限界研blog

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『プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近』を刊行いたします

来る12月15日、限界研は『プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近』と題したゲーム論集を刊行いたします。

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デジタルゲームというメディア固有の体験は我々の世界観をどのように変えるものなのか。
物語や表現を分析する従来の批評の枠組みだけでは、ゲームとは何かを論じることは容易ではない。
インタラクティブ性に代表されるゲームの特質を解読するため、これまでにない視点を開拓した新時代の評論集。

プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近

プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近

目次

はじめに ゲームと現在/竹本竜都

第一部 ゲームとシステム

壁でできた世界―「死にゲー」からみるデジタルゲームの難易度論/竹本竜都
バトル・ロイヤル形式が抱えているルール上の問題点とその解決法について/藤田祥平
自律する〈増分〉と〈育成〉のゲーム―放置ゲーム論/北川瞳
反転する原作―ゲーム化論/藤井義允
「ゲームとシステム」を考えるための更なるキーワード

第二部 ゲームと身体

リアリティ・ミルフィーユに遍在するVTuberたち―複数キャラクター同時プレイ論/宮本道人
21世紀版「もの」への問い―「艦これ」と「FGO」を通して/小森健太朗
デジタルゲームのむなしさと人生のむなしさ/草野原々
記憶に触れること―『PRY』とタッチスクリーンの詩学/冨塚亮平
「ゲームと身体」を考えるための更なるキーワード

第三部 ゲームと社会

ディズニーツムツムとこれからのメディアミックス/蔓葉信博
「規則」と「約束」―『ストレンジャー・シングス』とゲーム/冨塚亮平
パチンコのゲーム性の変遷―演出・ボタン・規制/西貝怜
不幸な未来も「ゲーム」が作るのか?―「ゲーム」と「政治」に関する批判的ノート/藤田直哉
「ゲームと社会」を考えるための更なるキーワード

第四部 ゲームとゲーム

「カウンターゲーミング」と「メタフィクション」―批判的ゲームの可能性/藤田直哉
作品を乗っとる勲章―デジタルゲームの【実績】論/北川瞳
ModderはCODEと戯れる―ゲームのアーキテクチャとMOD論/竹本竜都
叙事的ゲームのインターフェース―そのボタンは有機的タイムマシンを起動する/宮本道人
「ゲームとゲーム」を考えるための更なるキーワード

おわりに ゲームと批評/宮本道人

『プレイヤーはどこへ行くのか』執筆者一覧

竹本竜都─たけもと・りゅうと
一九八八年生まれ。テレビドラマ・映画助監督。インターネットサーファー・ネットカルチャーウォッチャー。フリーランスの立場を利用し、一年の半分ほど働かずに日々インターネットとゲームに勤しんでいる。学問的・専門的バックグラウンド:特になし。主な寄稿先に「ユリイカ」「ジャーロ」等。好きなゲームは『Wolfenstein:Enemy Territory』。https://twitter.com/17noobies


宮本道人─みやもと・どうじん
一九八九年生まれ。科学文化評論家。東大物理学専攻博士課程、リサーチアシスタント。変人類学研究所(学芸大×NPOこども未来研×QA社) 主任研究員。STS NetworkJapan 代表。JST RISTEX HITE「想像力のアップデート:人工知能のデザインフィクション」研究開発実施者。神経科学を研究しながら、新しい学問の形を提案すべく執筆活動。著書に『フィールド写真術』(分担執筆、古今書院)など。主な寄稿先に「ユリイカ」「週刊読書人」。漫画・舞台作品にも協力。好きなゲームは『ドラクエ6』。https://twitter.com/dohjinia

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『東日本大震災後文学論』出版記念イベント

2017年8月30日に限界研編『東日本大震災後文学論』(南雲堂)の出版を記念してトークイベントが開催されました。限界研メンバーである杉田俊介、藤井義允、藤田直哉に加え、ゲストに編集者・文芸批評家である仲俣暁生さんを迎え、「いま、震災後文学を読む」と題して議論をしていきました。

東日本大震災後文学論

東日本大震災後文学論

仲俣暁生×杉田俊介×藤井義允×藤田直哉
「いま、震災後文学を読む」
東日本大震災後文学論』(南雲堂)刊行記念
http://bookandbeer.com/event/20170830_bt/

「震災後文学」について、年代を超えて様々な意見が出され、「震災後文芸」、死者復活論、東北ユートピア論、ディストピア化する世界など、多岐に及ぶ議論がなされました。

今回の限界研ブログでは、そこで配布されたそれぞれの登壇者が選ぶ「いま、読むべき震災後文学リスト」を特別掲載したいと思います。本リストは各登壇者が考える「震災後文学」をそれぞれの視点から五冊選び、論じたものになっています。

「震災後文学」とは一体どのようなものなのかを知れるリストになっています。是非ご笑覧いただけたらと思います。

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座談会 東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後2)

座談会 
東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後・2)

参加者:笠井潔×杉田俊介×冨塚亮平×藤井義允×藤田直哉

東日本大震災後文学論

東日本大震災後文学論

* 『シン・ゴジラ論』Bパートをめぐって――そして『ガルム・ウォーズ』

杉田 藤田さんはまとめサイト的な『シン・ゴジラ』に対して、批評の側からまとめサイト的に振る舞っている面があると思うけど、もちろんそれだけだとは全然思わないんですよね。やっぱり藤田さんがコミットする価値判断は、最後のゴジラのしっぽの話だと思う。ゴジラのしっぽは死者たちの群れであり、それは東北の震災の犠牲者や、原発事故の被害者たちの怨念を象徴するものであると。そうしたゴジラが象徴的に、東北から東京へとやって来て、不公平を是正しようとするわけです。お前ら東京人も、冷温停止したゴジラと共にずっと生きろと宣告するかのように。「東京に原発を!」じゃないけれども。
あの判断が藤田さんに固有の、一番強い解釈だと僕は思った。それは「政治か芸術か」「倫理か美か」というアングルとしての対立を打ち砕くような、むしろそれらが反転しあってある種のメタ快楽を、メタ倫理を生み出していく……そしてゴジラが一種の宗教的な対象になっていく。それは現代的な美学論+政治論の一歩、さらに先を目指し、切り拓くような、藤田直哉という批評家の新しい理論の提示であり、だからこそ、僕は藤田さんの今回の『シン・ゴジラ論』を高く評価します。
しかしその上で言いたいのは、藤田さんの論が今回、ゴジラをある種の消費可能な宗教的対象として捉えてしまうのは、どうなんだろうか。天皇や国体の話が出てくるけれども、ある種の靖国神社みたいな話になってしまっていないか。つまりゴジラの存在を、ある種の飼いならされた死者たちの次元に落としこんでいないか。実際に、現実のネトウヨもオタクも安倍晋三も『シン・ゴジラ』を喜々として享楽していますよね。彼らの精神は全くこの映画によって揺るがされない。内省もしない。するとこの映画は、東北の死者や犠牲者の怨念によって東京を脅かすどころか、歴史修正者たちに都合のいい、靖国的な、死者たちの国家利用の、鎮魂(たましずめ)の媒体として機能してしまってはいませんか。

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