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宮崎駿『風立ちぬ』【評者:中里昌平】

だらしない「美しい夢」


崖の上のポニョ』以来、五年ぶりとなる宮崎駿の新作である本作は、すでに知れ渡っているように、作家・堀辰雄の自伝的小説『風立ちぬ』の筋立てを借りつつ、零式艦上戦闘機、すなわち今日「零戦」の名で有名な戦闘機を開発したことで知られる航空技術者・堀越二郎の半生を描いている。宮崎が実在の人物をモデルにし、なおかつ『コクリコ坂から』に続いて史実をもとにして映画を作ることは(『コクリコ坂から』は企画・脚本)、主演声優に「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズの監督である庵野秀明を起用したという情報とともに、衝撃をもって伝えられたことは記憶にあたらしい。



宮崎の年来のライトモチーフであり続けてきた「少女」「軍事」「飛行機」などが驚くほど前景化し、しかも日本の戦闘機史上もっとも知名度の高い零戦開発に至るまでの物語であることも鑑みると、戦争反対の立場を表明してきた宮崎が、そのじつミリタリーマニアでもある自身のその矛盾をどのように作品に消化/昇華するのか、また、ファンタジーを得意としてきた宮崎が大正から昭和にかけての日本を舞台としながらも、戦争と貧困、そして震災をも描くことを通じて、言い換えれば、まぎれもない「現在」の映画として作られることで、本作が彼のフィルモグラフィーのなかでもかなり特異な位置を占めるであろうことは、公開前から容易に予想できた。



ともあれ、本作は史実に基づくかたちで三十年という長いスパンを扱っている。それゆえ宮崎が、歴史上の出来事から何を取捨選択して描くか、蓮實重彦ふうに言えば、そこにいかなる「選別と排除」の論理が働いているかを丹念に見ていくだけで、かなり有益な仕事になる気がしてならず、筆者自身たいへん興味があるのだが、それを行なうには自分の力不足を認めないわけにはいかない。そこで彼の作品を紐解きつつ、本作の魅力について少し考えてみたい。



ところで、誤解を恐れずに言えば、本作は驚くほど、だらしない映画でもあった。ここで言う「だらしなさ」とはさしずめ、みずからの欲望にかぎりなく忠実であることの言い換えぐらいの意味だと思ってほしい。そして、宮崎における「だらしなさ」とは、必ずしも出来の悪さを意味しないことは急いで強調しておかねばなるまい。なぜなら筆者にとり、この「だらしなさ」こそが時として宮崎作品の最大の魅力であるからに他ならず、さらに言えば、これから見ていくように、本作においてかつてなく極まる宮崎の「だらしなさ」こそが、宮崎作品の大きな核心のひとつであるとも考えているからだ。順に見てみよう。



つねづね「アニメは児童のものである」と言い、それをみずからに課してきたとされる宮崎だが、本作や『紅の豚』は、その禁を破って制作したことを彼は公言している(『紅の豚』にかんしては、作ってしまったことをしばしば後悔さえもしているという)。なるほどこの二作は、ミリタリーを始めとする自身の趣味が恐ろしく素直に披瀝され、それゆえ「プライベートフィルム」などと揶揄されることもある、要するに、だらしのない作品であることは事実だ。けれど演出の素朴な悦びのようなものに満ちたこの両作からは、宮崎が本当にやりたいことをやっているという無邪気な感覚がじつに率直に伝わってくるはずだ。



宮崎は本作の製作意図について「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」と語っており、そして、それをプロデューサーの鈴木敏夫は宮崎の「美しい夢」と言っているが、そんな「美しい夢」は、そうであるがゆえに、いわばある種の「だらしなさ」と裏腹のものとして存在している。



宮崎が「アニメは児童のものである」と言うとき、それは彼にとって職業監督としてのみずからを律するための方便であり、したがってそれは、宮崎なりの倫理であるとも言えるだろう。ところが、『紅の豚』でその禁忌を犯してしまってからは、そんな宮崎の倫理性は、「飛ぶこと」を前景化させてしまったことからの反動からか、言うなれば「飛ぶこと」を抑圧することでかろうじて確保されてきたように思える。どういうことか。


  • 歩くことの倫理

宮崎の監督作では『紅の豚』以降、主人公は飛ぶ手段(箒、飛行石、飛行機、etc…)を喪失してしまう。『もののけ姫』から『崖の上のポニョ』まで、主人公たちはみな「歩くこと」を強いられているし(あるいは『風立ちぬ』も、あくまで主人公は航空技師であってパイロットでないことから、この系統に連なっているとも言える)、『耳をすませば』や『コクリコ坂から』といった企画・脚本作品においても、坂道や階段といった舞台装置を巧みに利用することで、宮崎はキャラクターたちに「歩くこと」を急かし続けていた。



いま筆者は、「『紅の豚』以降、主人公は飛ぶ手段を喪失してしまう」と書いたが、より正確に言えば、『もののけ姫』におけるヤックルや『千と千尋の神隠し』のハクなど、かろうじて「飛ぶこと」のできるものたちの力を借りて、主人公もまた「飛ぶこと」をからくも可能にしていたと言えるだろう。



さて、そんな「歩くこと」のイメージに取り憑かれ、また貫かれながら、けれど「飛ぶこと」と「歩くこと」の関係性をも模索した『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』のいわば集大成として、おそらくここでは『ハウルの動く城』を位置づけられるだろう。作品の随所に坂や階段が配置され、それを昇降するだけでスペクタクルを演出しうる宮崎のその手腕にはあらためて脱帽するばかりだが、ところで、鳥人間のようなすがたで「飛ぶこと」もできるハウルが、しかしそのたびに毎回絶対にボロボロになって帰ってくるところを見るかぎり、宮崎が『紅の豚』以降のみずからに課した「飛ぶこと」への抑圧と「歩くこと」の強制は、じつに過酷きわまりないと言える。だからこそ、『ハウル』の冒頭や中盤にていねいに挿入されている、倫理の強いる抑圧的な「歩くこと」と、だらしのない「飛ぶこと」が幸福な蜜月を遂げ、それと同時に拮抗さえもしている、ソフィーとハウルの空中散歩のシーンは、じつは最高にスリリングな瞬間として存在している。



いずれにせよ、一見すると「歩くこと」の倫理的な抑圧性から解き放たれたかに思える『風立ちぬ』は、「自身の趣味を恐ろしく素直に披瀝」するとともに、夢(「飛ぶこと」)と現実(「歩くこと」)が入れ子的に境界侵犯しあっていくなかで、あらゆる約束事や政治的な正しさなどからは、およそ無縁な場所に辿り着いてしまっている。



その意味で、もはや宮崎史上もっともだらしないと言っても差し支えないであろう本作は、二時間という尺でありながら、なお大胆な省略に満ち、それは時にカット構築のぎこちなさとして表れてさえいるものの(尺の関係で、まだまだ描き足りなかった?)、じつに楽しげにキャラクターを動かし、浮遊と滑空の感覚のもとに「ひこうき」を描くことで、久方ぶりに宮崎の素直な「飛ぶこと」がスクリーンに戻ってきたことそのこと自体は、少なくとも筆者にとってはとても喜ばしい出来事だと言っておきたい。


  • パラソルのゆくえ

ところで、草原を吹き渡る微風を孕んで天高く舞い上がるパラソルもまた印象的であった本作だが、そのようなパラソルが宮崎作品のなかにかつて一度だけ出てきたことがある。それは、これまた『紅の豚』の冒頭、アジトで昼寝をしている主人公ポルコのために日陰を作っているそれである。



そのパラソルは、仕事の依頼を受けたポルコの操縦する目にも鮮やかな紅の飛行艇が、アジトの外に繋がる洞窟に差し掛かったとき、プロペラの巻き起こした風が椅子に結わえてあったそれをいとも容易くほどいてしまい、ふわりと空中に舞い上がらせてしまう。



あるいはもしかすると、宮崎にとってパラソルとは、「だらしなさ」の産物ないし象徴なのかもしれないが(『ハウル』にて出てきたものはパラソルというより、むしろアンブレラであったことに注意されたい)、ともあれ『紅の豚』の画面上からフェードアウトしていくパラソルは、ここでもまた風を孕んで舞い上がり、いずこかへ飛んでいこうとするものの、そのゆくえはついぞ描かれることはなかった。



そんなパラソルが、いわば時代と場所と作品を越えて、遠く日本の航空機技師と薄幸の少女のもとに辿りついたが、風を孕んで舞い上がりかけるところで終わった本作のパラソルは、はたして何処に飛んでゆくのだろう。