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巽昌章氏の「21世紀本格2」に対するご意見について【飯田一史】

飯田一史


巽昌章氏(https://twitter.com/kumonoaruji/ )よりTwitter上で拙稿「21世紀本格2」(『21世紀探偵小説』所収)についてのご意見をいただきましたので少し応答させていただこうと思います。

巽氏が拙稿にくださったコメントは(文章の巧拙に関する指摘や、評論家としての島田荘司氏に向けるべき批判が私に向いている脳科学云々の部分については議論に関係ない、あるいは答えようがないので無視します)

  • 作家にレッテルを貼るのは良くない。
  • 切り分けるフレームから零れるものが大事。
  • 使っている分析のフレームワークが古い。

論点をまとめるとこの三つに集約できます(私が気になったところは)。
ひとつずつ答えてみたいと思います。

  • レッテルを貼るのは良くない

これに関しては、批評とは多かれ少なかれ勝手に整理してまとめる作業なので不可避です。たとえば小島正樹氏は「やりすぎ」なのがよい、とする巽氏の発言も別のレッテルですし、何かひとつかふたつのレッテルで作家のすべてが語れるはずがありません。もちろん、レッテルの精度や、どういう軸で判断すべきなのかについては議論できます。
そしてその判断基準は個別の論(者)ごとの目的からブレークダウンして降りてくるものです。

拙稿の目的は「21世紀本格」という概念の吟味にあり、暫定的に何人かの作家を島田荘司スクールとしてくくってみたものの、べつだん島田派として精緻に整理すること、個々の作家を掘り下げて論じることをあの原稿では主たる目的にしていません。主眼はいくつかの作品、作家、批評から「21世紀本格」という考えの枠を広げるヒントを得んとすることにあります。
このあたり、誤解があるように思います。
コンセプトをアップデートすることに主眼があり、個々の作家の作風把握の正確さを第一の目的にした論考ではありませんので、レッテル云々は論考自体のイシューとはさして関係ない論点だと思います(巽氏の批評家としての倫理において重要なのかもしれませんし、あるいはたんにレッテルを貼る手つきに対する好き嫌いの話なのかもしれませんが、そうした問題意識や感覚は拙稿では共有していません)。

  • フレームから零れるものが大事

一般論として、なんらかの分析のフレームを用いるかぎり、つねにフレームから零れるものがある、という水準の話ならばむろん賛同します。これまた先のレッテル貼り同様に、不可避ですのでわかったうえでやっています、という話で終わりになってしまいます。
拙稿は、そのフレームをつくりかえること、網の目のあらさを変更しようというのが目的ですから、網ですくいきれないものがある、と言われてもそれは網をつくろうとしてる私に言うことではなく、網ですくえないものを獲りたい漁師に言うべきことです。

個別具体的な今回のケースに限定しての話と解釈すれば次の

につながります。枠組みが間違ってるからすくえないものがある、という話は、網か網無しか、ではなくどの網がベターか、という議論です。
ご指摘のとおり、who/why/howのフレームは古いといえば古いでしょう。ただし、あたらしく使える枠を示さないで「古い」とだけ言っても現実的、実用的ではありません。どんな枠組み、価値基準がより良い(あたらしい)のか示さないで古い、だめだと言ってもさしあたり使えるのが古いものしかないならそれを使うほかない。網無しで魚を獲れるならば話は別ですが。

では巽氏はどんなフレーム、価値基準ならよいと言っているのでしょうか。
読後にいわく言いがたい印象を残す「謎-解明-謎」という構造、およびやりすぎ/過剰さという価値基準ですね。
こちらのほうがある種の21世紀性をすくうのにふさわしいと巽氏は主張しているように見受けられます。
who/why/howに整理するのではとらえがたい『眩暈』の魅力に関するtweetには巽さんの価値観がよく表れており、その判断軸を含め、議論も説得的に感じました。
これを用いればある種の実存的な感覚、(あまりこういうことばは使いたくありませんが)“文学性”をすくうことができる、かもしれないということには同意します。
ですが、これ自体はあたらしい判断軸ではありません。時代精神を判断するには別の軸を導入するか、時代別の比較を用いることになるかと思います。であれば、who/why/howで整理することが古い(21世紀性をすくえない)、という批判は、批判としては不適切です。巽さんが用いている謎-解明-謎にしろ、やりすぎに目を向けることも、あたらしくはないからです。
あたらしさをすくうに足るあたらしいフレームを提示していない。
思うに、who/why/howで切っても21世紀性は捉えられない、わけではなく、巽さんが見たいものはそこにはない、という話なのではないでしょうか。見たい部分、強調したい部分の違いですね。

繰り返しになりますが、拙稿では21世紀本格というコンセプトをアップデートすることに目的がありました。
21世紀性を測る指標として、私はwho/why/howにPESTをかけあわせたマトリックスを用いましたが、どんな表象なのかという外観のみならず、その迫力や濃淡を表現する「やりすぎ/過剰度」を加えることもできますし、謎-解明-謎を時間軸別に切って比較する、という見方を付け加えることもできます。

私の論考と巽氏の議論は相反するものではなく、両立するものだと思います。巽氏の提出した論点は、私が提案した「21世紀本格2」という枠組みを補完し、2.1にバージョンアップしてくれるものだなと感じました。

啓発されるところの多い貴重なコメントありがとうございます。

21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊

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