限界研blog

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白井聡×藤田直哉 トークショー@紀ノ国屋書店新宿本店(2013年6月16日)

「10年代論壇の行方――3・11以降の政治と物語、そして想像力」(2/2)
レポーター:海老原豊


(承前)



オウム真理教による一連の事件は「理解に絶する」と白井はいった。サブカルニューエイジのごった煮、議会政治への進出を目指すも挫折、そして武力革命路線へとシフト。この出来の悪い革命党の源泉にはサブカルチャーの想像力が少なからず流れている。


それに対して、在特会ナショナリズムだ。規模、そしてナショナリズムという物語がもつリソース(資源)の豊富さを白井はオウムと在特会の違いとしてあげた。「抑圧されている」「被害者である」という感情の源泉がどこにあるのか、安田浩一『ネットと愛国』にも言及しながら、二人は議論をしていく。疎外や抑圧といった感情を抱くかつてであれば左翼に動員されてもおかしくない人々が、しかし21世紀の日本では「愛国」「ナショナリズム」「排外主義」へと駆り立てられる。この背景には「不幸の均霑(きんてん)」(加藤陽子)もあるだろう、というのが白井の見立てだ。この態度は第二次世界大戦中に国民が戦争を支持したそれと繋がっている。


右派に対して左派はどうだろう。昨年、大きな盛り上がりを見せた脱原発デモが次の話題となった。柄谷行人はデモ参加者ひとりひとりの背後には100人の人間がいると演説をしたが、しかし同じことは右(例えば在特会)にもあてはまるだろうと白井は鋭く指摘した。


藤田は、あれほど盛り上がっていた反原発デモが、気がつけば霧消してしまったことにふれて、「彼らはどこへ行ってしまったんですか?」と問いかけた。街頭に出ること、デモに参加すること、大声を張り上げることは、実はネット環境が抑圧していた身体性が解放される瞬間であり、体を使うという原始的なカタルシスがあるから魅力的なのではないかと藤田は持論を展開。身体性の抑圧として藤田は「肩こり」をあげた。いまほど実在と虚構のリアリティが溶け合っている時代はない。ツイッターでボットを会話をする人だっている。確かに、身体性はないのだろう。しかし、それを軍隊や労働で無理やりとりもどさせるのではなく、新しいこの身体性を肯定したうえでやっていくしかないのではないかと藤田はこれからの社会のあり方について述べた。


萌え、承認、AKB、コミケなど、さらにいくつか面白い話題が出てきた。最後は会場からの質疑となった。活動(野宿者支援)の現場からオタクの政治化はしていないのではないかという意見がある一方で、大学生ぐらいの若者からは、マルクス共産主義といった左翼思想すら萌えの対象となっている現実があるという意見も出された。社会に関心を持つことは大切だが、その持ち方が問題なのではないかというフロアからの意見に、藤田はコミュニティが自閉・「カルト化」し、自分たちにとって都合のよい意見だけが無限増幅される居心地のよい世界にならないように、私たちの側も「頭を使って」防衛していく必要があるのだと説いた。


さて、ここからは報告者の雑感。


原発デモもAKBファンは共通して消費者マインドではないのか。反原発の声を上げたものは、藤田のいうように、抑圧された身体性を路上で解放するカタルシスを楽しんだものもいるだろう。他方、放射能の健康リスクから反原発を訴えたものもいる(当然だ)。そしてその場合、健康リスクは容易に「お財布の問題」へとずれていく。原発に関する情報がインフレーションをおこし、正しさの基準があいまいとなったときに、「安全」への配慮は、個人が負担すべきコストとなる。それを少しでも削減するために反原発を訴えたのではないだろうか。日々の生活における「心配事」を減らすために。ところが、ひととおり原発が停止し、懸念されていた電力不足も乗り切れると、とくにそれ以上なにかしようとは思わなくなる。電気代は値上げしたが、この程度の値上げで「心配事」が一時的であれ棚上げできるのであれば安い出費だ。…といったような消費者マインドがデモ隊の出現と消失に関係しているのではないか、とトークショーを聞きながら思った。


そしてAKB。白井聡は、AKBは政治にはなりえないと断言した。ただ、若手の評論家、それも政治的なものを語ろうとするものたちのなかには、AKBの動員の手法やファンの楽しみ方を肯定的に評価し、積極的に既存の大文字の政治システムへ取り込めないかと大真面目に考えるものもいるは事実。ただ、AKBファンにも反原発デモ同様に消費者マインドは見られるのではなかろうか。つまり、どうしたらもっとも効率よくお金を投資できるのかという計算が。政治は、白井のいうように「日々の生活」や「資源の再分配」、「共同体」の問題と直結している。共同体という自分より大きな存在を作り維持する場合、単に目の前の「日々の生活」にだけきゅうきゅうとしていたのでは、立ち行かない。長期的な視野にたった組織・制度としてのありかたを考える必要がある。おそらくこのときに文学が豊かにする想像力と政治が可能にする現実的な方法論がもっとも必要とされるのだろう。が、現状ではうまくいっていないので、文学と政治というパラメーターを調整する必要があるのだ。


最後に白井・藤田の議論の参考文献として宇野常寛濱野智史『希望論』(NHKブックス)をあげておく。※ 文中敬称略(2/2)



希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)

希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)