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座談会 東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後2)

座談会 
東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後・2)

参加者:笠井潔×杉田俊介×冨塚亮平×藤井義允×藤田直哉

東日本大震災後文学論

東日本大震災後文学論

* 『シン・ゴジラ論』Bパートをめぐって――そして『ガルム・ウォーズ』

杉田 藤田さんはまとめサイト的な『シン・ゴジラ』に対して、批評の側からまとめサイト的に振る舞っている面があると思うけど、もちろんそれだけだとは全然思わないんですよね。やっぱり藤田さんがコミットする価値判断は、最後のゴジラのしっぽの話だと思う。ゴジラのしっぽは死者たちの群れであり、それは東北の震災の犠牲者や、原発事故の被害者たちの怨念を象徴するものであると。そうしたゴジラが象徴的に、東北から東京へとやって来て、不公平を是正しようとするわけです。お前ら東京人も、冷温停止したゴジラと共にずっと生きろと宣告するかのように。「東京に原発を!」じゃないけれども。
あの判断が藤田さんに固有の、一番強い解釈だと僕は思った。それは「政治か芸術か」「倫理か美か」というアングルとしての対立を打ち砕くような、むしろそれらが反転しあってある種のメタ快楽を、メタ倫理を生み出していく……そしてゴジラが一種の宗教的な対象になっていく。それは現代的な美学論+政治論の一歩、さらに先を目指し、切り拓くような、藤田直哉という批評家の新しい理論の提示であり、だからこそ、僕は藤田さんの今回の『シン・ゴジラ論』を高く評価します。
しかしその上で言いたいのは、藤田さんの論が今回、ゴジラをある種の消費可能な宗教的対象として捉えてしまうのは、どうなんだろうか。天皇や国体の話が出てくるけれども、ある種の靖国神社みたいな話になってしまっていないか。つまりゴジラの存在を、ある種の飼いならされた死者たちの次元に落としこんでいないか。実際に、現実のネトウヨもオタクも安倍晋三も『シン・ゴジラ』を喜々として享楽していますよね。彼らの精神は全くこの映画によって揺るがされない。内省もしない。するとこの映画は、東北の死者や犠牲者の怨念によって東京を脅かすどころか、歴史修正者たちに都合のいい、靖国的な、死者たちの国家利用の、鎮魂(たましずめ)の媒体として機能してしまってはいませんか。
藤田 既に機能しているから、機能の仕方を変えるために言説空間に介入したというか……。違う、そうじゃない、これは東北の怨念で、原発を押し付けた東京への報復としてゴジラが来ているんだぞ! ということをこの本で突き付けたかったんですよ。批評の力で、彼らを根本的に揺さぶりたかったわけですよ。その説得力がどのぐらいあったかは分からないですが、そう解釈するための「証拠」はきちんと用意しているつもりで。たとえば一作目の『ゴジラ』から、本多さんが山形出身で、二・二六にも連座しかけるギリギリにいたとか。地方の怨念の問題は「ゴジラ」というキャラクターに潜在的にあったことを示しているつもりで。僕の批評を読むことによって、そのように『シン・ゴジラ』を根本的に解釈し直してほしいんです。

杉田 いや、『シン・ゴジラ』という作品は実はやっぱりそうは読めないんじゃないですか。

藤田 読める。

冨塚 藤田さんの本は最終的に、シン・ゴジラが象徴天皇であるという結論になったと私も思います。天皇といえば、過去のゴジラ論には、ゴジラが皇居に行かなかったことを問題視する文脈がありますよね。これはお二人が原稿を書き終えた後で出た本なので後出しになりますが、ユリイカシン・ゴジラ特集では大塚英志さんがこういうことを言っています。ゴジラは東京駅で最後、冷温停止するんですが、その時ゴジラの顔が向いている方向が皇居であると。要はあそこで止まらなければそのまま皇居に行っていたかもしれない。ただし皇居に行かせなかった……。

藤田 でもそれはその前に巨災対の連中に振り回されて、ぐるぐる回って、最後に向いた顔の向きじゃない(笑) 

冨塚 冷凍液を入れられた際に一歩踏み出したのも皇居の方向、と書いてありました。その後見直して確認したわけではないですが(笑)。詳細はここでは省きますが、大塚さんの議論では、ゴジラが皇居に行くことは、父殺しと共に、胎内回帰をも意味します。そこで、ではなぜ皇居に行かせずにそこで止まらせたかというと、それが今の天皇制に対する断念だ、という解釈です。「お気持ち」などに共感させてしまう、情動的な天皇の存在を断念しているんだと。(さらなる後出しをすれば、信用するかは別としても庵野氏が『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』でのインタビューで、皇室については扱うな、と厳命されていたと話していましたが)これ、藤田さんと真逆だと思うんですよね、そういう意味では。

笠井 加藤典洋はむしろ靖国神社を踏みつぶせ、って言っている。

冨塚 シン・ゴジラに関するインタビューでは横田基地福島第一原発に行かせるべき、とおっしゃっていましたね。

藤田 『シン・ゴジラ』が、天皇の問題を意識していたことには、製作陣の証言があるので間違いないと思うんだけれど、どういう「解釈」が可能かはわかれるだろうね。そういう「大御心」を勝手に各々が読み取ったり解釈しなきゃいけないような装置こそが「天皇」であって、その構造を作品に移し変えて温存しているよね、っていうのが僕の意見。だから「断念」ではないと思う。大塚さんが言いたいことは分かるが、それならこの映画の解釈誘発システムそのものも撃たないとダメだと思う。
杉田さんの問いに戻るんですけど、ゴジラを飼いならしているんじゃないか問題は、確かにその通り。加藤典洋さんもゴジラが戦後に無菌化、衛生化されて、ハローキティポケモンになった、ということをちょっと否定的に述べていた。僕はそれを再検討して、第四章で、無害化されてかわいい化されたゴジラとか、BL化されるゴジラの話を書いて、いい可能性もひょっとしたらあるかもしれないと書いた。ここはあの本の未解決課題です。一応、デュピュイとピンカーの議論を引き合いに出して、「暴力」を「虚構化」することが人類の文明の進化だ、と肯定的に捉えうる可能性を示したけど、一方で「虚構化」には問題があるのも間違いがない。そこは丁寧に個別に見ていくしかない気がしています。
シン・ゴジラ』は前半もしくは中盤に、飼いならせないゴジラの姿、暴れる姿をきちんと出していた。ゆえにそういう飼い慣らしからはあの映画は免れ得ている瞬間はある、というのが僕の考えです。もちろん映画にした時点で飼いならしてはいるんですよ、フィクションですからね。

杉田 そういう揺らぎがある、ということですね。

笠井 まあ平成ゴジラ以降はまた別だけど、昭和ゴジラはやっぱり駄目だね。高度成長のヒーローだから。もう一度変わるのは、平成大不況の後ですね。

藤田 確かに子育てしたするゴジラはどうかと思いますね。『怪獣大戦争』や『怪獣総進撃』のゴジラはあまりよくないですね。八四年以降、また凶暴化してていいんですけどね。

笠井 あの映画が、憲法を改正して非常事態条項を入れようとかいうプロバガンダの種に使われるから危険だというのも、反対に、逃げ遅れた市民を見て首相が発砲中止を命じたのは、戦後民主主義の精神に忠実で素晴らしいと評価するのも、発想は同じですね。そういうふうに作品の一部を引っ張り出してきて政治的効用をあげつらうことに、批評的な意味はない。あるとすれば政治的な意味です。

杉田 僕は芸術を特定の政治的立場から批判しているのではなくって、一貫して、政治と芸術の対立を超える新次元の「芸術」の強度を描くことが最も「政治的」である、「芸術は政治的に中立だ」も「芸術より政治が大事」もダメだ、と言い続けているつもりなんですけどね。実際に、作品としての『シン・ゴジラ』は批判したけど、庵野秀明は評価しています。しかし、あなたはこんなもんなんですか、とも言いたい。

藤田 政治と芸術を安易に切り離して考えるべきではないという考え方には同意します。が、杉田さんの考える「新次元」や「ポストヒューマン」の具体的なあり方が見えてこない。

杉田 今の話を聞いていて、僕はぐるっと回って、ツイッターで炎上した僕の『シン・ゴジラ』批判はやっぱり正しかったんじゃないかと思いはじめています。藤田さんは、じつは自分の『シン・ゴジラ』の解釈を十分に信じ切れていないから、唐突にBパートが出てくるんじゃないですか。科学技術をめぐる倫理的な葛藤自体を永久革命的に継続していくという方向を示しながら、最後に突然、北野武松本人志の怪獣映画を持ち出して、今までの話を全部ひっくり返す。これはやっぱり自分の『シン・ゴジラ』解釈を信じきれていないのではないですか。

藤田 いや、突然でもないんですよ。これは第三章で検討した「ゴジラのかわいい化」に関する揺らぎに対応しています。「かわいいゴジラ」批判の中には倫理的な脅迫の側面があることを問題視していたわけです。第五章のままで僕が論を終えたら、現実の福島や被災地を根拠にして倫理的脅迫を行うようになってしまい、自分の批判したことを体現してしまってブーメランになるんですよ。だから第五章で終わりではダメだった。次の章(北野武論)が必要だった。

杉田 つまり僕は、ゴジラを美的かつ宗教的なシンボル(国体)として祭り上げて享楽するのではなくて、かといって笑いに逃げるのでもなく、ある種のゴジラになっていくことが重要じゃないかと思いはじめていて。

藤田 逆だな。いかにゴジラにならないかが重要だな。

杉田 いや、僕らはゴジラ的人間になっていくべきなんですよ。

藤田 「人間ゴジラ」としてこの本に出てきたのは、三島由紀夫です。ボディビルディングしている自分を「ゴジラの卵」と呼んでいる。しかし、じゃあ「卵から孵った」ゴジラになった三島由紀夫が何をしたかと言えば、クーデターの呼びかけと自殺でしょう。

杉田 三島由紀夫じゃないんですよ。科学の矛盾を科学自身によって乗り越えねばいけない、そうした矛盾の象徴としてのゴジラゴジラは僕らに諦めを許さない、という倫理の象徴だと、藤田さんはそう言っている。しかしそのゴジラ的な倫理の、倫理主義的な息苦しさを、藤田さんは最後にBパートで笑いによって吹き飛ばすわけですね。しかしその倫理から笑いへ、という構成がやっぱり少し違うと思っていて。つまり、AとBが内在的に繋がっていない。Aの臨界点からBが内在的にBの議論が開かれるのではなく、笑いという特権的なポジションを外側から持ち出してきて、それまでの議論(A)全体をひっくり返している。そこでは、無内容な「笑い」が無邪気に特権化されていると思った。しかしそもそもゴジラ的な倫理というのは、むしろ震災や戦争すら享楽してしまうような感覚と、執拗に倫理的であり続けようとする意志のようなものが、混然一体になっていたんじゃないですか。僕らはその可能性を突きつめて、むしろ、さらにゴジラ的な人間になっていくべきじゃないか。

藤田 僕の議論の構成――それは内容とも緊密な関係を持っているんですが――って、常に「相克主義」的とでも言うべきものなんですよ。何かと何かがぶつかったり、境界が変わるところに興味を持つし、衝突して変わっていくことを肯定する。その上で、「倫理」と「笑い」の話をすると、僕はこれは簡単には二項対立にはできないと思っていて……。倫理的であり続ける息苦しさに耐えるために「笑い」を必要とする、という側面がある。倫理は超自我機械的な働きのようなものだとフロイトは言っていて、ベルクソンは、笑いっていうのは、機械的な硬直に対して「生」が反撥して緩めることだ、みたいに言っていますよね。これは対立するんじゃなくて、同じものの別の作用というかな。人間がバネだとして、倫理は押さえつける機械で、バネは「ビヨーン」って飛んじゃう。その「ビヨーン」が「笑い」。「ビヨーン」と「圧力」の関係は、バネの材質にもよるので……。陶器でできたバネならちょっと押しただけで割れるしさ。押し付けすぎると跳ねなくなるのもあるだろうし。
もう少し理論的な方向で言うと、「倫理」を齎す源泉が「死の欲動」であったりするじゃないですか。そうすると、倫理が単に正しいものであると思考停止していいわけでもないと思うんですよ。この問題系でいえば、「カントとサド」という議論があるけど、倫理は実はサディズムの変形であるのかもしれない。「倫理」が本当に良いものかどうかすらも相対化して考える必要があると思うんですよ。もっと正確に言えば、「具体的にどんな倫理がどうあるのがいいのか」っていうことを、細かく探らないと。
フロイトが書いた「ユーモア」っていう文章を読んでも、倫理とユーモアが単純な対立図式にはなっていない……。「超自我」っていう、自我に倫理的な命令を下し続けるところが、同時にユーモアの源泉でもあると言うんですよ。フロイト自身も、この矛盾に自分で驚いていて、「超自我の本質について学ぶべきことがまだまだたくさんある」と書いています。両親のように峻厳であり、同時に、慰めたりアドバイスをする(ユーモアはこちらから生まれる)、そういう「超自我」の両価的な側面に注意を促しています。

杉田 フロイトの中では、タナトスとユーモアはそれほどはっきり区別されるものじゃないでしょう。

藤田 時期によって考えが揺れているようなので、僕もはっきりと把握できてはいませんが。「超自我」って、倫理を要請すると同時にユーモアの源泉でもある。これって、ゴジラ的じゃないですか。怪獣映画の「真面目さ」だけではなく、笑ってしまう、笑いものになってしまう側面をも併せ持っている。そういう側面をも無視せずに論じようとした場合、フロイトのこの考えは重要になってくる。そして、この側面の提示は、最近、憲法フロイトを重ねて論じている柄谷行人の議論への応答……というか、異論の提示という側面もあります。

杉田 だからタナトスとヒューモアが混ざりあっていくゴジラ的な感覚というのを、どうやって自分たちが解き放っていくか。Bパートではそれが論じられるべきだったのでは。そしてそれはポスト・ヒューマンの話だと思っていて。

藤田 ゴジラ的な感覚というのは具体的にはどういうことを意味しているのですか。

杉田 つまり戦争や震災にすら享楽を感じてしまうような、そういう徹底的な消費精神みたいなものがあるじゃないですか。それがそのまま新しい倫理感覚を開いていく。そうした……。

藤田 それはありますよね。宮崎駿だってそうですよね。

杉田 テクノロジーの発達によって人間の主体的な美的感性や芸術感覚が進化して拡張していく、という歴史があったわけじゃないですか。ヴィリリオも、映画の技術の発達は戦争やナチスの技術の発達と絡み合っていた、と論じていましたよね。戦争を通して人間的な現実のレイヤーや想像力(構想力)自体が変革されてきた。『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』には、そうした、美的なものと政治的なもの、人間的なものと技術的なものが絡まりながら、様々な矛盾や葛藤を抱えながらも更新されていく、という感覚があり、それを漸進的に開き続けていくのがゴジラ的人間なのではないか。藤田さんはすでにそういう認識をつかんでいるのに、最後に倫理的強迫を批判的に放棄して、特権的な笑いの方向へと逃げている。それは藤田さん自身の身体や欲望を実は自ら裏切っているんじゃないか。

藤田 どうなんでしょうね。それは分からないな。「笑い」が特権的なのだとしても、僕が論じているのは「笑い」が失敗し続ける「滑り」の作品としての『みんな〜やってるか!』ですからね。「笑い」を不発にさせ続け、バーチャルな社会的自殺を反復脅迫的に続ける作品について論じているので、そこにおいてはゴジラと『みんな〜やってるか!』って共通部分があるわけで、そんなに外部って感じがしないんですよ。
「矛盾や葛藤」を抱え込みながら更新することが重要だという主張からしても、『シン・ゴジラ論』に、「外部」と皆さんが思うようなあの章が最後に入って、それ以外の部分と「矛盾」「葛藤」を生じさせて読者を不安にさせたまま放り出すっていう構成は、内容を裏切っていないと思います。

藤井 結局、『シン・ゴジラ論』では最終的に笑いに昇華するという感じなんですよね。

藤田 いや、どうなんだろう。笑いに昇華しようとする試みが無効になる、滑る、という契機の方が重要かな。

冨塚 それは手前にある浪漫主義の話と表裏一体で、両方を往復しなきゃいけないという視点だと思うので、私としては、両者が並んでいるのはいいことだと思います。しかしやっぱり二本立てで、二本目がちゃんと『シン・ゴジラ』の話になっていないのは、ちょっとおかしい。

杉田 やっぱり藤田さんは押井守の『ガルム・ウォーズ』を論じるべきだったんですよ。『シン・ゴジラ』ではなく。二〇一六年の『ガルム・ウォーズ』は、ゴジラ的人間の話ではなかったか。カフカの言葉をもじれば、『ガルム・ウォーズ』は「人間(私たち)と人工生命(ポストヒューマン)の戦いでは、人工生命を支援せよ」という話だから。というか、押井守と『ガルム』は僕が近々論じますが。

藤田 そうですかねえ。

藤井 藤田さん的にはそうじゃない?

藤田 巨災対ゴジラの戦いでは、ゴジラの側に付くという意味ではそうですが、論じるべきだったかどうかで言えば……。

杉田 それをむしろ徹底したのは『シン・ゴジラ』ではなくて『ガルム・ウォーズ』なんじゃないですか。違いますか。

藤田 『シン・ゴジラ論』では書かなかったんですが(書いたけど切ってしまった)、『シン・ゴジラ』は、むしろ押井監督が構想していた、「アニメと実写が融合する」世界を実現させたものと考えうるんだと思うんですよ。『ガルム・ウォーズ』と実写版『パトレイバー』のやろうとしたことを、絵や演出においてはより高度に実現させてしまったのが『シン・ゴジラ』だと思う。残念ながら、押井さんは、この作品だけの比較で言えば、負けている。

笠井 僕は『ガルム・ウォーズ』は見られなかったんだよね。田舎に住んでいると、こういうときに不便です。

藤井 『東日本大震災後文学論』の藤田さんの論考だと、巨災対的な「一緒に頑張って日本救おうぜ」みたいな人じゃなくて、そういうポスト・ヒューマンのほうに加担するという意見ですよね。

藤田 うん。そうなんだけど、『ガルム・ウォーズ』を論じるべきかどうかというのは、単に「ポスト・ヒューマンを応援する」という物語の側面だけからは導き出せなくて。『ガルム・ウォーズ』含む、後期の押井作品について語るのは、もう少し考えが熟してからにしたい。
ところで、『シン・ゴジラ』での、ゴジラのしっぽにいたのは、最初のボートから落ちた人だ、って監督が言ったらしいんで。ということは、ゴジラはポスト・ヒューマンですね。

笠井 監督がどう言ったか、ということは自説の根拠にはならないよ。作者は次作について嘘をいうかもしれないし、主観的に真実を語っていたとしても、作品解釈の優先権が作者にあるわけではないから。

冨塚 まあでも単純に、使徒は人間で、ゴジラも人間でという話をしている人はたくさんいますよね。人間とゴジラをつなげるというのは、だから別に突飛な発想ではないと思います。人間あるいはポストヒューマンとしてのゴジラ、という点でいうと、年始のテレビ番組に出演されていた村田沙耶香さんが、シン・ゴジラの感想を話しながら、ゴジラが可哀相と言って目に涙を浮かべていたのが興味深かったですね。やはりこの人はそう観るのか、と。

杉田 ゴジラ庵野さんでいえば「使徒」ですよね。使徒は『ナウシカ』の巨神兵の血族でしょう。もともと庵野さんは『ナウシカ』の巨神兵の部分を担当していた。そして『巨神兵東京に現わる』は『シン・ゴジラ』の一つのプロトタイプなわけだから。ナウシカ巨神兵の戦いでは、巨神兵に味方せよ、というのが押井さん。ナウシカも人民もべつに滅んでいい。そういう可能性を『シン・ゴジラ』が十分に突き詰めた、とは僕には思えないんだよね。その場合、ポスト・ヒューマンというのは今はやりの狭義の人工知能ではなく、僕らを既存の「人間」に束縛する地上のあらゆるもの、国家や資本に対して革命闘争(ウォーズ)を仕掛け続けるという感覚でしょう。ポスト・ヒューマンというのは、ポストを目指し続けるということであって……。

藤田 ひっくり返しますけど、常にテクノロジーや制度を自己発明して、乗り越えることこそが人間だとしたら、ポスト・ヒューマンになり続けることは、たんなる人間なんじゃないだろうかな。

杉田 いや、人間主義ヒューマニズム)的ではない人間がいるんですよ。

藤田 人間観もそうなっているし、生活世界のレベルでも「近代的人間」ではない、っていう状態になっているのはその通りだと思う。社会状況やテクノロジーによって「強いられている」だけかもしれないけれど。僕はポスト・ヒューマンに関しては「ポスト・ヒューマンだからいい」とか「そうならねばならない」っていう立場ではなくて、「そうなってるよね」っていう事実認識のレベルの問題と考えていて。批評文を書くときには、「それを語る言語や認識や制度もアップデートしないと歪みで色々起きるよね」っていう立場です。

杉田 それはそうです。だから身体や無意識の欲望においては、現代政治がどんなに退化し保守化しているようにみえても、われわれは着々と進化していますよね。それは主義やイデオロギーの話を超えている。近代的な進歩のみならず、そんな肉体的・唯物論的な「進化」を本当は、僕らは信じるしかないんだ。そうした進化の可能性をラディカルに突きつめるのが『ガルム・ウォーズ』的な「ウォーズ」の意味であって、それに比べたら『シン・ゴジラ』は、明らかにゴジラよりも、巨災対の人間たちに感情移入しやすく作られている。みんな萌えるわけだしね。「人間的」すぎるんだ。強引に読めばゴジラのしっぽの造形に死者を読み込めるだろうけど、それは庵野がしかけた「罠」に過ぎないのではないですか。ゴジラが形態進化するように、作中では巨災隊も何度か形態進化していく。でもあの巨災隊はまだゴジラの形態進化に匹敵していない。日本的なオタク的ナショナリストの集団でしかない。率直に、僕はそう思う。だから『シン・ヱヴァンゲリオン』の組織論がどうなるかに希望を見ようとするわけ。

藤田 だから僕はゴジラが負けたことに怒っているわけですよ。ゴジラはあの真ん中のレーザーを撃ったあとに、原爆を落とされてさらに進化して、全世界に蔓延して、『ワールド・ウォー・Z』みたいに『ワールド・ウォー・G』になった方が面白かった。
「進化」や「進歩」をどう考えるのかは、なかなかに難しい問題です。繰り返しますが、僕は、それは「してしまう」ものだという認識で、しかし、人間が変動する環境に適応するのはしんどいので反動も来るだろうという立場です。「してしまう」度に、受け止め方に混乱が生じると思うので、人間的な意味の次元におけるそれの咀嚼の試みが、作品や思想として現れているのだろう、という理解ですね。なんか突き放しているように言っているかもしれませんが、批評が介入するべきは、その辺りの「科学」「政治」などの変動と、「人間的意味」の軋轢や齟齬の部分なんだろうと個人的には考え、実践してきています。

* 「ポスト」はいかにありうる/ありえないか?

冨塚 巨災対が映画制作チームの比喩だというのは、多くの人が言っています。庵野さん本人が成熟して大人になったと。私も基本的にそういう見方なんですよ。エヴァンゲリオンの時にうじうじしていたのが、今度は一応みんなと戦って、一定の成果を収めるところまでいった。

笠井 彼は自分で会社を作ったから、そういうことを考えないと会社を運営できない(笑)。

冨塚 笠井さんの論考では、六八年世代が切望していた可能性の父として穂積一作がいるとして、そこに父性の復権を見出されていましたが、それは今の庵野的成熟よりも、もっと革命的な主体を立ち上げなければならない、という話ですか。

笠井 まあ革命的じゃなくてもいいんですけど。はじめたことは最後までやらなければならない。それが前提であれば、戦争をはじめるのも慎重になるでしょう。空気と勢いで、それ行け、とはならない。

冨塚 世代的なご自分の責任感というのはもちろん分かるんですが、六八年的な問題のほうが重要であるというのは、単純な感覚としてちょっとよく分かりません。
私は今回の参加者の中ではSEALDs世代に近いです。現政権を支持しているわけではありませんが、しばき隊なども含めた、近年の社会運動にはまったく共感できていません。それらに左翼的なものの更新の可能性を見出せるのか。ちょっとよく分からない。仲正昌樹の『ポスト・モダンの左旋回』や、最近では「ゲンロン」の批評をめぐる共同討議で言及されていることですが、特に社会運動やデモが盛んになった2000年代以降、明らかに加藤典洋的な意味での陰影やねじれ、屈折の痕跡が見られない、ストレートな語り口での左翼的な言説の復活、という傾向が非常に強まっているように思われます。
あえて採用している戦略であるとは思うのですが、「テロルとゴジラ」における本土決戦へ向かっていく結論も、ネタやメタのレベルを捨象したベタなアジテーションになっている部分があるようにも感じました。余談ですが、近年私が唯一共感した社会運動団体は、2011年にイギリスで活動したDSG(Deterritorial Support Group)です。ネットを積極的に活用した点など、その後のSEALDsなどと共振する要素もありますが、彼らに見られた非常に強いブラックユーモアやねじれの感覚は、素直に戦後民主主義の再興を望んでいるように見えたSEALDsらとは全く異質のものでした。

藤井 僕も世代的にはSEALDsと近いんですけど、彼らはスクールカーストの上位層がそのまま政治活動に参加しているというイメージがすごくある。「俺たちはこんなことをやっているすごいんだ」という自己肯定感。もちろん、そのような人ばかりではないんでしょうが、結局は解散に至ったのを見て、彼らの活動は期間限定の祝祭的なものであって、一貫性のある実存が絡んだものではないんじゃないかって思ってしまいした。またそれゆえに『シン・ゴジラ』で彼らが巨災対に感情移入するのもなんとなく理解できます。だからそういうのは乗れない。

藤田 スクールカーストの下位が反乱を起こしたら参加する? 『桐島、部活やめるってよ』みたいな。

藤井 そっちのほうがいいですね。切迫感を覚えるので。絶対に変えてやるっていう気概がありそうなので。

笠井 僕らも書き方を変えていかないとまずいかもしれないね。藤田君くらいだったら文脈は分かってくれるので省略して書けるけど、さらにまた十歳ほど下の世代になると、知識の前提や文脈が共有されていないから。まあ、昔の人の本を読む時は、誰でもそうだけど。われわれは同時代的な文脈を共有しないまま、カントやヘーゲルを読むわけだから。逆にいえば、カントやヘーゲルに匹敵するくらい普遍的なことを書けばいいのかな。うん、そういうふうに考えることにしよう(笑)。

藤田 本土決戦と焼野原に対する共感はどう?

藤井 理論的には共感しますが、リアリティはごめんなさい、ないです(笑)。

冨塚 共感、というのとは違いますが、映画の前半に本土決戦の欲望へとつながる部分がある、という認識、議論にはきわめて説得力があったと思います。たとえばユリイカの特集でも、笠井さんより十歳ほど下ですが、映画監督の高橋洋さんが唯一本土決戦とのつながりについて言及されています。しかし、高橋さんは、その実現不可能な本土決戦の欲望から、災害対策映画へとずれこんでいく、ヤシオリ作戦以降の展開に対して、限定付きではありますが肯定的でもあります。私も、どちらかというと巨災対プロジェクトX的な?成熟のあり方には肯定的だったので、その点についてはやはり笠井さんとは判断がずれるかな、と思いますが。

笠井 『ビューティフル・ドリーマー』や『パトレイバー2』に熱狂した押井ファンの中心世代は、君たちよりかなり年長だよね。さらにその下になると、もう通じないんだなあ。

杉田 最後に皆さん、一言ずつ。

笠井 さっきのポスト・ヒューマンっていうのは、「人間」とは近代的な概念であるという前提のもとでのポスト近代的人間と、ボスト・ホモサピエンス的問題がごっちゃになっていたような気がします。フーコーの「人間の終焉」は前者ですね。ポスト近代的人間と、AIやサイボーグ化や生命倫理学的問題がらみのポスト・ホモサピエンスという問題は、いったん切り分けて議論したほうがいい。
ポストといえばポスト・モダン。だからポスト・ヒューマンというのは、とりあえずポスト・モダンに対応する。ポスト・モダンということで、最初に予告していた高橋源一郎論について一言、述べておきます。
浅田彰が『構造と力』で出てきた時に長い書評を書いて、日本みたいな構築もツリーもない国で、脱構築とかリゾームとか言っていると、結局、天皇制のような無構築的構築の土着性抑圧に足をすくわれますよ、と予言した。事実そうなったわけです。つまりモダンがないところで振りまわされたポスト・モダンは、プレモダンを補完し、強化する以外にない。東浩紀の「郵便的」も同じことで、字義的なコミュニケーションが抑圧的なまでに強固な制度性として確立していない、日本みたいな腹芸コミュニケーションや空気的コミュニケーションの国では、郵便は配達されるまでもなくはじめから曖昧に届いているわけで、そもそも誤配もへったくれもない。浅田のポスト・モダンと同じことだよね。
浅田彰は八九年時点でポスト・モダンはもう終わり、やはり日本にはモダンが必要だとか言い始めた。しかしそもそもモダンとポスト・モダンという二元論そのものが駄目だ、というのが僕の発想でした。プレモダンとモダンとポスト・モダンがごたまぜになっているのが近代日本で、それを何とかしなければいけない。
芥川龍之介が書いたように、日本には仏や儒教の聖人やキリスト教の神が来てもみんな日本の神の一人になってしまうという『神神の微笑』の問題がある。つまりアニミズム的なんですが、アニミズムの精神性は地球上のほかの地域では一神教やそれに類する普遍的精神によって全て駆逐されてしまったわけが、なぜか日本ではそうはならなかった。もちろん縄文のアニミズムがそのまま残っているわけではない。外来の超越性を吸収して異形のものに変貌した日本型アニミズムに、日本の固有性はあるんじゃないか。本土決戦を呼号していたのにあっさりやめてしまい、昨日まで鬼畜米英だったのに米兵に小石ひとつ投げようとしない、素晴らしい被占領民ですよ、われわれは。戦争の始め方や終わらせ方と、福島原発事故は極めてよく似ている。同じ病気の二つの症状だというぐらい似ている。このニッポン・イデオロギーをなんとかしなければ、われわれは抑圧から解放されえない。
『バイバイ、エンジェル』と高橋の『さようなら、ギャングたち』はタイトルが似ているように、出発点となった時代経験が似ている。でも僕はポスト・モダンには行かなかった。ただし、一神教的な構築が必要だというだけでは駄目なんですね。構築を行い、かつそれを自分で崩すという、右手で編んで左手でほどく二重の作業をしなければ、この国では戦えない。僕が探偵小説を書いたのはそのためなんです。探偵小説は構築しつつ崩すからね。軽くて重いという点も似ています。『バイバイ・エンジェル』は読み捨ての探偵小説だから軽い、しかしテーマは重い。しかし、無構築的構築やニッポン・イデオロギーや日本的抑圧に対する了解の違いが、高橋と笠井を大きく分けている。それが〈六八年〉の記憶をめぐる対立になって、いまや極大化している。こうした点について、杉田さんの高橋源一郎論を読んで考えました。

杉田 今の笠井さんの「ポスト・モダン=ポスト・ヒューマン」批判は、高橋源一郎への批判を通して僕への批判を含んでいると思うので、最後に応答します。僕は笠井さんのアニミズムや日本型ナショナリズムの批判に対しては、ちょっと違う意見を持っています。あり得ない本土決戦や68年革命の再来を目指すよりは、自分たちが革命的人間になるとはどういうことか、そこからどんな集団や組織を作れるのか、そういうことを考えた方がいいのではないか。あえて対立軸を示すと、僕にとっては、一九六八年革命よりも「七〇年的なもの」が大事です。つまり、ウーマン・リブや障害者運動以降の歴史が実践してきたもの。「七〇年」は新左翼/六八年の批判であると同時に、男性・健常者中心の既存の「人間」の概念を拡張し、身体や生命の新たなポテンシャルを解き放とうとするものだった。
土本典昭水俣病患者の話もしましたが、映画はテクノロジーの進歩によって、戦争と虚構、消費と倫理が入り雑じるような新しい官能や享楽が発見され、人間的感覚が拡張されていくわけですよね。宮崎駿高畑勲の作品もそうだけど、アニメとはアニミズムであり、非生命の中に生命を感じとる表現形式だとすれば、その中には高次元のアニミズム、つまり日本的イデオロギーとは異なる「物論的なアニミズム」の可能性が含まれるのではないか。高橋源一郎でいえば、それは生きた人間と小説内のキャラクターがフラットに雑然となっていくポストモダン感覚とも連続しているかもしれない。
つまり、「70年」的なradicalを、僕は現代文化の中で高次元のアニミズムとして開き直したいわけです。岡倉天心は、日本の地理的・地政学的な条件(宝物館)によって日本の美の特権性を正当化したけれど、それを「日本は何でも受け入れ、何も受け入れない」という日本特殊性論へ閉じるのではなく、アジア的交通としての雑(丸山真男加藤周一)へと開いていけないか。アジア的な雑種性の一部分として「日本」を捉え直せないか。事実、宮崎さんだけではなく片渕須直さんを含め、ジブリ的なものの最良の可能性の一つはそうしたアジア的な交通(雑種的な多元性)の方へ、日本的なナショナリズムを解き放とうとしたことでした。最近だと思弁的実在論のシャヴィロの『モノたちの宇宙』が唯物論的なアニミズムの可能性を問い直しているけど、僕はそれを〈70年〉的なラディカリズムに接続して更新したい。
さっき、僕らを既存の「人間」に縛りつけるあらゆるもの、国家や資本に対して戦争を仕掛けて「ポスト」を目指し続けるのがポスト・ヒューマンだと言ったけれども、その意味では「絵を描く」すずさんもゴジラ的人間の一人かもしれない。はっきりいえば、『シン・ゴジラ』のどの登場人物たちも(ゴジラを除いて)、『君の名は。』の男女も、こちらを脅かすような凄みがないんだよね。すずさんには不気味な凄みがある。虚構の側からむしろ僕らのこの現実が永久革命されていく、というような過剰さを僕はフィクションの中に欲しているところがあります。
僕の中でも未整理だったけど、今回の座談会を通して、僕にとって大切なのはオルタナ自己啓発(坂口/村田)でもないし、大衆蜂起による社会変革(革命論)でもないんだ、と気付きました。つまり、永遠の自己変革+社会変革の相互作用が必要であり、革命revolutionではなく変革reformが必要だと。この世界の技術的な下部構造の進歩を受け止めながら、自己変革(ポストヒューマン+ゴジラ的人間)を起こし、それによって世界そのものの変革を試みていくこと。宿命的で唯一的なこの世界(物自体的+偶然的な世界)の苛酷さを認識しながら、自己を変革し、社会を変革すべくコミット=相関していくこと。そんな感じなのかなと思った。
現実の次元においてはリベラルな撤退戦と持久戦を続ける以外ない、けれども他方で、フィクションの次元においてはradicalな変革を徹底的に夢見続けていくということ、そうした分裂的な実践が僕にとっての「政治」なのかもしれない。そんなことも思いました。戦争と虚構をめぐる政治的変革の理論の準備をはじめなきゃ、と思いましたね。

藤田 誤解されがちなんですが、僕は虚構のキャラクターと人間が近づくことや、虚構と現実の区別がつかなくなる状況を完全に肯定はしていないんです。『シン・ゴジラ論』も『東日本大震災後文学論』の原稿もそうだけど、政治とフィクション、現実と虚構などが区別がつかなくなっていくポスト・トゥルース的な世界の中で、どういうふうに生きるべきか、どういうふうに世界を見るべきか、その中でどう評論すべきか。そういうことをずっと考えて、書いてきたつもりです。
いま杉田さんがおっしゃったような可能性を僕も考えなくもない。しかし、具体的なビジョンが自分の中でもまだ掴めない。どういう社会を構想し、モデルとして提示できるのか、そろそろ本気でそういうことまで考えないといけないと思っています。
虚構と現実が混濁していくとか、あるいはキャラクター的なものに生命感を感じるような、そういうものから何か新しい人間になっていくというのは、もう事実性として、多分そうなんだろうというのが僕の実感です。ただし、その時にどう変わると良いのか、どう変わったら問題があるのかについて、もっと細かい微妙なさじ加減というか、腑分けというか、解像度の高さが重要というのかな。そのことをもっと細かく見ようというのが、僕の今回の『シン・ゴジラ論』のやりたいことでもありました。その点では、『虚構内存在』からずっと、同じことをやっていますね(笑)。

冨塚 お二人とも、今回の本で山本七平の議論を引いて、日本的な「空気」を批判されていますね。笠井さんは山本的な「空気」をニッポン・イデオロギーの象徴の一つとして以前から批判されているし、藤田さんの場合は、「空気」の支配力が強まりつつある状況を危惧されているから、逆にいろいろな解釈を並置して並べている。
けれども私は、やっぱり「空気」、そして「現実」それ自体は簡単には変わらない、という感覚が強くあります。しかし、「空気」や「現実」を変えられずとも、個人や小集団で出来ることが何もないわけではない。その可能性は『この世界の片隅に』だったり、坂口恭平村田沙耶香の作品内にあると思います。『東日本大震災後文学論』に寄せた原稿では、「空気」や「現実」の同調圧力の強さを受け流しつつ、何ができるか、その可能性をちゃんと考えてみたかった。
最後に、政治とシン・ゴジラの関わりについてもう少しだけ。笠井さん、藤田さんのお二人が独自の政治的主張を作品に読み込んでいく際の、文体の問題がやはり私には気にかかりました。国家や戦争、天皇といったトピックについて書くのであれば、対象がエンタメ作品であるとはいえ、かつて加藤典洋が『敗戦後論』で論じたように、陰影や屈折を含んだ文体というものが必然的に要請されるのではないか。その点で、ベタとネタとメタが常にないまぜになっていかなければならないところ、結論部だけを抜き出せば、今回の笠井さんの論はベタに、藤田さんの論はネタにそれぞれ寄りすぎているきらいがあるように思われ、その点には違和感が残りました。とはいえ、『文化亡国論』に収めれた対談の時点からお二人が「右傾エンタメ」に批判的であったことを考えれば、今回の仕事はその延長線上での新たな展開であり、杉田さんの感想を含む、シン・ゴジラを右傾エンタメとして捉える視点に対するオルタナティブとしても、重要な仕事であると思いました。

藤田 どうだろう。「空気」と「現実」を併置していいものかな。「空気」に関しては、ぼくが生きてきた三十年ちょっとの人生でも、「全然変わるな」っていう印象です。震災のような外部からの理由にせよ、政治やテクノロジーや経済が理由にせよ。ただ、政治を動かしているのも、テクノロジーを開発しているのも、経済に関わっているのも、人間だからね。環境を変化させているのは人間なんだ。だから、空気は変化させられるんだよ。個人レベルで一挙に変えれるかは別として、原理的には人間が変えていけるものだよ。
「ネタ」「ベタ」「メタ」がない交ぜになるのは、日本浪曼派がそうだったっていう指摘もあるので、きちんと検討しないといけないかもね。『シン・ゴジラ論』と『東日本大震災後文学論』では、僕は結構意図的に、「交わらない」ような並列性を「そのまんま」にしようっていう構成を選んでいます。矛盾や相克が「解決できない」ことに留まり続けるべきなんじゃないかと思うので。ヘーゲル的な弁証法は信じていないし、歴史がそうやって動くことに過大な期待は賭けない。あれこそ矛盾や多様性を一体化させようとする悪しき世界観、歴史観だと思うので。

藤井 自分も富塚さんの感覚は共有します。この日本的空気感の変わらなさに対して諦念というか、順応していくしかないんじゃないか、という感覚がリアリティとしてあります。そしてその方が「気持ちがいい」のではないかという懸念もある。しかし、同時にそのことによる「ファシズム化」が起き、あらぬ方向に行く怖さもあります。結局、各人に主体がないわけですから。
最近思うこととしては、この実存を踏まえた上で新たな生き方を模索できないか、ということです。自己が分裂してアイデンティティが崩壊している中で、協調主義的全体主義に流されず、抗うような自己をどうしたら考えることができるか。加えてそれはかつての家父長的な「強い自己を作れ」とはまた違ったものでありたい。そういう意味ではポスト・ヒューマン的なんでしょうが、その実質性をもっと具体的に、アクチュアルなものとして提示したい。おそらく、そうしないと社会運動にすら接続されないと思います。「とりあえず、今の自分状況を受け入れて過ごしていこう」といった宿命論的になるしかない状況において、それを突き動かすような考えを一歩でいいから進めていきたい。そういった可能性があるにもかかわらず、開けていないのであればそれは「貧しい」と思います。もちろん、絶対性において世の中に順応していくことは幸福量をあげるのかもしれません。ですが、いつか歪みがくるのではないかと思っています。
今はまだ提示できるのが抽象的な言葉でしかないですが、それを少しずつリアリティのあるものとして提示していければと思っています。

<終>

(この記事の一部は、笠井潔藤田直哉杉田俊介+冨塚亮平+藤井義允「『シン・ゴジラ』を撃て!――笠井潔『テロルとゴジラ』、藤田直哉シン・ゴジラ論』をめぐって」(「図書新聞」3292号(2月18日発売号))に掲載されました。)