、それによって死の欲動を昇華し続けてきた側面がありますよね。フィクションの中で浄化していたそれが、最近は現実の政治の現場にまで出てくるようになってきてしまった感が……。

笠井 僕流に言えば、最後まで徹底的に戦わなかったから、いつまでも曖昧にしっぽをひきずって断ち切れないんだよ。

藤田 『この世界の片隅に』『君の名は。』『シン・ゴジラ』という二〇一六年のエンターテインメントが重要だと思ったのは、これらが破壊や戦争が気持ちよくて面白いものだ、ということをきちんと明示したからです。震災という、スペクタクルかつ、悲惨なできごとに直面したときに僕らの中に起こった解決不可能なジレンマを直視させてくれる作品だった。それで心理的な浄化を起こしたのが、ヒットの心理的な理由なのではないか。

笠井 いや、『この世界の片隅に』はそれにはあてはまらないと思う。

藤田 着色弾のシーンでは、破壊の美しさとか戦争の美しさを描いていませんでしたか。『君の名は。』では、街をぶっ壊したと後に知ることになる隕石を見た主人公が、美しい、と言うシーンがある。破壊とか戦争とか震災とか、倫理的に対峙すべき対象にすら、僕らはスペクタクルを感じて興奮する。そういう矛盾、情動のいかがわしさにちゃんと向き合って、そのこと自体に僕らを直面させたのが、これらの三作の非常に重要なところだった。集団心理学的に、そのような機能を果たす作品が必要な時期だったのでしょう。

* 〈68年〉や社会運動に共感しない立場から

杉田 ところで、藤田さんや僕なんかは、社会運動や政治の話を、屈折やねじれを感じながらも継承する意志があると思うんだけど、藤井さんや富塚さんは、たぶん、全然違いますよね。

藤井 そうですね、はい。社会運動の話は全く分からないし、政治的な話は正直にいえばすごい遠い。いろいろと本を読んだりとか、職場にいる全共闘の記憶がある人に話を聞いたりはしていますが……。たとえば『シン・ゴジラ』等についても、率直にいえば、どうしても政治とフィクションを切り離して鑑賞したい、という気持ちが強いんですよね。周りの人たちから「お前そんな見方をしているのか、ばかじゃないの」みたいに批判されることへの怖れも僕の中にはあります。それは若者のSNS的な空気とも関係するかもしれません。それこそ、協調主義的全体主義です。フィクションはフィクションとして受容するということを強迫的にさせられている気がします。

藤田 美的なものに耽溺して政治的なものを忌避する態度こそが逆説的に政治的に強い力を持ってしまった、それがファシズム的精神を生んだんだ、という橋川文三の議論を現代的に解釈して『シン・ゴジラ論』で展開したけど、それについてはどう思いますか。

藤井 『シン・ゴジラ』自体はそこまでの深い話ではない、という気がしますけれどもね。

藤田 プロパガンダってのは、意識されないところの次元で影響を与えるものだよ。リーフェンシュタールしかり、エイゼンシュタインしかり。

藤井 現代のコンテンツに対しては、ファシズム的な危機感はないということです。もちろん、僕自身は無意識の政治性への関与を理解してはいるつもりです。ただ、そもそも美的なものに耽溺していないんです。『シン・ゴジラ』もある意味ネタとして消費していたので。
中村文則論でファシズム的な感覚を提示しましたが、それはコンテンツに対してではなく、コミュニケーションに対してファシズム的な感覚があると言った方がいいでしょうか。同様に、どちらかというと社会運動といった政治性よりもそのようなコミュニケーションの方に、少なくとも僕は実存が絡んでいます。

藤田 「美的なものに耽溺」っていうのは、現代風に言い換えて僕がイメージしているのは、「萌え続けている」とか「ずっとソーシャルゲームをやり続けている」とかなんだけどね。コミュニケーションに関しては、最近は自律した「コンテンツ」という概念が成立しにくくなっている鑑賞環境があるから、二つを分ける必要はないのでは。そういう構造に変動していること自体が兆候的なことだと僕は思っているけど。
ファシズム」の語源って「束」だから、人間を集団で束ねることと関係しているわけで、コミュニケーションにその顕著な兆候が見えてくるのは全く正しい。

杉田 藤田さんの『シン・ゴジラ論』を読んで、一番何かを感じたのはどこですか。

藤井 複数の意見をいろいろと引用しているところが面白かったです。それこそ評価軸が全く割れる意見や感想もふくめて。たぶん藤田さん個人の解釈だけを見せられても、僕は納得できなかったと思うんですよ。そういう意見もあるよね、ぐらいです。しかしあの本はそれ自体が「まとめサイト」みたいな感じで機能していますよね。「俺の考えた最強のゴジラ論」みたいなものを見せられてもしょうがないわけです。

笠井 作品が政治的プロバカンダとして利用され得るのは事実です。しかし、そんなものは誰の目にも見えやすいから、批判するのも簡単。問題はむしろ藤田君が言ったような、美が美として高度な政治性を発揮するような場合ですね。

冨塚 まず、お二人やそれ以外にも多くの論者に指摘されているトピックとして、『シン・ゴジラ』は無数の解釈を誘発する作品であり、どんな解釈も代入可能であって、どれが唯一の正解とは言えない、という点は重要だと思います。そもそも、『ゴジラ』シリーズ自体にそういった要素が強いのに加えて、かつて無数の謎本を生んだ『エヴァ』の庵野総監督が、今回も明らかに自覚的に様々な仕掛けを作中に導入しています。
その上で、すでに数多く描かれているシン・ゴジラ論を分類すると、大きく分けて、あくまで作中で明示されている要素を材料に論じるか、ある種の二次創作的な想像力とともに、あるべきシン・ゴジラ像にまで踏み込んだ議論を展開するか、の二通りに分かれるように感じます。私は、普段文学研究を行っているのと、『ゴジラ』、『エヴァ』両シリーズにさほど思い入れがないこともあり、前者の視点でシン・ゴジラを観ましたが、お二人の論には明白に後者の視点が見いだせました。
そうした、作品そのものから離れていくような強い結論は、一方で高い批評性と魅力をもちますが、他方である意味で「自分は社会にこうなってほしい」という願望を示すものとなってしまう危険性をも孕んでいるのではないか。例えば、私は笠井さんの映画後半の展開に批判的な議論と、藤田さんの本でも紹介されている杉田さんのツイート群は、おそらく作中で描かれる巨災対のあり方への不満をある程度共有しているものとして読みました。その上で、「フィクションは政治的イデオロギーとは無縁に受け止められるべき」と言うつもりは全くありませんが、作品に描かれていない方向に政治性を読み込むことの危険性には常に自覚的である必要があると思います。
もちろん、庵野氏が多くの仕掛けを自覚的に埋め込んでいるからこそ、単なる監督の意図の解説にとどまらない議論を行うには、時には作品から遊離する過激さが必要となることは理解できますし、その意味では二冊ともを楽しんで読んだことは間違いありませんが。
また、結論部を別とすると、藤田さんの書き方は、作品論というよりは、観客論の要素がつよく、いわば「『シン・ゴジラ論』論」というべき部分がありますよね。

藤田 そうだね。無数の読みを誘発する装置としての、虚焦点みたいな『シン・ゴジラ』を炙りだしたいので、観客論や、「論」論を方法論として意識的に選んだね。

冨塚 加えて、駄作として切り捨てられているB級の作品群をも含めた『ゴジラ』シリーズの各作品に関する議論も、読みどころの一つでした。『シン・ゴジラ論』での解説を読んでも、改めてそれらの作品を観よう、という気持ちにはなかなかなれませんでしたが(笑)。そうした、多岐にわたる切り口のある本ですが、私はやはり日本浪漫派の批判が藤田さんの関心のポイントなのかなと思いました。もっと言うと、急に最後に話が飛んで、北野武の『みんな〜やっているか!』の話になるところ。あそこが本当に主張したかったことだったのではないか。とはいえ、そうなると、やはりもはや『シン・ゴジラ』論ではなくなりますよね。

藤田 北野武について熱い想いがずっとあったことは否定しない。ただ、「作品に描かれていない方向に政治性を読み込むことの危険性」については、分かった上でやっている、と答えるしかない。作品を解釈し批評して、自分の論を世間に問う、という行為には、絶対に、「意見を世に発して、(ほんの少しになるかすごくでっかくなるかは予想できないにせよ)状況を変える」行為遂行的な側面はある。科学的な客観性に徹することは、作品を論じる場合には不可能なんじゃないかと思うんだよ。

冨塚 もちろん個人の意見が入ることは前提です。先ほども言ったように、作品に必ずしも準拠していないことを政治的に主張してしまうことには固有の危険性があるのでは、という疑問です。

藤田 作品論やテクスト論的な規範からすれば、言っていることも分かる。学術的な論文の場合はその規範は強く必要だよね。一応、僕も大学院でてるんでトレーニングも積んでいるし、ずっと考え続けてきているよ。『シン・ゴジラ論』の中でも、ロラン・バルトのテクスト論と、イーザーの読書行為論と、イーグルトンを理論的参照点として比較しながら自身の方法論を少し話したつもりなんだけどね。結論だけ言えば、「学術論文」であったとしても、作品を論じる場合に自然科学的な規範で論じるのは、不可能ではないとしても、重要な「魅力」の部分を失ってしまう。「批評」の、飛躍や乱暴さを危険として孕む在り方のほうが、作品を論じる際に、対象に対する誠実さとして重要なんじゃないかと思うんだよ。
イーグルトンの『批評の政治学』の結論部分の「政治的批評」によれば、どんな価値判断も、必ず政治性を帯びざるを得ないわけですよ。ニュートラルに論じるという形式、態度、それ自体も政治性を帯びる。だとしたら、それも自覚的に織り込んでやるしかないよね。

冨塚 価値判断が悪いのではなく、価値判断と二次創作的な想像力がつながってしまうことを問題視しているということです。

藤井 僕は読んでいて、藤田さんは何か苦しそうだな、と感じました。多分、普通なら仮想敵がいて、自分の言いたいことをそれにぶつけるんでしょうけど、そういうやり方だと、様々な解釈の中の一つというレベルに引きずり落とされて、今のSNS時代の空気に飲み込まれてしまう。だから藤田さん自身を一旦メタレベルに押し上げるために、全部の論をまず俯瞰する。まとめる。そういうやり方じゃないとそもそも主張ができなかったのではないか。そこが苦しそうだと思いました。
現在、自分の主張を流通させることは非常に難しいと思います。それこそ、ビジュアル・コミュニケーションが台頭してきていて、情動性こそに重きが置かれる時代であり、自分の言説は二の次です。また、周りの批判的な言葉や擁護する言葉といった多様な言説によって身動きが取れなくなる感覚がすごくありました。結局は他の人が言ってるよ、といった形です。その中でいかに言葉、つまり言論を成り立たせるか、ということで藤田さんは苦しんでいるのではないかと思ったんです。

冨塚 繰り返しになりますが、作品から直接に読みとれないことを、俺はこういう展開をしてほしかった、というふうに政治の話と絡めていくのは、やっぱりちょっと問題だと私は思います。

藤田 既存の先行文献に全てあたるというのは、学術的には「基本」というか「普通」のやり方だと思うよ。評論の場合、字数の制限や執筆時間の問題でみんな書かないけど、「巨人の方の上」に乗っている者として、先行研究にあたるのは普通のこと。自分の言いたいことを既に言っている人がいたら、わざわざ自分が書く必要ないわけだしね。過去の議論によって学んで、引き継いで、批判的に継承しながら発展していく「知」なり「学問」への最低限の礼節だよ、それは。
政治の話に関しては、ある作品は時代と政治と社会の文脈の中にあるわけだから、内部構造の次元と外部環境の次元、両方から読まないと駄目っていうのも、文学研究などでは「普通」のことでは? たとえば芥川龍之介江戸川乱歩を、当時の時代状況やテクノロジーの環境との関係で論じる研究は、(意識的に選択されたテクスト論がむしろ例外であって)ノーマルだっていう印象があるけれど。

笠井 作者の真意はどこにあるのか、という読み方はあまり面白くない。庵野秀明は本当のところ何を言いたかったのか、という論争にはたいして意味はない。そもそも庵野は解釈や議論を観客に挑発するため、意図してギミックを詰め込んでいるのだし。
もう一つは、杉田流儀でこの作品がどんな政治的機能を持つのか、ということを批判したとしても、政治的機能には尽くされない領域があるでしょう。こういうふうに政治利用されるからこの作品は駄目だ、逆に利用し得るからこの作品はいい、という政治主義的な価値評価は前提としてまったく駄目。それはとっくの昔に、スターリン主義芸術理論の批判で語られたことです。『容疑者X』論争のときから、僕は批評を政治化しようと思って発言してきましたが、もちろん社会主義リアリズムの昔に戻ろうというわけではない。『容疑者X』論争の直後に、ミステリ誌「ジャーロ」に連載した『探偵小説論Ⅳ』では、昭和初年代の蔵原惟人や中野重治や若林初之輔の批評や理論についても検討しました。平林というのは、同じプロ文でも蔵原や中野などの戦旗派でなく文戦派系で、探偵小説批評にも熱心な、ベンヤミンと共通するような発想の批評家です。
この二つはもう、もっとその先の話をした方がいいと思う。

(後・2に続く)