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米澤穂信『ふたりの距離の概算』レビュー【評者:海老原豊】

米澤穂信ふたりの距離の概算』(角川文庫)
ゆっくりと確実に新陳代謝する古典部


評者:海老原豊


※これは『21世紀探偵小説』所収の拙論「終わりなき「日常の謎」」では紙面の都合で詳述できなかった米澤穂信ふたりの距離の概算』のレビュー。『21世紀探偵小説』の出張版であり、米澤穂信の「日常の謎」の現在性をさらに知りたい人は、ぜひ『21世紀探偵小説』を。


 『氷菓』『愚者のエンドロール』『クドリャフカの順番』『遠まわりする雛』に続く、米澤穂信日常の謎」ミステリ・〈古典部〉シリーズの第五作目。本作品は折木奉太郎たちの通う神山高校名物(?)・20キロマラソンを舞台に、新入生勧誘週間のときにつかまえた新入部員・大日向友子が、入部をとりやめた理由を奉太郎が推理する。大きな謎は大日向の入部取りやめなのだが、それに至るまでいくつかの小さな謎(とその解決)を思い出しながら、奉太郎は走る。途中、他の古典部のメンバーとすれ違い、何がしかのヒントを集めながら推理を組み立てる。例えば、伊原麻耶花からは、古典部をやめるといって部室から出てきた大日向が「千反田先輩は菩薩みたいに見えますよね」という証言を得る。

 と、ここまであらすじを紹介してみて、「いつもの古典部モノ」と思われたかもしれない。確かにお馴染みのキャラクターが登場し、小さな謎から大きな謎へと迫る構成だから、「いつもの」と目に写るかもしれない。しかし、「いつもの古典部」とは、そもそも何なのだろう。米澤穂信の〈古典部〉シリーズが現代の日本ミステリにおいて先鋭的なのは、居心地のよい「日常」空間に成立する謎を扱いつつ、その謎を共有し、解決する中間共同体を、安定したものとは描いていないことにある。米澤の「日常」空間は、「サザエさん」や「ちびまるこちゃん」のような閉じた時間上のノスタルジーではなく、ゆっくりとだが確実に新陳代謝をしている「生きた」空間なのだ。「いつもの古典部」は、「少し前の古典部」とは違う。ここに古典部の「いつもの」性がある。米澤が描く「日常」空間は、今を生きるためのよりどころとしての中間共同体のあり方を示唆してくれる。

 だから本作品の注目点は、時間の経過がもたらす新陳代謝だ。古典部という部活(中間共同体)は時の流れから無縁ではない。短期的にはマラソン。奉太郎たちは20キロマラソンを走っているので、各章には残りのキロ数が表示され、直線的な時間が明示される。マラソンだけではなく、長期的にも時は流れる。奉太郎たちは2年生に進級し、大日向という1年生が仮ではあるが入部するのだ。重要なのはこれらの時間経過が、今までのシリーズ作られた人間関係に変化をもたらしている事実だ。福部里志と伊原、奉太郎と千反田える関係に。そして、これらの微妙ではあるが確実な変化が、大日向の(仮)入部‐退部という一連の動きと連動している。奉太郎は、今やはっきり認めるように、「合理的ではない判断にもとづく推理」をする。それは、彼が今まで避けてきた「(人の)縁」がもたらしたもの。中間共同体を色づける親密度の濃淡は、心地よさと同時に、バツの悪さももたらす。奉太郎は、自分の不合理さも、縁に絡み取られた結果の始末も、ともに引き受ける。「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に」をモットーにする省エネ・探偵であったはずの奉太郎らしくない。省エネといえば、作中でも指摘されているように、20キロマラソンなど不合理そのものに見える。ともあれ、なんとか奉太郎は走るのだ。それは、かつての彼にとっては非合理的かもしれないが、今の彼には必要なものなのだろう。

ふたりの距離の概算 (角川文庫)

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21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊

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海老原豊(えびはらゆたか)
1982年東京生まれ。第2回日本SF評論賞優秀作を「グレッグ・イーガンとスパイラルダンスを」で受賞(「S-Fマガジン」2007年6月号掲載)。「週刊読書人」「S-Fマガジン」に書評、「ユリイカ」に評論を寄稿。