限界研blog

限界研の活動や記事を掲載します。

『ビジュアル・コミュニケーション』と「インディー・ゲームの美学」について

『ビジュアル・コミュニケーション』と「インディー・ゲームの美学」について
藤田直哉

限界研で、『ビジュアル・コミュニケーション 動画時代の文化批評』という共著を刊行しました。

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評


この本全体は、映画から、CM、ゲーム、ゲーム実況、淫夢動画まで、幅広い事象を「動画」という切り口で輪切りにして論じてみようという本です。


もはや、スカイプで動画付きの通信を頻繁にしていたり、何かあったらスマホでUST中継したり、LINEにおいてスタンプだけで会話をしたり、ゲーム実況のようにゲーム動画をハブにしてニコニコ動画などでコミュニケーションができるようになった現在では、「映像」の置かれている環境も変化しているだろう、というのが、この論集全体の問題意識になります。


その「変化」が如何なるものなのかという疑問に答えきれているのかどうかは怪しいのですが、それぞれの人間で領域を分担して、「動画」と「コミュニケーション」の関係性の現在をリサーチし、そこにあるロジックや美学を分析してみたのが、本書ということになります。


思えば、ぼくが生まれたのは一九八三年ですが、ビデオカメラが誕生し、普及し、スマホなどで動画を「配信」できるようになるまでは、あっと言う間でした。インターネット以前は、「放送」を一般人がすることは、相当に困難でした。TV以前の、フィルムで撮影・上映していた時代と比べても、大きな変化です。


インターネットと、カメラのモバイル化という技術的条件と、その大衆的な普及。そのような時代の中に生きてきたぼくら八〇年代生まれがいるとすれば(ぼくらは、まだ、その変化が「起こった」という記憶を微かに持っていますが)本書で共同研究・執筆を行った竹本竜都/冨塚亮平/藤井義允/宮本道人の四名は、より若く、共同研究の中で、ぼくも驚くような「物の見方」「感じ方」を見せてくれました。


まだまだ無名の彼らが、本書で世の中に出る必然性を強く感じさせる感性・認識を示してくれており、それは収録された共同討議や論考を見ていただければはっきりと認識できると思います。


もはや旧世代(ぼくはもう、自分がそうなのだと自覚しました)には捉えきれないなにがしかを彼らは捉えている。その新しい感性に注目してください。


さて、ぼくは、今、ゲーム界隈で話題のインディー・ゲームについて書きました。トーキョーゲームショー2015も、今回は会場が広がっており、新しい会場では、インディー・ゲームが活況を呈していました。



大作ゲームが、あまりに予算がかかるあまりに、自由さや実験性、作家性が追及しにくくなってきた状況に対し、ファミコンソフトを四人ぐらいで作っていたころのエッジ感を持った期待のジャンルとして、インディー・ゲームが注目されています。


ゲーム配信プラットフォームsteamがインディー・ゲームを支援し、作り手たちがマネタイズしやすい環境を作ったことなども重要な背景にあります(プレイステーションネットワークで販売されているゲームの中にも、インディー・ゲームがたくさんあります)。


ぼくが今回の論考「ピクセル・ガーデンでお散歩を インディー・ゲームの美学」で分け入っていったのは、この「インディー・ゲーム」の森の中です。


ほとんど、何の地図もコンパスもなく、頼りになる理論的装置なども探り探り分け入っていくこの体験は、新しい、未整理の熱気のあるジャンルに触れるような熱狂的な喜びを伴っていました。あの時期に、ああいうものに接することができたのは、幸福な経験でした。


このインディー・ゲームのカンブリア爆発を、とりあえず記述するために、いくつかの分類を作りました。「ゲームのようなゲーム――ピクセル・アートとリバイバル」と「ゲームのようではないゲーム――哲学・文学・詩・芸術」とにです。


この二つの大きな注目すべき現象が「なぜ起きているのか」を、作品に即して解読しようとしたのが、この文章になります。


そして、新種の生物がうようよいる島に流れ着いた生物学者のような気分で、これらゲームを便宜的に分類する表も作ってみました。


ゲラなどで誤記は微調整がされていますが、そのまま掲載します。


インディー・ゲーム分類表

1 レトロゲーム調
ファミコンスーパーファミコン風 『Super meat boy』『Hotline miami』『8bit boy』『Electric super joy』『The binding of issac』『La-Mulana』『Papers,please』『To the moon』『ゆめにっき』『勇者30』
・ローポリゴン『Proteus』『Shelter』『Guncraft』『Lovely plnet』『Paranautical Activity』
・「死に覚え」ゲー 『洞窟物語』『Super meat boy』『Hotline miami』『The binding of issac』『La-Mulana』『Super Hexagon』

Super Meat Boy Ultra Edition (輸入版)

Super Meat Boy Ultra Edition (輸入版)



ゆめにっき (FreeGameNovel)

ゆめにっき (FreeGameNovel)

勇者30 - PSP

勇者30 - PSP

洞窟物語3D - 3DS

洞窟物語3D - 3DS

2 アート調
アブストラクト 『Antichamber』『NaissanceE』『PixelJunk Eden』『Super Hexagon』『LYNE』『Mini metro』『Thomas was alone』
・白黒 『LIMBO』『NaissanceE』
ピクセル・アート 『Proteus』『Hotline miami』『Pxiel piracy』『FEZ』『スキタイの娘』『To the moon』
サイケデリック『Super Hexagon』『Hotline miami』『Audiosurf





 
3 ゲームっぽくないゲーム
・散歩ゲー 『NaissanceE』『Dream』『Proteus』『Dear Ethter』『The void』
・文学、詩 『Dear Ethter』『Gone home』『Amnesia:The dark descent』『To the moon』『The Stanley parable』
・哲学、芸術 『NaissanceE』『Zen bound2』『The Stanley parable』
・精神世界系 『ゆめにっき』『NaissanceE』『Dream』『Dear Ethter』『Amnesia:The dark descent』『The binding of issac』
・リラックス、禅 『BEJUWELED3』(一部)『Plants vs. Zombies』(一部)『LYNE』『Proteus』『Zen bound2』『Borearis』


4 ゲームらしさのエッジを追及するゲーム
・体験性『NaissanceE』『Dream』『Dear Ethter』
・レベル・ジャンキー性 『Nation Red』『Pixel piracy』『Torchlight』『『Torchlight2』『勇者30』
・造園系『マインクラフト』『テラリア』『Garry’s Mod』
・シミュレーター系『Euro truck simulator』『Farm simulator』『Surgeon simulator』『Goat simulator』『Probably Archery』『Mini metro』
・音楽系 『Electric super joy』『Audiosurf』『Universe sandbox』『PixelJunk Eden』『Super Hexagon』『スキタイの娘』『LYNE』
バカゲー 『Surgeon simulator』『Goat simulator』『Probably Archery』『Postal 2』『Zen bound2』

テラリア - PS Vita

テラリア - PS Vita


ここからは余談に属するものですが、興味のあるごく少数の人に向けての話です。

インディー・ゲームを論じながら、本論は同時に、「3Dのゲーム」における快は一体何なのだろうか、という、ぼくの長年抱いてきた疑問に対する、ひとまずの答え、という側面があります。

ゼロ年代にゲームが多く論じられてきましたが、それは美少女ゲームやノベルゲームなどが主で、ゲームに於いて主流である「3Dの空間を仮想的に作りだすゲーム」のことを論じる批評的枠組みがあまり作りだせているようには思えませんでした。

3Dの空間が、モニタや画面の中にあり、動かせるということそれ自体の「快」や「美学」をなんとか言語化できないか。そんなことをずっと考えていました。

『虚構内存在』で書いた議論の延長線上で、ぼくはそれを、このように提示してみることにしました(多分、あまり興味がある人は少ないでしょうが、ぼくは「虚構内存在」の思想、あるいは理論について、継続的に思考を続けています)。ここに、その箇所だけ、サンプルとして、まるまる掲載しておくことにします。

「さて、「現存在」は「世界を生起させる」のだが、ゲームにおいては、その「世界を生起させる」作業は、コンピュータとソフトウェアが担っている。「世界」とはいえ、それはコンピュータ内の仮想現実空間に生成される、疑似物理空間に過ぎないわけではあるが、それは現存在がこの世界そのものを「生成」させる体験と類似的な体験である。いわば、機械の力を借りて、「虚構を生起させる」のが、ゲームの世界だと言ってもよい。とくに、ここで造園系と呼ぶような、マップがその都度自動生成されたり、その世界を改変して居住する(『マインクラフト』『テラリア』)ことを主目的にするゲームにおいては、虚構空間を生成し、そこに「住む」という経験そのものに快楽の質が宿っていると考えなくてはならない。

成功したとは言えないが仮想空間に第二の生活を営もうとする『セカンド・ライフ』のプロジェクトも、「住む」ことを重視していた。『グランド・セフト・オート』などの大ヒット作も、自由に動かせる3D空間の中に作られた都市に住まうということを、ひとつの重要な要素としている。

それは、現存在、すなわち世界内存在たるぼくらが、同時にコンピュータの助けを借りて、世界ならぬ虚構を生起させ、そこに住むことによって、同時に虚構内存在ともなるという複雑な経験である。

造園系、すなわち、3D世界を改変して、生活することを主とするゲームの大流行は、この「世界内存在」と「虚構内存在」の摩擦、あるいは多重化、あるいはモザイク状に入り組むという実存の快楽を抜きにして語ることはできない。もっと言うならば、3D空間や2D空間などに「没入」しているときのぼくらの身体や主体は、このような多層化し輻輳化しった状態になっており、ゲームの快楽ならぬ、享楽があるとすれば、このように身体や主体そのものを「使って」遊ぶという、危険で無謀とも言えるスリリングさに起因しているのではないだろうか。」

『ビジュアル・コミュニケーション』より

限界研のイベントがあります!!!

「「動画の時代」の「映画批評」はいかに可能か
ポストメディウム的状況を考える
『ビジュアル・コミュニケーション』(南雲堂)刊行記念トークイベント」

ジュンク堂書店 池袋本店
開催日時:2015年11月17日(火)19:30 〜
書店ウェブサイトへ

佐々木友輔×三浦哲哉×渡邉大輔 (司会進行:冨塚亮平)

ここ最近、映画の世界は大きな変化を迎えている。誰でもスマホで「映画」っぽいものが作れ、ネット上にはVine動画やゲーム実況など、いままで見たこともないような新しい映像コンテンツが映画と肩を並べるようにして、活況を呈するようになりつつある。
『映画とは何か』(筑摩書房)など、映画の現在について先鋭な批評活動を繰り広げる俊英・三浦哲哉氏をゲストに迎え、9月末刊行の評論集『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』(南雲堂)の内容を踏まえ、こうした「動画の時代」にかつての「映画批評」はどのように対応していくべきなのか。『ゼロ・グラビティ』『親密さ』 『ルック・オブ・サイレンス』『THE COCKPIT』……などなど、数々の話題作を
素材に、そして映画誕生120年の現在、あらためて「映画」と「映像」の関わりについて「映画批評」の観点から徹底的に語り合う。